短歌時評

当事者性ではなく / 小林 真代 

2024年7月号

 「短歌」二〇二四年五月号の第二特集は、「当事者性と批評性」。タイトルを見て、難しいなあ、逃げたいなあ、と思ったけれど、寄せられた文章も歌もみな力強くて引きこまれた。当事者、当事者性、と言われると、私はまず自分とその事との関係を思うのだけれど、この特集に寄せられた論考はもっと広いところで当事者性を考え、それぞれのやり方で当事者性を超えてゆく。
 佐藤通雅は、東日本大震災で被災した経験から書き起こし、当事者として経験をどう語ることができるのか、どう詠うことができるのかを問う。そして竹山広の歌集『とこしへの川』に、ひとつの答えを見出したという。
   当事者としての具象に拠りながら、地上的告発の域を超え、人間そのものの在
  り方を問う、そしてさらに鎮魂の祈りへと向かうこと、(後略)。
 当事者それぞれの経験や思いを簡単に一括りにできない難しさ、怖さはあるけれど、そういった個々の事情をぶつけ合うのではなく、超えたところに批評性は生まれると説く。引用した箇所は、短歌を語っているのか、人間を語っているのか、繰り返し読むうちに区別がつかなくなってくるけれど、短歌はやっぱり人間のやることで、詠われるひとつひとつの具象が広い大きい世界へ繋がってゆくものなのだと思う。災害や戦争に限らず、個々の経験が祈りへ昇華するまで、それぞれの歩みは続くのだろう。原爆が投下された長崎で生き残った竹山広がその事を詠うまでに、長い時間がかかったように。
 桑原憂太郎は、歌そのもので当事者性を超える。
   時事詠であろうが何だろうが、その作品が優れているか、そうでないか、を
  ジャッジする基準というものは存在する。しかし、その基準は、当事者性ではな
  く別の基準だ。
そして短歌の技術面から論を進めてゆく。時事詠を評価するとき、当事者の作品であるかどうかが問題ではなく、臨場感を感じさせる作品であるかどうかが大事だという指摘は明快だ。当事者でなくても良い時事詠をつくれる。それは、当事者と呼ばれる立場の人にとっても心強いことではないだろうか。
 松本典子は、戦争のニュースが途切れることのない日々でそれらがどう詠まれているかを考察する。情報を自分にいかに引きつけて世界へ投げ返すか。作品を読みながらそれぞれの作歌意識と姿勢をたどり、こうまとめる。
  (前略)不可視のものを可視化し、時代への警鐘を鳴らす歌の力に気づかされ
  る。そこに掬い取られているのは人間の喜び、怒り、悲しむ姿に他ならない。
 世界と繋がろうという意志から生まれた歌に、人間そのものを描き出す力を感じている。
  シナ兵刺殺の自慢話に泣きたれば訓導の鞭わが腿打ちき
                           西村美智子『瞬の間に』
  特攻でありし白寿の人去ればデイケアに戦争の話絶えたり
  台風の去りたるあとの雲赤し昭和の空襲あなたに続くや
 当事者性と批評性について、最近の歌集から。一首目、幼少期の記憶が時間をかけて歌になる。この時、子どもながらに戦争や人間の怖さを知ったのだ。二首目、戦争を知る人たちが集まる場でも戦争は語られなくなる。それが今であり、また老いということの現実でもあるだろうか。この二首は同じ連作に収められている。戦争と、戦争を通して見えてくる人間が、怒りや憎しみ、批判を伴わず静かに詠われる。個人の感情を超えて詠まれた歌が読み手のなかで膨らむ。三首目、台風のあとの空に戦争の記憶がよみがえる。赤い雲の空は、ニュースでしか知らない遠い戦場や被災地へも続いているのかもしれない。

ページトップへ