マシュマロとあんずの花 / 小林 真代
2024年11月号
三月三日に村木道彦が逝去した。
するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら
村木道彦『天唇』
村木道彦といえばこの歌。いろいろな人がいろいろなことをすでにたくさん書いている。私は私で勝手に書くと、短歌を始めてからわりと早い時期に読んで、若いなあ、甘いなあ、この歌ばかりが有名でなんだか落ち着かないなあと思った。その頃たぶん四十代に差し掛かるくらいだった私には、捨て身で自分の失恋を詠う若さは眩しすぎたのだ。逆に言えば私自身には青春期の歌がないということで、この歌が羨ましいような、でもやっぱり自分にこういう歌がなくてほっとするような、複雑な思いも抱いた。
口語に文語が混じっていることに気が付いたのは、初読からかなり後のことだった気がする。初句のインパクト、「マシュマロ」とそれを頬張る表情から受ける若さ、失恋を「ものがたり」とよぶ甘やかさ等、ほかに注目するポイントがあるからか。違和感なく読んでいたが、実は「すてたる」が文語だった。三句の「ものがたり」へさりげなくつながりながら、ひらがなとカタカナであかるくひらいた印象の一首のなかで、ここだけふっと、カーブでスピードが落ちるみたいな感じがある。
「短歌」二〇二四年九月号の「追悼 村木道彦」に小塩卓哉が論考「さらにひとりになりたくて――口語歌の源泉としての村木道彦」を寄せている。そのなかで村木道彦の歌における口語、文語について「(前略)村木氏は文語的な短歌表現を巧みに口語的にアレンジして、洗練された文体へと昇華したとも言えるだろう。」と書いている。今回『天唇』を読み直して、文語ベースの歌集に、口語やマシュマロ、アイスクリームといった言葉が入ってくるのがやけに新鮮に見えて驚いた。今ではどれも当たり前だけれど、村木の歌はどこか振り切ったような勢いがある。しかもそれらを短歌の韻律にごく自然に乗せて愛唱性がある。新しい文体を生むってこういうことか。
すてしこと それよりにがきすてられしこともあんずの花さけるころ
水風呂にみずみちたればとっぷりとくれてうたえるただ麦畑
同じく『天唇』から。一首目、マシュマロの歌ほどのインパクトはないが、すてしこと、すてられしこと、それぞれに痛みがあると「あんずの花」でやわらかく詠う。マシュマロでもあんずの花でも、口語でも文語でも、失恋を詠う。二首目、水風呂と暮れ方の麦畑を詠って世界が隅々まで満たされるような感覚が生まれる不思議。同時に、「ただ麦畑」からはその情景を茫然と見つめる人の姿も浮かぶ。
村木道彦の歌は文語、口語に関わらず鮮やかだなと思う。さびしさもくっきりとさびしい。ポップな青春の歌という先入観が強すぎて、若くない私はこれまで彼に強く憧れることはなかったが、いまさらだけれど『天唇』の若さの、とりわけ若いさびしさに魅かれる。
村木には『天唇』から長い歳月を経て編まれた第二歌集『存在の夏』があるが、私はまだ読んだことがない。小塩は同じ論考で、この第二歌集について「(前略)華々しい脚光を浴びた後に、自分の残した足跡を愚直なまでに見直し、年齢相応の文体を再生していった著者の姿が目に浮かぶ。」と書く。「年齢相応の文体」とは、文体そのものだけでなく、語彙や詠う内容、ものの考え方や感じ方、そうしたすべてを含めての、その時点での自分なりの歌の表現のことでもあるだろう。村木は二冊の歌集のそれぞれで、その時の自分に相応しい文体、歌の表現をやり通したのだろう。
どう生きたとしても歌を詠み、読むのは今の自分だ。かつて私がすれ違った『天唇』に、いまふたたび出会えたことにも意味があるのだろう。しっかり味わいたい。