短歌時評

正月の歌から / 小林 真代

2025年3月号

 正月の歌が好きだ。正月は一年の始まりのはろばろとした大きな気分と同時にきゅっと引き締まった感じがある。日頃味わえない正月の空気が好きで、正月の歌が好きだ。
 正月の歌に思い入れがあるのは、短歌を始めたばかりの頃、ある著名な歌人が「正月になるとさっぱり歌が出てこなくなる。」とお話されるのを聞いたからかもしれない。この方にもそんなことがあるのかと吃驚した。それではお正月の歌はどうされるんですかと尋ねられて、事前に作ると答えていらしたのも面白く、それ以来、その歌人の正月を詠んだ歌を楽しみにするようになった。今年の新春詠も読んだ。事前に作ったものだろうが、初春らしさはほんのり感じられる程度だった。
 正月の歌に関連して思い出すのが「塔」二〇二一年五月号「八角堂便り」。永田淳は当時の月刊誌「短歌」「俳句」の一月号に掲載されている作品を読んで不思議な感覚に陥ったといい、「歌人は作歌当時の季節感に合つた歌を作り、俳人は作句時には想像するしかない正月、年末年始を詠つてゐるのだ。」と書く。文章は、現代短歌は空想する自由を手放してしまったのかもしれないと疑問を投げかけて終わるのだが、先の歌人の正月の歌のエピソードと短歌の想像力とが私のなかで結びつき、印象に残っている。
 たしかに総合誌などで正月らしい歌を正月に読むことは少ない。正月にフォーカスすることなくそれぞれが作歌当時の実感を大事に歌を作っている。自分もそうなので不満はないが、年賀状も激減している今、正月に正月の歌を読むことはますます減るのだろう。
  朝に飲み昼すこし飲み夜を飲むこの日くらゐはまあいいだらう
                           永田和宏「かしのみの」
  多摩川の川原の空に揺れているひさびさに見る凧の龍の字
                            佐佐木幸綱「龍の字」

 今年の一月一日の朝日新聞「新春詠」から。新春に読む「新春詠」。どちらも事前に作られた歌だと思うが、過剰なめでたさや華やかさはなく、それぞれの過ごすであろう正月を穏やかに描く。一首目、ことさら言わなくても元日であることが伝わってくる。二首目、正月らしい風景に懐かしさが滲む。正月の過ごし方も変わってきたし、世の中めでたいことばかりではないし、今時もとめられていないだろうけれど、正月に正月の歌を分ちあうような余裕が短歌にもあればとは思う。空想の正月でいい。読み手は歌から思いを膨らませてゆくから。詠み手も読み手も想像力が大事と思いながら今年も紙の雑誌を捲る。
 というようなことを去年の一月は書くつもりだったが、書けなかった。「短歌研究」二〇二五年一月・二月合併号は「ふたたび能登・北陸の歌人たちと作る短歌研究」。今年はどう過ごしているだろうと想像しながら読む。
  おかしいと思ってほしいまだここにブルーシートの屋根があること
                        黒井いづみ「死ぬのはあなた」

 建物の屋根がブルーシートに覆われた光景は被災地を象徴するものとして定着したが、またブルーシートの歌は生まれ、災害も、災害の歌も、繰り返される。「おかしいと思ってほしい」は進まぬ復旧への苛立ちだが、繰り返される災害への怒りのようにも思えてくる。
  松の木の根方に置かるる荒縄と添木整然と雪吊り始む
                           宮崎眞知子「命の水を」

 雪吊りを詠んだ歌もいくつか。雪国の冬の備えとして行われてきた雪吊り。それは被災する前から繰り返し行われ、繰り返し詠まれてきた。厳しい冬を越すための知恵は、そうして冬を越えてきた自信や誇りでもある。
 これから来る新しい年が穏やかであるよう祈ること、被災地の厳しい冬を想像しながら一日も早い復興を願うこと。そういった思いを誰とでも何度でも分ちあえることが歌の力なんじゃないかと思う二〇二五年一月。

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