時事詠、個人的に。 / 小林 真代
2024年12月号
元日の能登半島地震に日本中が衝撃を受けた二〇二四年。「短歌研究」3月号では、早々に能登半島地震に反応し、「能登、北陸の歌人たちと作る短歌研究」という特集が組まれた。能登半島地震で被災した歌人や能登にゆかりのある歌人たちが地震に関する歌を作ること、被災したその土地でかつて生まれた歌を読みなおすこと、などがこの特集では行われていて、能登のことは地震以前のこともよく知らなかった私にとっては発見も多く、今も印象に残る特集だ。な
にしろ元日の災害に反応の早かったことにとても驚いた(3月1日発行、2月21日発売だった)。災害現場では素早い対応が必要な場面があるけれど、短歌の雑誌でこのスピード感。
この時の編集後記には「ニュースを伝えるのが本誌の役割ではないと思います。では、なにができるのか。」と書かれているが、ニュースではないからこういう特集ができるのでもあるだろう。災害はその後の時間のほうがずっと長い。そして能登では九月に発生した大雨による被害も重なり、復興は思うように進んでいない。この災害のあとの時間に、ニュースではないからできることがあるとしたら何なのか。
自然災害に限らず、ウクライナ侵攻、ガザ侵攻のニュースも多く目にするが、これらもまた多くの歌になった。
「現代短歌」7月号では、「特集GAZA」に多くのページ数を割いた。短歌や詩、論考が掲載され、短歌に収まらない内容の広がりが問題意識の強さを感じさせて興味深く読んだ。人間の能力では太刀打ちできずに被害が大きくなってしまう自然災害に対して、戦争や侵攻は人間が行うことであり、人間が止めさえすればよい話なのだが、それができない。そうして多くの命が失われ、今日も厳しい状況を生き延びようと必死の人たちがいる。寄せられた歌や文章を読んでそのことをあらためて思い知ったのだが、そのことについての無力感をいう歌はほぼ自分のことのようで、それも辛くなった。たしかにそれが現実なのだけれど。
「特集GAZA」に寄せられた作品から。
関心の持ち方わからないままに五月 ギルボア・アイリス薫る
大口玲子「六千年のオリーブ」
「運動」になるのは怖い ほどほどに大きな声で「平和」を叫ぶ
西巻真「パレスチナは自由になる」
ベトナム戦争のときの反戦の高揚が存在できない二十一世紀に
花山周子「大きなオークの木の下で」
一首目、戦争で苦しむ人々に心を寄せ、関心を持ち続けることが大事。それはわかるけれど、そのやりかたがわからないという。ああ、これだな、と思った。今の自分を正しく言い当てられたなと思った。注視し続けてさえいればよいのか。それでよいとしたら、それは誰にとってよいということなのか。たくさんのわからないことを抱えたままニュースを眺めている。ギルボア・アイリスはパレスチナの国花。その花を称える心は、そこからどこへ向かうということもできずにここにあるままだ。
二首目、三首目は、戦争はダメだと思っていても、反戦に「運動」として関わることができない、声を上げることができない状況を詠む。「怖い」が率直だ。私も怖いと思う。連帯を示す動きが伝えられることもあるけれど、それもニュースとして眺めている側の人間のほうが圧倒的に多いだろう。かつての反戦運動の盛り上がりは今の私たちの生活の中からは生まれないのだ。
これらの歌では、戦争がわからないということ、戦下で苦しむ人々に何もできないということを、自分自身の現実の問題として追ってゆこうとする。ガザ侵攻の起こっているこの世界と自分との関係を見つめてそこから詠うことで、他人事ではなくガザを詠うことに近付いてゆく。
教室の床に散らばるクレヨンが薬莢のよう 拾え、と命ず
齋藤芳生「牡丹と刺繍」
同じ特集から。自分の生徒である子どもと戦下を生き抜く子どもとを重ねておもう時、いま教室で子どもたちを慈しみ育む自分が戦場で他人の命を雑に扱う人間と重なる可能性をおもう。現実の齋藤ならこんな言い方はしないはずの結句が怖い。襲う側も襲われる側もおなじ人間だと思うとき、ガザを詠う怖さは実際の戦場とも違うところからやって来る。自分自身が怖くなる。人間の怖さは当然自分の中にもあるのだ。
