短歌時評

普通ということ / 小林 真代

2025年11月号

 総合誌などを読んでいると、対談や講演が多い。読みやすいようにいくらか整えてあるとしても、生で語られる言葉の勢いや、語り合う場の空気を感じられるのはうれしい。
 「歌壇」で掲載中の講演録「協会賞歌集を読み返す」は、現代歌人協会が行っている公開講座を文字に起こしたもの。現代歌人協会賞を受賞した歌集を講演と対談を通してあらためて読み直すという企画で、動画視聴も可能だ(会員であれば無料で視聴できる)。
 二〇二五年九月号では道浦母都子『無援の抒情』を読み返す。講演は大田美和。「既に終了した日本の学園紛争ではなくて、もう少し時間的にも空間的にも広い視野のなかにこの歌集を置いてみたい。」と提起する。
 実はこれまで『無援の抒情』をきちんと読んだことがなかった。「調べより疲れ重たく戻る真夜怒りのごとく生理はじまる」など、よく知られた歌やそれに関する文章は少し読んでいたが、学園闘争の歌集、とだけなんとなく思ってきた。
 初めて一冊を読み通してみて、おや、と思った。中途半端に分かった気でいた自分が悪いのだが、思っていたのとはちょっと違った。闘争の様子を生々しく描く歌も多いが、そのなかで思想的な何かを強く訴えるとか、学園闘争そのものについて何か言おうとかいうより、そこで自分が感じたこと、そこから離れた後の思いを中心に詠っている。公開講座の対談で道浦は「そういう時代だったから、普通の女性だったのですが、普通のことをしたつもりだったのが、逮捕状を出された」と語っている。その通りなのだろうと思った。
  署から署へ移されて乗る護送車の窓に師走の街映りいつ
  君のこと想いて過ぎし独房のひと日をわれの青春とする

 護送車、独房といった語が強くて目立つ一方で、師走の街の賑わいや好きな人を思うやわらかい気持ちが痛ましい。「青春」という語は歌集全体で何度も使われている。
  今だれしも俯くひとりひとりなれわれらがわれに変りゆく秋
 やがて学園闘争から離れ、本来の自分へかえってゆく。青春の終わりでもあるだろう。集団のなかにあっても、孤独にあっても、ひとりの自分を見つめてひとりで詠う。『無援の抒情』は個としての自分を取り戻す過程でもあった。
 「このように、若い心の赴くままに、自らの危険も顧みず国家権力と対峙した若者たちのなかに『無援の抒情』の若き女子学生も存在していたし、そのような若者はこれから先の未来にも存在するだろうと思います。」と大田美和は言う。なにかのきっかけで人が集まり、そののちはまたそれぞれの道へ分かれてゆく。幾度も繰り返されてきて、これからもきっと幾度も繰り返されるであろうことがここでも起きていた。学園闘争のことはわからなくても、この感覚は誰でもあるのではないか。これが「普通」ということか。
 学園闘争を代表するような取り上げ方をされて道浦自身は困惑したようだ。そういう読まれ方に対して、自分は時代の代表ではない、普通だったと言っているのが印象的で、これはとても大事だと思った。彼女と同じく普通のつもりで学園闘争に関わった人たちがたくさんいた。彼女だけではなかった。歌のむこうには、歌にならなかったこともたくさんある。詠わない人の存在も。そのことを読み手の側でも意識しておきたい。個人的には震災詠について、詠むときも読むときも、この感じを失わないでいたいと思ってきた。
 時事を詠うことは怖い。ということは同時に、それを読むことも怖いということ。時事を詠むことの難しさはしばしば取り上げられるが、読む難しさも忘れずに、何度も繰り返し怖がりながら向き合いたい。

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