あふれたい気持ち / 小林 真代
2025年4月号
第三十六回歌壇賞が発表になった。受賞作は、津島ひたち作「風のたまり場」。オーボエを吹くことをやめた喪失感と、そこから次の一歩へ気持ちが向かうまでを描いた連作だ。
若い日の挫折と再生といってしまえばよくあるテーマだが、それぞれの歌に作者の新鮮な感覚と認識があり、親しさと新しさ、どちらも味わわせてくれる。選考座談会では新人らしからぬ歌の上手さが話題になった。歌が上手いことが当たり前になった今、次は歌の何を開拓してゆくことになるのだろう。
一連は室内の場面から始まり、そこから外へ出て広場へと移動する。場面が広がってゆく。連作の展開も巧みだ。
まひるまのシーツの冷たさをさわる、納得するまでを、手のひらは
連作の二首目、部屋の中での歌。オーボエを抱いていた手は、今、オーボエではなくシーツの冷たさに触れているのだ。
わたしからオーボエを抜きとっていった「銀賞」の淡白な声色
シーツの歌の二首後の歌。銀賞だったためにその後のオーボエの演奏の機会を失ったのだろう。この人はオーボエをまだ吹いていたかったのだと知った上であらためて二首目のシーツの歌を読み返すと、「納得するまでを」の切実さが一層沁みてくる。
次の角で別れるけれど等速のゆるやかな川の流れと歩く
部屋を出て移動する。川に沿って歩くことは、川と一緒に歩くこと。その川とも次の角で別れる。自分の動きと川の流れを「等速」で結びつけるのが面白い。部屋から出て自分の暮らす町をゆるりと歩くこの感じ、町の様子を繊細に捉える感覚、昨年の短歌研究新人賞を受賞した工藤吹の「コミカル」を私はちょっと思い出す。それもちょっと面白い。
座ったら広場は広い場所になりわたしをおいて移ろう広場
連作の後半の舞台となる広場。「座ったら」はさりげないが、移動を終えて広場に場面が変わることを示す。東直子は選考座談会でこの歌について「広場というものの認識が自分が座ってそこに留まることによって体感としての広い場所になるというこの言い方もとても新鮮(後略)」と述べている。自分の存在に対して広場を大きく感じているようでもある。
広場ではオーボエの演奏をイメージする場面がある。楽器をつかみ、息を吹き込み、音を鳴らす。体感をともないゆたかに詠われる。
ここから見える空の広さに吹く息の柱は太いまま伸びてゆく
吹き込んだ息が広い空間へ向かって伸びてゆくイメージが力強い。人間の息はこんなに力があった。そして言葉にもこんなに力が。
なめらかに音の跳躍をするときの燕が垂直にのぼるイメージ
あふれたい気持ちが見える縦長のグラスをのぼる炭酸水に
一首目は広場、二首目は広場へゆく前の室内の場面での歌。垂直にのぼるイメージが重なる。炭酸水、燕、どちらも涼しげで爽快だ。けれどあふれたい気持ちは抑えられ、のびやかでなめらかな音も今はイメージの中に留まる。それでも空へ向かう気持ちが広場での歌にはある。
ひざまずくひとの動作にワンテンポ遅れてスカートのランディング
広場での歌。人の動作とスカートの動きのズレが軽やかに詠われる。「ランディング」という言葉が選ばれ、「ひざまずく」という動作が高く飛び立つ前の低い姿勢にも思えてくる。
この連作では挫折と再生ではなく、挫折と再生の間の時間が詠われている。挫折を挫折として受け止め、やがて次のよい風が来ればその風に乗る。その風を待つ時間と、その間のあふれたい気持ちを、短歌はこんなふうにていねいに掬いあげ表現し得るのだ。