何度でも韻律 / 小林 真代
2025年1月号
「短歌研究」二〇二四年十一月号の特集は「あたらしい韻律」「おもしろい韻律」。
風はむかし樫の木、樫はそのむかし旅人、旅人はただかぜ
小島ゆかり『はるかなる虹』
読点で区切ることで言葉の意味の区切りは明確にされるが、定型のリズムとの間にはズレが生じている。江戸雪はこの歌を、
「意味を理解する速さ」と「リズムをとる速さ」と「定型」が同時に存在する。
と表現する。私はこの歌を最初に歌集のなかで読んだ時、ほかの歌とリズムが違うぞという単純な驚きに立ち止まった。それから循環する言葉のおもしろさに魅かれて意味だけを取ろうとして読むと、韻律に引き戻されてしまった。「このうたにおいては意味より韻律が力を持ったのだと感じた。」と江戸は書く。
横山未来子もこの歌を取り上げていて、読点を生かす読み方のほかに、読点がなかった場合の区切り方〈かぜはむかし/かしのきかしは/そのむかし/たびびとたび/びとはただかぜ〉を示し、こうするとより定型に近くなると述べる。その上で、読点で間ができることで、時間の隔たりや言葉のイメージの広がりができると読点の効果を指摘する。
定型感を残しつつ別のリズムを与えることで詩情が深まり、歌の内容ともあいまって、語る声を聞くような心地よさや読後に広がる余韻が生まれる。定型の懐の深さというか、余裕というか。
この特集には十六人の歌人が寄稿していて、そのうち三人が工藤吹の歌を取り上げている。それぞれ別々の歌を引いているが、「ゆったり私の内側を探るようにはじまって、結句で外に出るような感覚は、偶然に書かれたものではなく、技巧なのだと思う。」(荻原裕幸)、「定型なのだけれども、定型の乗りこなし方が新しい。」(榊原紘)と語られ、あたらしい定型感がここにあるようで面白く読んだ。
窓に背が向くように置いてある本棚の本の色味を気に入っている
工藤吹「コミカル」
ユキノ進はこの歌を引いて次のように書く。
韻文の気持ち良さ、含みのある省略、抒情的な語彙などの「詩的」な要素を慎重
に避けている一首だ。そこにあるのは詩についての一種の含羞ではないか。
(中略)定型にぴったり収まる「短歌らしさ」への恥ずかしさの意識がこの歌の
誠実さであり魅力となっている。
韻律はいちばん短歌らしいところだと思うのだけれど、口語表現が当たり前になると短歌らしい韻律への意識も薄くなってゆくのだろう。それを短歌らしさへの恥ずかしさ、と呼べばそうかもしれない。歌会などで「やり過ぎ」といったことばが使われることがあるが、「短歌らしさ」もなかなか繊細な問題だ。
ガチガチの「短歌らしさ」からは距離を置くとしても、工藤吹は定型を大事にする。この特集に工藤自身も寄稿していて、定型が面白い、と書く。そうして定型を緩めることに意識を向けて韻律を考察している。ユキノが引用した「窓に背が」の歌も、起伏の少ないなだらかなことばの連なりがゆったりと定型を引き伸ばす。そうすることで結句の「気に入っている」が浮かび上がるようだ。このスタイルを自分のものとして選んだところがおもしろいなあ、あたらしいなあと思う。
先に引いた「風はむかし」の歌は詩情ゆたかで、定型を崩しつつも短歌らしさを感じさせてくれる。短歌らしさへの恥ずかしさとは逆の歌なのに、定型感を残しつつ定型を崩すことで、そこに歌の誠実さ、魅力が生まれるところは工藤吹の歌といっしょだ。
どのみち短歌には定型があって、そこからいろいろな歌が生まれる。くりかえし韻律を語るたのしさは、どこまでいってもその都度あたらしくておもしろい。