百葉箱

百葉箱2020年1月号 / 吉川 宏志

2020年1月号

  いずれくる兵役ならん創一朗シンガポールで十歳になる
                            石井久美子

 シンガポールに住む孫なのだろう。十八歳から二年間、軍事訓練の義務があるという。そのときを案じつつ、遠くから見守るしかない。人名が効いている。
   
  渡し舟の舳先はそんなにいい場所かたがひに狙ふ鴉とかもめ
                              柳田主於美

 「渡し舟の舳先」という情景がよく、のどかな味のある歌。「鴉とかもめ」とぽんと置いたような結句にもおもしろさがある。
 
  棒切れの好きな男(を)の子が森をゆく木橋に来たら流すよ、きつと
                                 大地たかこ

 男の子は棒が好き。その生態を楽しく見つめている。弾むような結句に生命感がある。
  
  秋彼岸におくれて参る黒谷を「解剖体祭」の案内板立つ
                            西川啓子

 黒谷は墓地の多い地で、京大病院に献体した人の慰霊祭が行われる。題材が印象的だが、「黒谷を」の「を」の使い方など、細部にも工夫がある。
  
  ケヤキには葉が柔らかし忘れたよ君の生まれる前の光を
                            中本久美子

 子が生まれる前の記憶は、どこかおぼろになっているのだろう。「忘れたよ」と口語が挟まれるリズムに、温かい体感がある。
 
  るとぐるとそぶの送りで同じ字でいじるまさぐるもてあそぶとは
                                白澤真史

 「弄る」「弄ぐる」「弄そぶ」。謎かけのような歌だが、平仮名の多い調子により、やわらかな不気味さが生まれている。
 
  引出しに手袋見つけはめてみた夫の手こんなに大きかったか
                              竹内多美子

 手袋という物に即して歌い、亡くなった夫を懐かしむ思いが、素直にあらわれている。
 
  バラバラになった光を虹と呼ぶ十月の午後の傘を乾かす
                            大橋春人

 虹を「バラバラになった光」と捉えたところが新鮮。下の句のさりげない収め方もよい。
 
  苦しみは等しく巡る ペタペタと餃子の皮に水を広げる
                            西川すみれ

 上の句は概念的だが、運命的な苦は誰にも平等に訪れるという意味か。下の句の具体性が魅力的。丁寧に食べ物を作ることで、人は苦を乗り越えていく。
 
  光とはしなやかな筋 この星も見えざる腕の球体関節
                           田村穂隆

 「球体関節」は、人形の関節部に使われる木の球。地球をそれにたとえている発想が、スケールが大きく、美しく、凄い。謎めいた歌だが、何かに操られた世界に生きている虚無感も伝わってくる。
 
  歩けない夫の避難の方法を考へる夜も尽きたり今は
                          西山千鶴子

 歩けない夫を連れてどう避難しようか悩んでいた。しかし、夫が亡くなり、その悩みも消えた。「尽きたり今は」という結句に、言葉にならない思いがこもる。
 
  迷うのも幸せだろう何回もめくるメニューが揺らす前髪
                            榎本ユミ

 一つの幸福の形が、端的に描かれている。わずかな風に揺れる前髪が、印象に残る。

ページトップへ