信頼または感応 / 荻原 伸
2011年10月号
山田富士郎の「短歌月評」(「短歌」角川書店)を楽しみに読んでいる。八
月号では、馬場あき子「佐渡行」と穂村弘「チェルシー」を比べ、「歌の性質
の上での断絶があるようだ。(略)大雑把に言えば、馬場あき子の歌を読むと
世界の感触が伝わってくるが、穂村の歌からはシミュレーションをくりかえす
自我の輪郭が与えられる。相違は技巧の差といったレベルのものではない。
議論が起こらないのは不健全であり、どこかがおかしい」と語る。
九月号では、辺見じゅん「水に映す」について言う。
短歌を読んだという充足感を深く心に残す作品である。充足感のよってき
たる所以はいろいろに言えそうだが、まず呼吸の長さと深さをあげなくて
はならない。これらの歌を早く読むのは不可能である。ゆっくり読むことを
歌が要求しているのであり、呼吸の長さと深さがその大本にある。深く長
く呼吸できれば、既にそこには非日常的な言葉がある。(略)東日本大震
災を反映した歌がないのも、意志的な選択の結果なのかもしれない。
それから、三枝昻之「水平線の記憶―東日本2011年春」がほぼすべて震
災の歌であり、そこには、三枝が「あの夜は原発の事故はなかった―暮らしの
中の機会詩」(「歌壇」六月号)において「『機会詩は社会詠に繋げるのでは
なく、〈機会詩=折々の暮らしの歌〉という本来の図式の中に置き直して理解
するのが望ましい』と結論を出している」のと同じスタンスで詠んでいると評
している。
このように、山田の評はいつでも通時的に短歌を捉えようとし、また詩とは
何か、短歌とはどういうものであるべきかという自分の短歌観をもってそれぞ
れの作品を語っている。その姿勢に共振し、信頼をおく。実際に私などは、山
田の評によりながら、前月の短歌雑誌にかえって読み直すことが少なくない。
読者としての自分と、作品と、さらに違う別の極に信頼できる読者の存在があ
るという関係が短歌を新鮮にひろげてくれる。
第四七回短歌研究賞は柏崎驍二「息」と花山多佳子「雪平鍋」が受賞した。
岩手在住の柏崎はその「受賞のことば」に、三月一一日の地震と津波によって
被害を受けた郷里や一変した海辺のことを言う。そして、この受賞が、「ぼん
やりしていないで、詠むべきものは詠みなさい」と言われているようだと語る。
点滴を受けて来しとぞ夜昼の地震に嘔吐の止まぬ犬二匹
(「短歌研究」九月号)
のがれ得ぬ風土のありてこの川に戻りくる南部鼻曲がり鮭
一首め。「点滴」で人間を思うのだが「犬二匹」でこの地震が昼夜問わず全
ての生物を脅かしているのだと改めて怖くなる。二首めも「のがれ得ぬ風土」
に人間を感じ、重なるように「南部鼻曲がり鮭」に迫るものを感じる。人間も
生物もただただそこに生きている。
花山にとっては、「短歌研究」の連載の五回めを作っている途中に大震災が
起きた。本音を言えば「黙っていたかった」のだそうだが、連載を続けたこと
で「そのとき、どうしようかと思ったぐちゃぐちゃの感じがずっと残っている」
から、結果的には有難いとも言う。
亡霊のごと人ら立つ。開きたる常磐線電車の内の暗がり
(「短歌研究」九月号)
幼くてわれは掴みき若き父が畳に引き摺る兵児帯の先を
節電による暗さを思わせる一首めは、なんという恐ろしさ。二首めは、父と
の記憶。「兵児帯」が玉城徹らしい。震災と父の死。生と死に感応しつつ、そ
こに花山の日常があり、そこから詠い起こそうとしている。