短歌時評

百年のあとさき / 小林 真代

2025年7月号

 五月十日に日本詩人クラブの大会が福島県いわき市で開催された。草野心平とその兄弟たちの詩歌についての講演や、自作の詩の朗読などが行われた。
 朗読のなかで、
  おうい雲よ
  ゆうゆうと
  馬鹿にのんきさうぢやないか
  どこまでゆくんだ
  ずつと磐城平いはきたひらの方までゆくんか

という山村暮鳥の詩が引用され、詩人たちはその後ちょっと盛り上がった。この詩が収められている『雲』が刊行されたのが大正十四年、一九二五年で、今からちょうど百年前。その年に詩人たちがいわきに集まったことを寿ぐ、サービス精神に溢れた朗読だったわけだ。今年は暮鳥没後百一年でもある。群馬県に生まれ、東北、茨城など各地で暮らしたが、いわきでの活動は活発だった。
 詩集『雲』に、「雲」というタイトルの「丘の上で/としよりと/こどもと/うつとりと雲を/ながめてゐる」という詩があり、そのあとに「おなじく」と題して収められているのがこの詩。学校の授業で読んだ記憶があり、いわきに住むことになった時には、とうとう詩の世界に住むのか、と不思議な気持ちになったものだった。最近、自分の家のすぐ近くに暮鳥に縁のある礼拝堂の建物が残っていることがわかり(そこが幼稚園として使われていたことは聞いていたのだけれど、暮鳥のことは誰も知らず)、慌てていろいろ調べていったら、ほかにも暮鳥に縁の場所があることがわかった。いまさらだが「おうい雲よ」の土地に暮らしていることを噛みしめている。
 暮鳥といえば詩だが、文学者としての出発点には短歌があった。
  ちごいだく母をしたへるをさな子に梢の鳩もおりてまじれる
  わが胸はたとへば港、夕ばえや帆かけいり来るうつくしき舟
  わかき日のすてられてあり吸殻の如きが多くすてられてあり

 いずれも『山村暮鳥全集 第一巻』から。短歌の発表を盛んに行った二十代の頃の歌。日露戦争を経験し「弾丸たまはみな露つらぬきて来ずとのみ君への秋の朝も見たまへ(敵軍にまぐれる友に)」といった歌もある。歌壇的には明星派が存在感を放っていた頃で、その影響もあって暮鳥も短歌を作っていたのかもしれない。恋を詠んだ歌が多いが、「雲」の詩のようなゆったりとした詩情のある歌もみられる。一首目、子どもと小さい生き物との距離が近く描かれる。やさしい絵のような二首目は、恋を詠ったものだろうか。シンプルな比喩が印象的。三首目も比喩の歌。二十代はまだ若いと言いたくなるが、暮鳥は突き放すように若き日を詠う。年齢を重ね歌の幅もますます広がってゆくところだったはずだが、暮鳥の関心は詩へと向かってゆく。
 「短歌」二〇二五年五月号で、没後二〇年塚本邦雄、生誕一〇〇年山中智恵子の特集が組まれている。三枝昻之は山中智恵子に三度インタビューを行ったことを書いているが、直接聞いた言葉は迫力があり、引きこまれた。当時の彼らの感覚と私たちがいま読む感覚とではずれてしまっているところもあるだろうが、時間が経っても読まれる歌は、時間の経過なりに読まれ、研究される。それは後から続く者の楽しみでもある。
 百年は遠いような近いような。百年後の短歌が何を失って、何を新たに獲得しているかは見当もつかないが、土地であれば数年で変わってしまって元に戻らないものを、言葉はともあれこうして残り続ける。
 ところで、暮鳥の痕跡の残るいわき市には、暮鳥が生まれる三十年前に天田愚庵が生まれている。正岡子規と親交があった歌人で、と書き始めると長くなるので今日はこのへんで。

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