八角堂便り

長塚節の歌碑 / 小林 幸子

2019年12月号

 本年三月三日、選者派遣で福岡の赤煉瓦歌会に出席した。会場は福岡市文学館(赤煉瓦文化館)、明治時代の建築家・辰野金吾の設計によるドームや尖塔の美しい建物である。同じく辰野の設計による東京駅に似ている。日本生命の九州支店として建てられたもので、旧応接室の暖炉や高い天井、旧検査室の波打つ硝子窓からみえる水辺の風景など、百年前の時間も混じっているような雰囲気がある。部屋が広いので、声の拡散を防ぐためにタピストリーの懸けられた黒板がしずしずと出てきて印象的な歌会になった。
 博多のひな祭りらしい会食をいただいたのち、かねてから訪ねたいと思っていた長塚節の歌碑に案内していただいた。
 歌碑は、節の終焉の地である九州大学医学部の構内にある。ここに九州帝国医科大学の南隔離病棟があった。花崗岩の歌碑には「しろがねのはり打つごとききりぎりす幾夜はへなばすゝしかるらむ」という「鍼の如く」の一首が自筆の文字で刻まれている。
 茨城県結城郡国生村の人・長塚節がなぜ遙かに遠い九州の地で生を終えることになったのか。明治四十四年、咽頭結核を患った節は婚約者の黒田てる子に別れを告げ、翌年春、九州への旅に出る。夏目漱石の紹介状を持ち、九州帝国医科大学教授の久保猪之吉の診察を受けるために福岡を訪れた。久保は歌人で、夫人のより江は松山出身で漱石と縁があった。
 より江は俳句をたしなみ、福岡での節の精神的支えになった。熊本、鹿児島、長崎など九州を巡る旅をして帰郷したのは九月。旅が生きている証のようだ。
 大正三年、再会した黒田てる子との愛情を、その兄の反対により断ち切り、六月に九州へ向かう。福岡市外東公園の平野旅館を定宿として(今はもうない)病院で治療を受けつつ日向を旅した。節は青島の異界のような風景に魅かれていた。
 病は肺を侵し、旅館と病院をようやく往復していた節はついにひとり異郷の宿に横たわる身となった。年が明けて九州帝国医科大学の南隔離病棟に入院する。
 弟順二郎や故郷の父も駆けつけ看病を続けたが、故郷へ帰りたいという願いは叶わず大正四年二月八日、三十七歳で世を去った。死が迫る日に、節は柿を食べたいと言った。季節外れの柿を捜して手を尽くしていたが、死の前日東京から届いた。節はうまいといって食べたという。
 故郷の家の庭には柿の木があってたくさんの実がなったのかもしれない。
 歌碑の前で記念写真をとっていると駐車場から車が出てくる。「ファミールが来ますよ」と声がする。その明るいひびきが、節の夭折の口惜しさと遺された歌の澄み透った調べと気韻を思わせた。
  白埴の瓶こそよけれ霧ながら朝はつめたき水くみにけり
                       (『長塚節歌集』「鍼の如く」)

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