自然災害にしても、戦争にしても、それらを歌にする人たちには実際にはそれらを経験していない人もたくさんいて、時事詠の当事者性はこれまでも何度も問われてきた。広く考えれば誰もが当事者で、ともあれ心を寄せ続けることが大事というあたりへ答えは着地するのだが、そろそろそこからも動き出さねばならないのではないか。それぞれの特集からはそうした思いを感じる。でも、その最初の一歩の踏み出し方がわからない。
「まひる野」は、2024年度の年間テーマとして「時事詠を考える」を掲げ評論を掲載している。身近なものの値段から震災やコロナ禍の歌まで幅広く取り上げ、各評者がそれぞれの視点から時事詠について論じている。
このテーマ評論で染野太朗は、「後ろめたさ、外から」と題して時事詠を考察している。「正直なところ、時事詠を詠むことが怖ろしい、あるいは後ろめたいという気持ちがある。」と染野は書く。そしてその後ろめたさを、時事を「題詠化する後ろめたさ」と表現する。
(前略)時事を詠もうとするときの、あるいは読むときの、拭えないこの後ろめ
たさはなんなのだろう。それらは間接的にであれ自分の生活に影響を与えている
ものであり、しかし同時に画面や紙の向こう側の出来事でもあるということ、そ
のどちらもが以前より強く感じられ(るような環境を生きており)、だからこそ
もっと真正面から時事詠に取り組まなければという思いと、しかしそれをするこ
とは結局、自分の歌のためにそれらを歌の題として消費しているに過ぎないので
はないかという思いが、強く摩擦を起こす。
広い意味では誰もが当事者といえるが、その出来事をニュースを通して知ることしかできないという意味ではやはり多くが非当事者であり、その出来事を歌にすることは、それを歌のネタと捉えているのと同じことで抵抗を感じる。当事者でもあり、非当事者でもあると自分の立場を捉えてみても、非当事者であるほうの自分が時事詠に関わることを、染野は危ぶむ。
膨大な量の情報が容易に手に入るようになった今、ある出来事が起きればかなり詳細にその事情を知ることができるようになった。しかしこの状況に、それを詠うこと、詠おうとすることが、現状ではまだ追いつくことができていない。世界は複雑なうえに展開が早い。次々と事が起こる。それに対応して歌をつくろうとすることは、それこそ時事を「題詠化する後ろめたさ」を生みかねない。
染野は、この後ろめたさを個人的な問題かもしれないと何度か書いているのだが、ある出来事が起きた時、それとの関わり方は人それぞれだ。それを詠うのも詠わないのも人それぞれだ。私個人のことを書けば、東日本大震災と原発事故を経験して以降、いわゆる震災詠とよばれる歌をつくってきて、後ろめたさ、苦しさはずっとある。甘えていないか、福島ならなんでも許されていないか。ずっと考え続けている。その一方で、震災を事後とは思っていないけれど、時間が経つにつれて、もはや時事ともよばれない震災を詠うこと自体があきらかに減っていて、そのことを考えることも日頃は減っていて、減っていることを後ろめたく思うことがある。私にとっては詠うことも詠わないこともどちらも後ろめたい。もうひとつ個人的なことを書けば、私は震災について歌にしないこと、歌にしても発表しないことがたくさんある。自分が消化できていないから歌にできない。これから時間が経ってから歌にすることもあると思うけれど、それをいつまで震災詠とよぶのかは私にはわからない。そもそも震災詠って何だ、時事詠って何だ。今でもよくわからない。
詠うこと、詠わないこと、私にはどちらも怖くて後ろめたく思える。でもやっぱり詠いたいと思うことは詠いたい。たくさんの情報を手にすることができ、SNSで容易に人と繋がることができ、そうして他者に共感することがどれだけ上手になっても、人はそれぞれの立場でしか生きられない、詠えない。それはもう個人的というか、孤独だなと思う。染野の後ろめたさは染野のものだ。ただ、染野が時事詠について述べながら「個人の、作者としての態度や資質の問題」「ごく個人的な感覚だが」と繰り返す苦しさについては、やっぱり簡単にわかると言ってはいけないのだろうけれど、私も苦しいです、とは言いたい。
怖い、後ろめたい、苦しい。時事詠、また時事詠を語る言葉のなかにこうした言葉はたくさん出てくる。それぞれに時事と、時事詠と、格闘しているのだと思う。世界も言葉もいよいよ複雑でそこに居続けることは本当に怖いなと思うこともあるけれど、当事者であり非当事者である私を生きて苦しんで詠うよりほかない。
この一年、手元において繰り返し読んだ歌集から印象に残っている歌を。
