短歌時評

我と自由と / 小林 真代

2024年9月号

 七月、「歴程・夏の詩のセミナー」に参加した。「歴程」は詩の同人誌。二泊三日のセミナーに二十名ほどの詩人が集った。私は同人ではないが、知人に誘われ、開催地が近いこともあり参加することに。
 日中は、「歴程」創刊者の一人である草野心平を偲ぶ「天山祭り」に参加したり、同人の講演を聴いたり、盛沢山のプログラム。夜は連句と朗読のグループにわかれて活動。私は欲張って両方に顔を出した。
 ときどき歌人たちが「歌仙を巻く」のを見かけることがある。最近では「西瓜」第十号(二〇二三年十月発行)で「西瓜ダブルソネット」と題して連句が行われた。また「塔」二〇二四年五月号では「八角堂便り」に三井修が、金沢で歌仙を巻いた話を書いている。どちらも楽しそうで、やってみたいなと思っていたところへこの話をいただいたのだった。
 連句には式目とよばれるルールがある。先の「西瓜」の連句はアレンジしたルールで行われているが、私が初日に参加した連句の会では式目に忠実だった。二日目に参加した連句はまた少しやり方が違っていたが、なんにせよ定型によらない詩人が式目に拘り、しかも共同で作品を作るというのが面白い。
 連衆(連句の参加者)は全員もちろん詩人だったが、最近の短歌は「我」が多いという話が出たのが興味深かった。季節を詠み込むことを短歌は条件にしておらず、そのぶん自由で、「我」が多いかもしれない。五七五または七七という付句の短さや、共同で作品を作るスタイルも、連句で個を表現する難しさになっているだろうか。なんにせよ初めての連句では、歌を詠む自分と向き合うことに。表現ならもっと普遍的なところを目指さなくてよいのか。詩はもっと「我」ばっかりだけど、とも言われたのだけれど。
 朗読のグループでは、自作の詩をそれぞれが朗読し感想を述べ合った。詩人にとって詩の朗読は当たり前で、そこまで含めて作品とする意識も強い。短歌でも音読は大事と言われるが、ここまでの意識は日頃求められない。
 本当は朗読に参加する予定はなく、見学だけのつもりだったので自作の詩を用意していなかったのだが、短歌でいいからと言われ、「初めての試合は小林VS小林うちの子は負けたはうの小林」を急遽披露した(こういう時、さっぱり自分の歌が出てこなくなる不思議よ。挨拶の歌としてもこの歌があって本当によかった)。朗読というより暗誦だったけれど、参加者の皆さんの詩の朗読に引っ張られたのか、あるいはそもそものこの歌のリズムのせいなのか、自分が暗誦しているのが短歌なのか、詩なのか、ちょっとわからなくなるような感じがあった。「五七五七七になってました?」という声もあがり、今の短歌はみんな口語で自由だよね、という話に。どのあたりの歌を思っての発言かはわからなかったけれど、川本千栄の言う「キマイラ文語」なども思い浮かび、最近の短歌、今の短歌、のなかに自分もいるのだとあらためて意識した。しかし定型を持たない詩人から「自由だよね」と言われると落ち着かない気分。ほかに、短いゆえの短歌のインパクトの強さや、一首で場面を立ち上げることができるゆたかさなどが話し合われ、普段は案外こういうことを忘れて歌を作っていることに気づかされた。
 いつもと違うところから見た短歌は思っていたより自由だった。では短歌は自由になって広がったのか、閉じたのか。自由な表現が、個々の得意なほうへ、あるいは有利なほうへ、ますます細かくわかれてゆくなら、短歌は狭く閉じてゆく一方のような気がする。短歌を作らない人たちはそのことに敏感だと感じた。短歌はこれからも変わってゆくのだろうけれど、私は短歌を選んだ理由を何度でも自分に問いながら、広いところ、開かれたところで自由に詠っていたいと思った。

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