とても良い思いつきだと思う / 小林 真代
2024年10月号
「短歌」二〇二四年八月号は、第三回U―25短歌選手権の優勝作品などが掲載されている。これは25歳以下の方限定の二十五首の作品による短歌選手権。選考会で小島なおが「歌がうまいのはもう当たり前の時代なんだなって痛感しました。」と発言している通り、うまいなあと思う歌が多い。栗木京子も優勝作品について、テーマ性、歌のレトリックがともに高度であると評し、今後それらがより先鋭化されてゆくことへの期待を述べている。なんだか恐ろしい時代だなあ。
小島、栗木のあげる秀歌性、テーマ性のほかに、総評のなかで穂村弘が文体について述べている。25歳以下という年齢制限によるものかもしれないが、作品に見られる語彙や感覚の傾向が似ていると指摘し、そのうえで、そこから文体だけで誰の歌かわかるような新たな文体の誕生を望むという。
(前略)秀歌性っていうのは共同体が練り上げてきたものだから、それを踏まえた
人は基本的に全く変なところに球は投げない。(中略)その中で一人だけ「い
や、あそこにも的がある」と他人には見えてないところに向かって投げ続ける
と、やがてみんなが気づいて、短歌の領域が広がる。
みんなに見えていないところを見つけたらとても面白いだろうなと思う。でも見つけるのは難しそう。もし見つけても、そこを攻め続けるにはちょっと勇気が要るかもしれない。
新しい文体を切り開く。ということを考えながらこの選考座談会を読んでいて、思い浮かんだのは工藤吹の第六十七回短歌研究新人賞受賞作「コミカル」だった。「短歌研究」二〇二四年七月号に作品と選考座談会が掲載されているが、選考座談会でこの作品の文体が話題になっていた。風邪をひいて買い物がてら散歩に行くという、言ってしまえばそれだけの一連でテーマ性という点では弱いかもしれないが、生活の場が気持ちよく詠われていて、選考座談会でもその点を高く評価された。
遠泳のような余裕をたずさえてポカリのようなもの買いに行く
座談会では「ような」を重ねることで風邪のときのぼんやりした感じが出ているという読みが出された。私も違和感なく読んだ。ふたつの「ような」で不思議なリズムができて、どんなふうに歩いても自分の町だというような余裕を感じる。ポカリじゃなくて、ポカリのようなものでよいのだという余裕も。
決めたのは公園を通って帰ること、とても良い思いつきだと思う
つぶやくような言い回しで定型をゆるめている。「気に入っている」「つよいと思う」という歌もあり、その時そう感じた自分のことも歌のなかに表現しているのがユニーク。良いことを思いついてうれしい、そしてこんな良いことを思いついた自分はなかなか良い。
「コミカル」は自分の暮らす町を自分のサイズ感で風通しよく描く。破調や句跨りの多い文体はそのテーマにふさわしいという肯定的な意見の一方で、面白いがこの韻律は受け入れられなかったと選考座談会で訴えたのは黒瀬珂瀾だった。黒瀬は応募作全体について、
(前略)韻律と文体の力が弱まってるのを思いました。どうか、過去作を摂取しつ
つ、新しい文体を見せて欲しい。
と述べている。先に引いた第三回U―25短歌選手権での穂村の発言も合わせて、新しい文体を求めるそれぞれの声が力強く響く。
そもそも文体ってなんだ。(韻律ってなんだ。テーマ性ってなんだ。秀歌ってなんだ。…)と考えると果てしないのだが、いろいろな作品のいろいろな文体に出会えるのはたのしい。ともあれ、新しい文体を探し出すには、これまでの作品の文体を知らなくてはならない。だから、どんどん読もう。そして、どんどん詠おう。