短歌時評

なぜか切なし明るい春は / 小林 真代

2025年6月

 本多稜『時剋』と、久永草太『命の部首』。先月に引き続き、今も手元において時折読んでいる。
 個人的に、この三月は気持ちが沈んで参った。卒業など別れの多い季節はもともと得意とは言えなかったが、東日本大震災以降はっきりと三月を意識する自分に気が付いた。何事もなく過ぎてゆく年もあるが、例えば震災から十年という年には節目と捉える様々な動きにあらかじめ身構えることもあった。十四年という今年、なぜか気持ちが落ち着かなかった。繰り返すがこれは個人的な感覚だ。震災と原発事故に関わることもそれ以外のことも生きていればいろいろあるし、或いは能登半島地震や、阪神淡路大震災から三十年経ったということに何か強く引っ張られているのかもしれないし、なぜ今年の三月はダメなのか、自分でもはっきりとはわからない。
 それで縋るわけではないけれど、『時剋』や『命の部首』をまた読んでしまう。さまざまに命が詠われる歌集の、しんどいこともあるけれどともかくも生きてゆく歌を読みたくて。よいことも、よくないことも、生きていれば当然ある。そのことをたしかめて、またこの続きを生きてゆく。
 『令和六年度版福島県短歌選集』が届く。令和七年三月二十日発行。福島県歌人会会員のうち、一二六名が十首ずつ作品を寄せている。出詠者の構成にもよるが老いの歌が多い。東日本大震災と原発事故から数年はたくさんあった震災詠だが、今回は出詠者の四分の一くらいが十首のうち何首かに災害を詠み、そこには能登半島地震を詠んだ歌も含まれる。東日本大震災・原発事故をテーマに据えた連作としての十首を探すとなるとその数はぐっと減る。福島県短歌選集、と聞くと震災詠がばんばん掲載されているだろうと思う人もいるかもしれないが、今はそうでもない。
  雪だより聞けば寒さは老いのごとひたひたひたと身に押しよせる
                               伊藤 雅水
  チューリップ木のなき庭にちりばめてなぜか切なし明るい春は
                               同   

 押しよせる寒さの比喩として老いは言われているのだけれど、老いが寒さのようにひたひたと近づいてくるようにも私は勝手に読んでしまう。体感としての老いを前提として寒さを表現しているからだろう。二首目、手入れが大変なので木を処分したのだろうか。明るい春を切ないという人がここにもいる。
  ふるさとの若き人言ふ母のごと介護するゆゑ戻りて来よと
                            安倍美智子
 
 ふるさとのつながりの強さに驚く。介護を頼むことは実際には難しいだろう。帰れないふるさとのあたたかさが切ない。
  0・5×2として人足に村のまつりに夫と出でゆく
                         島  悦子
  ひそやかに祀る祭りとなりにしか全村避難のありしこの里
                             同
   
 村のまつりを高齢の夫婦が二人で一人前として手伝う。二人いっしょの安らぎも感じる。二首目は出かけた先で祭りに遭遇する。以前の賑わいを知っているゆえ、今のひそやかさがさびしい。村も祭りもどんどん小さくなる。
  避難地に十三年過ぐつつましき老後の起き伏し歌に詠みつつ
                             吉田 信雄
 
 避難後の生活を読み続けている人で、十首すべてがそういう歌。でも大きい声で何かを訴えるというのではない。この歌のとおりのつつましい暮らし、つつましい歌だ。故郷と家族を純粋に思い歌を作り続ける。そうして十三年を生きて、この先もまた生きてゆく。
 震災そのものを詠む歌ももちろん大事だが、老いや死、介護が目前の大事としてたしかにあり、詠わずにはいられない。みんなそれぞれの大事がある日々に、震災も原発も忘れることはない。それが暮らしということなのだろう。小さい暮らしの小さい声が、しんどい春にはことさら沁みた。

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