隣人にスマホの虹をみせながらソーシャルディスタンス超えてゐる
小林幸子『日暈』
ヘルシンキの友がいくたび言ひくれしBe Safeこの春はわれがいふ
一首目、人との距離感がコロナ禍では以前と変わり、その影響は今も続くが、この歌ではそれを良いとも悪いとも言わずにさらっと超える。気が付いたら超えていたという感じだ。人と人との距離感は、他人が決めるものではなかった。そう思い出して、はっとした。新型コロナウィルスの影響下では、世界中の人々が否応なしにその当事者となり、今でもその影響がすっかりなくなったわけではない。では全員が当事者であることを歌にする時、後ろめたさはあるか。みんなが当事者といっても、そこにもやっぱりそれぞれの立場はあるのだけれど。いまは新型コロナウィルスがニュースになることはがくんと減って歌も減ったが、コロナ禍に詠まれた歌が歌集にまとまってきているので、そういったことも考えながらまた読んでみたい。
二首目のヘルシンキはフィンランドの首都。フィンランドはウクライナを強く支援する。遠くの友とお互いを「Be Safe」と短い言葉で労わりあうが、かつて労わってもらったのは、東日本大震災と原発事故の頃だろうか。厳しい状況で交わされる短いあたたかいことばの大切さを思う。
どちらの歌も相手との距離をさりげなく超える。ニュースとして共有されるものの外側にはこういう場面がたくさんあるだろう。それを歌にすることも時事詠だろう。
メモ書きのアラビア文字の「たすけて」と書いてあつても美しからむ
目黒哲朗『生きる力』
「たすけて」のひとことが言ひたいけれどパスコード要求されてゐる昼
日常であり思ひ出であるやうに御馳走様を言ひてマスクす
タイトルが気になって読んだ歌集。意識的に時事を多く詠んでいると感じたが、日常を詠むときと社会的な事件や出来事を詠むときとで、この作者のスタンスは変わらないように見える。独特な表現にも引き込まれた。
一首目は、そのメモ書きの内容や背景についての判断や批判はなくて、ただアラビア文字を美しいという。たしかにアラビア文字を読めない私は、そこに「たすけて」と書いてあるとしても、わからずにぼんやり眺めて、美しいなとおもうくらいしかできない。遠い国のニュースをここで眺めている私のできることなど、実際このようなことなのだ。
二首目も「たすけて」。たすけを求めている人がいるのに、その声は届かない。社会の仕組みは整備されてそれはよいことのようだけれど、それなのに明るい昼のひかりのなかですら、たすけを求めるひとの声はまっすぐに届かない。怖い。
一首目も二首目も、「たすけて」が届かないという歌だ。空気を読むとか、深読みとか、そういう言葉を頻繁に使うわりに、私たちは見えないことはすぐ忘れてしまう。考えなくてよいものとしてしまう。文字もインターネットもいくら普及しても、零れてしまう声がある。そういう声に耳を傾けることが短歌にできることなのかな、とこの歌集を読みながら思ったのだが。
三首目は「三月二十九日(水)」と詞書がある。二〇二三年の三月。進路が決まった息子が家を出てゆく頃の歌。子どもへのおもいとコロナ禍で身に着いた習慣とが絡み合って一首になり、時事詠のような、日常詠のような、独特の味わいがある。困難なことの多かったコロナ禍にも、のちのち心の支えになるような場面はあり、その日々を「思ひ出」としていつか振り返る日が来るのだろうと思えてくる。よいこともよくないことも、やがてすべては過ぎてゆくのだ。
たとえば社会的に大きな影響を与える出来事を詠むのが時事詠と定義するなら、それらは悲しみや怒りをこめて詠われるものかもしれないけれど、時事詠はそればかりでもないのだと思う。私は負の感情ばかりを歌にしているわけでもないし、それだけを歌にしたいとも思わない。どっこい生きている姿を詠うのも時事詠だ。
ともあれ、何もない一日というのはないから、今日も時事は詠まれ続けて、時事詠について考える動きは常にあって、その繰り返しだ。その出来事とどう向き合うか、それを歌でどう表現するか、考える、その繰り返し。でもそれは本当は時事詠に限ったことではないはずだ。
遠くの戦争や災害のニュースを見て心が動いたから歌にするなら、その遠さをとことん噛みしめたい。今ここで生きて歌を詠む、その苦しさもよろこびも味わって詠いたい。次の一年はどんなことがあるかわからないけれど、生きる力になる言葉を、歌を、もとめていたい。