短歌時評

私は私のしずかな心臓 / 小林 真代

2025年9月号

 村上きわみの『とてもしずかな心臓ふたつ』を読む。歌集未収録作品をまとめた第三歌集「とてもしずかな心臓ふたつ」があらたに編まれ、第一・第二歌集とともにおさめられている。この一冊をもって「決定版」という。
 村上きわみは二〇〇〇年代初頭、インターネット上で歌人同士のつながりが生まれ始めた頃に現れた歌人だが、そういった動きとまったく関係ないところでふらっと短歌を始めた私は、村上きわみを名前しか知らなかった。読む機会があればと思ってきたが、こういうかたちで読むことになった。
 このところ遺歌集や故人の全歌集をよく見るが、この歌集を編んだ錦見映理子はこの本について遺歌集という言葉を使っていない。その理由はきっとうまく説明できないことなのだろうけれど、そういう言葉にならないことをすくいあげるのが短歌だろう。『とてもしずかな心臓ふたつ』はそんなふうに思わせてくれる歌集だ。
 第三歌集としてまとめられた「とてもしずかな心臓ふたつ」から読んでゆく。気になる歌はたくさんあるが読みあぐねているところもあり、どこからどう書こうか迷う。
  なつかしい未来 あなたともう一度にくんだりあいしあったりしたい
  もういない犬と並んで歩きたいぎうと霜柱を踏みながら
  猫を吐きたいほどの夜です会いに来て下さい来ないでくださいどうか

 「〇〇したい」という歌が切ない。ちょっと屈折していたり、実現が難しそうだったりする願いが詠われている。憎むことも愛することもきっと大変なことで、でもあなたとはいつ出会ってもお互いの全存在をぶつけあいたい。もういない犬とは、いた時と同じようには並んで歩けない。霜柱を踏む感触はこんなにリアルだが。猫を吐きたいというのは、猫好きがよく「猫を吸う」というが、その逆を思い浮かべればよいのだろうか。感情がいっぱいになって、来てほしいけれど来てほしくない、もうどうしたいのかわからない。
 〇〇したい、と望みながら、気持ちは揺れて定まりきらない。だから、いっそ揺れたままぜんぶを願ってしまうのだろうか。
  存在をぜんぶひらいて夕立を待っている 草もわたしも犬も
  しずかだ 白桃に刃を入れながら誰の無念を生きているのか
  ろむろむと降りこめられてどこからが君でどこから雨なのだろう

 存在をひらききる潔さと怖さ。お互いの存在をひらききったら境もなくて、草もわたしも犬も夕立もみんないっしょになる。そうなる時を本当は待っているのではないか。今、自分は誰かのいつかの無念を生きている。白桃に刃を入れる時にやってきたその感覚を受け入れる。白桃にも誰かの思いが宿っているかもしれない。雨と雨に濡れる君との境を探す。境が見つからなければ君は雨だ。
 自分と世界の境、存在と不在の境が曖昧で、その縁をたどるように読むのが心地よいときもあるが、不安に感じるときも多い。読みながら一緒に揺れてしまう。でもやっぱり村上きわみは村上きわみで、私は私。いっしょにはなれない。それでも村上きわみの歌を私が読むことで、世界や思いは繋がってゆく。こういう繋がり方もきっとゆるしてくれる。
  (ゆるすとかゆるさないとか)恥ずかしい釜揚げうどんぞるぞるすする
  野に置けば野の椅子として待つでしょう わたしにどうぞおすわりなさい

 自分を前面に出す詠い方ではない。今ここのすべてが恥ずかしそうでもある。そしてしずかに何かを誰かを待っている。ただこの世界にしずかに存在し、あけっぴろげというのではなく、捧げるように自分のぜんぶをひらいて待っている。その佇まいに私は魅かれる。

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