とりとめなく六月 / 小林 真代
2025年8月号
「歌壇」二〇二五年六月号の特集は「短歌にタブーはあるか?短歌の批評性とは」。なんとも重いテーマでおっかなびっくり読みはじめた。五月号の久永草太の時評「何を言っても許されるのか」を受けての特集らしい。
久永の時評は、「歌壇」二〇二五年二月号に掲載された高島裕の作品十二首「アイデンティティー」について書かれていて、歌として評するのではなく、内容についての強い批判の言葉が述べられている。この件、いろいろな人が言及しているようで、「塔」二〇二五年六月号の「青蟬通信」で吉川宏志も書いているから皆さんもご存知だろう。
「アイデンティティー」から一首。
「女性の社会進出」
「産む性に賃労働を押し付けた」と数十年後に責められむ、男は
このご時世に思い切った連作だなあと思ったし、それを批判して「怖かった」と主張した文章も思い切った文章だなあと思ったし、私はこの一件が怖い。久永の「怖かった」を、「青蟬通信」で吉川は「文学的な論争を避けようとする意識が感じられ、そこにやや物足りなさはあるが、深く考えたうえで選んだ書き方なのだろう。」と書く。私は久永の「怖かった」も、それを「選んだ書き方」と肯定することも、そうだなあと思う。同じく「青蟬通信」で「良識を逆撫でする言葉にどう向き合うのか、熟考しなければならない時代に突入している」と書かれいていることも。ただ、いま女性の社会進出や婚姻の制度についてある方向性が出来つつあり、私はそのことに賛成だけれど、たとえば引用歌のように数十年後のことを言われるとわからないから怖い。そのことを考えることも、考えないことも怖い。みんな何かを怖いと思いながら歌を、言葉を、書いているのかもしれないと思う。
この特集で、岩内敏行は「作歌する以上は読者を意識し、読まれる歌でなくては成立しない。何をうたっても自由だし制約は無い。が、根底に〈読者〉があるかどうかだろう。それが無ければ不快、不愉快だけの歌になってしまうし、批評の土俵にもあがらない。」と書く。歌の詠み手側において〈読者〉の存在を意識することの必要を述べた文章はほかにもあった。
歌を作ること、歌を読むことは、歌を挟んで人と人とが向き合うことだから、どちらの側に立っても歌の向こうの相手をおもって歌と向き合いたい。それは怖い時もあるのだけれど、楽しい時もあって、歌とか言葉ってそういうものじゃなかったか。
短歌のことか、タブーのことか、それとも何を考えているのかな私は、と思いつつこの「歌壇」の特集を読んで、今度は「短歌」二〇二五年六月号の特集「平明と奥行き」を読んでまた短歌の詠み手と読み手を考える。この特集の総論で佐伯裕子は「歌は読み手の感性とともにある。」と書き、ここでも短歌の読み手の存在の大きさが言われている。「その歌を愛する読み手がいて、累々と深い鑑賞を続けてきた」とも述べていて、歌だけでなく、歌の読みも引き継がれてゆくことを思った。
その同じ文章で佐伯は、短歌においては助詞の働きが一首に奥行きを与えるとも説く。
十方
斎藤茂吉『あらたま』
初句を「十方は」とすれば歌意は通りやすくなるが「それでは言い足りないのである。もっと強く、もっと深く、もっと広く。」と佐伯は書く。真昼の光が全方位に展開する。その強い明るさのなかで七面鳥の張りつめた体も十方に弾けて光になる、いや、弾けそうで弾けないんだけれど、私にはそんなイメージが湧いてくる。言葉にも内側から圧してくるような力強さがあるこの歌の迫力は、「十方に」に始まり全体に行き渡る。私はしばらくこの歌を頭のなかでふくらませて楽しむ。