短歌時評

『時剋』と『命の部首』 / 小林 真代

2025年5月号

 本多稜『時剋』と、久永草太『命の部首』。どちらも命について詠っている歌集だ。ユーモアも交えつつ、命のシビアなところも詠う。読んでいて苦しい気持ちにもなるが、それでもすこやかなほうを向く歌は明るい。大げさではない自然な明るさに魅かれた。
 シビアな歌から。
  本当に痛いよ痛い行き場無き痛みなればモンブランの頂想ふ  『時剋』
  胃壁への浸潤進み前線はこの身の内にありとよキーウ

 『時剋』は、胃に腫瘍が見つかってからの一年間を日付とともに歌にする。自分の身体に起きていることをぎゅっと見つめる日々が続く。肉体の痛みは自分で引き受けるほかなく、その孤独な痛みを「モンブランの頂」にいるようだという。比喩に跳ね返されるような迫力がある。自分の病気の状態とウクライナ侵攻を重ねる。思い切って詠っているけれど、きっととても怖いと思う。他人事のように突き放した言い方が読む人の心にも刺さる。病気の身体も戦場も、今の私には遠い。そのことにも気付かされてしまう。
  皮膚という袋縫う午後 漏れそうな命はきっと水みたいなもの  『命の部首』
  採算と命の値段のくらき溝 鶏の治療はついぞ習わず

 『命の部首』では、獣医学部で学び、卒業後は動物病院に勤めながら多くの命と出会う日々が描かれる。引いた歌は学生時代の歌。たくさんの命と向き合うことの厳しさを知ってゆく。一首目は授業でラットの皮膚を縫っているところ。皮膚を袋、命を水みたいなもの、と言うのはラットに自らの手で触れての実感だろう。あまりに命が脆くて私は不安になるが、あっさりした詠み方のなかに、命に直に触れる立場の人の苦しさが滲んでいるようにも感じる。「命の値段」はしばしば聞くが「採算」まで言われるといよいよシビア。誰もが誰かの命を食べて生きていることの現実を、こうして受け入れてゆくのだろう。
 状況や経験は異なるが、同じ時代を生きて、どちらの歌集にもひとりにひとつの命であればこその葛藤が見える。迫力も明るさも、そこから生まれる。
  玉子焼き鮭の塩焼き白ごはん何といふ明るさよ入院の朝  『時剋』
  ひかりつつ柳の若葉空に溶け胃無しランナー完走したり

 健康を疑わなかった頃は気が付かなかった明るさを、入院する朝に実感する。ギラギラした明るさではなく、自然な明るさが心に沁みる。自らを「胃無しランナー」と呼び、治療の日々であっても人生の一日を確かに生きる。柳の若葉も空もひかり、胃無しランナーも輝く。この時、きっと孤独ではないだろう。
  京都行ってな、ドバトがみんな肥えててな、という話せり今際の耳へ
                                『命の部首』

 若さが弾むような歌がたくさんある歌集だが、命に真摯に向き合う姿勢はブレない。危篤の祖母の命を愛しんでやさしく語りかける。祖母の命が消えた後も祖母の生きたこの世は続く。ドバトの命もまぶしいこの世だ。
 それぞれの命の現実は、他人には到底追い付けないところもあるけれど、それぞれの詠う命への思いの深さは伝わってくる。
  胃がもたれるぢやなくて胃はもう無いんだつたと呟けば妻と娘がわらふ 『時剋』
  ラーメンの味は何派か話しつつ解剖進む塩と答える        『命の部首』

 呟きを笑いに変えてくれる家族があり、たくましく命と向き合う仲間がいる。現実のシビアな面を受け止める人たちがしみじみと明るい。胃無しランナーもラーメン塩派も真剣に命をおもう人であり、命を詠う人だ。そして誰もがみんな命を表現しているとあらためて気づく。

ページトップへ