秋刀魚の命を味はふかなや / 小林 真代
2024年8月号
同世代の歌人への親しさというものはあって、いま手元に置いて大事に読んでいる同世代の最近の歌集から今日はこの二冊を。
丸美屋の麻婆豆腐に半匙の辛みと卵を足して、春宵
富田睦子『声は霧雨』
消えたいと思ったことがあると言う誰でもあるとは言わず頷く
二〇二三年十一月発行の第三歌集。定番の麻婆豆腐をよりおいしく食べるために加える少しの辛さと卵に絶妙なバランスがある。思春期の娘とはほどよい距離感で向き合う。やり過ぎない、言い過ぎない。たまに躓くことがあってもトータルでは踏み外さない。私もこういう大人になれているといいなあと思う。
植え込みにダリア咲かせし茶房あり今はダリアの死のみ残れる
吉村実紀恵『バベル』
終電に目を閉じており「前向きで明るい人」の役目を終えて
二〇二四年二月発行。第三歌集。一首目、下句のダリアの把握に驚く。生と死をくっきり描く。それぞれの場面にふさわしくふるまう人は、いくつもの役目を生きている人でもあるだろう。「何をもて天与の性と和解せむ遂にいのちを産むことなくて」という歌もあり、自分の一生に果たせない役目があるという思いも滲むが、役目ではない自分自身の生が、終電のその先にきっとあるのだとも思う。
彼女たちは二〇二三年に五十歳になった歌人たちの作品集「チメイタンカ」に参加している。チメイ、すなわち知命。自分と同世代の人たちがのびのびと五十歳へと突入してゆくのを愉快な気分で読んだ。塔で「柊と南天」を発行しているのもこの世代で、二〇二三年発行の「柊と南天」6号では「特集 お気に入り歌人の五十歳前後の歌集」が掲載されている。佐藤佐太郎、小池光、上田三四二などなど、みんな五十歳だったと思うと妙な親しさと、なんだか元気が湧いてくる。今の自分と同じ年頃の誰かが作った歌を読むのは、私にとっても短歌の楽しみのひとつだ。
筆圧のつよきわが文字ほめられてくいくいと殊にひらかなはみ出してゆく
河野裕子『歩く』
賢くならんでよろしと朝のパン食ひつつあなたが私に言ふ
河野裕子の五十代の歌集は多いが、いま机上に置いているのは『歩く』。マイペースで、けれど力のあるタイトルが好き。くいくいというか、ぐいぐいというか、心も言葉も思い切りよくはみ出してゆく。ほめられて、というのがうれしい。多忙な夫と成長した子どもたちはそれぞれの時間を生きていて、構うことも構われることも少ない。そうしてできた自分の時間を「さびしい」とこの歌集では何度も詠うのだけれど、そうは言ってもはみ出してゆくのびやかさを支えたのもやっぱり家族だったのだと思う。「朝のパン食ひつつ」とさりげないが、家族の時間がまぶしい。「賢くならんでよろし」と言ってもらえるうれしさ、こう言ってくれる人のいるうれしさがあっただろうなあと、自分も同じ年頃になってみて思う。賢くなんかならなくてよくて、はみ出してもはみ出さなくても、きっとそれもどっちでもよかったのだ。という気がする。
これの世に俺は何せむと来たりしや絖のやうなる月下の舗道
島田修三『東洋の秋』
はらわたの熱くにがきをまづ啖らひ秋刀魚の命を味はふかなや
短歌を始めた頃に出会った歌集。この中の人と、いま同じ年頃を生きている不思議。いまも読みたくなると図書館へ借りにゆく。これからもそうして何度も読むのだろう。たまに迷うことがあっても、好きな歌を振り返ったり追いかけたりしながら、生も死も、賢さも賢くなさも、甘さも辛さも、それに苦さも、まるごと生きて詠ってゆけたら上々だ。