ホスト短歌と山崎方代 / 小林 真代
2025年2月号
地元で小さな歌会に参加している。短歌との関わり方には濃淡があるが、みんなで楽しみながら十年以上続いている歌会だ。
先日、そのメンバーの一人が、すごく面白かったと言って貸してくれたのが『月は綺麗で死んでもいいわ』だった。ホスト歌会で歌を詠み続けているというSHUNの第一歌集。東京へ遊びに行き、帰りの電車で読む本を探していて見つけたのだという。そういう時、たしかに歌集は手頃だ。しかし実はこの歌集、地元の書店にも売られている。
いわゆる歌集専門の出版社の歌集はなかなか地元の書店には並ばないが、これまで見かけたことのなかった出版社の短歌関係の本をよく見るようになった。活字離れ、紙離れが言われ、町の本屋さんも体力がなくなってきているなかで、これが短歌ブームか。そう思って眺めていたのだが、最近読んだ「歌壇」二〇二四年一二月号の「年間時評」では、大辻隆弘が短歌と著作権について述べていて、短歌ブームの危うさを「短歌は商業資本によって利用されてしまうことになる。」と指摘していた。短歌ブームも著作権もたしかに短歌のことで無関心ではいけないなと思った。ただ正直に言うと、私は短歌ブームがよくわからない。ブームというと一時的に大人気になってその後廃れてしまうけれど、短歌は長い歴史があって今あるものだから、短歌そのものをブームと呼ぶのも変な気がする。私にとっては短歌ブームがブーム、という感じ。
ともあれ、小さな歌会のためだけに歌をつくっている人から歌集を勧められたのは初めてで、私は喜んでお借りすることにした。
朝が来て僕の日が暮れ眠る時遮光できない記憶が廻る
ばあちゃんが深夜ちゃぽんと湯に浸かる灯りを消して気配殺して
ゆうだちに傘をたたんで空を見る何してんだろ、睫毛がうざい
ホストの仕事の場面を詠んだ歌なども多いが、一首目はホストとして夜の時間を過ごしたあとの歌。「遮光できない」に、朝のひかりからも夜の記憶からも逃れられない苦しさが滲む。二首目、素直な歌と思って読んできて下の句で殺伐とする。息の詰まるような家族のありようが見えてくる。三首目、夕立に濡れながら空を見上げる。睫毛も濡れて、うざい。それは自分自身へ向けられる苛立ちだ。
文豪によって定番化した愛を告げることばが使われたタイトルからしてキャッチーな歌集。短歌ブームについて、SNSと短歌の相性の良さを言う声をしばしば聞くが、よい言葉、面白い言葉を見つけることも今はみんな上手なのだなと思う。そしてブームであってもなくても短歌をつくるのは人だから、詠うほうは一所懸命だ。この歌集の一首一首にも、歌を通して自分と向き合う姿がある。
この歌集をお勧めしてくれた人が短歌を始めて程なく好きになったのが、山崎方代。
一度だけ本当の恋がありまして南天の実が知っております
山崎方代『こおろぎ』
この歌に一目惚れしたのだそうだ。一途な恋の思い出があるのだろうか。歌を読む側にもまた真剣な思いがある。きっとSHUNの歌にも思いを重ねて読んだのだろう。これまで方代さんとSHUNが結びつくと考えたことはなかったが、思うようにならない日々を自覚的に歌にするところなど、なるほど、似ているところがあるかもしれない。誰の人生もままならないし、誰も一人になればさびしいとおもうことはある。『月は綺麗で死んでもいいわ』からもう一首。
午前九時明治通りを遡上する一人を照らす信号の赤
「遡上」の一語が一首を引き締める。信号の赤に照らされて通りを遡上する一人は自分自身だろう。この世間に馴染まない存在として自分を意識しているのだ。