今、ここの歌 / 小林 真代
2025年12月号
世の中のことも、短歌のことも、とにかくたくさんのものやことが発生してはあっという間に過ぎてゆく。
現代社会の言葉が、自分の知っている言葉とはちがう、そんな不安がだんだん大
きくなりつつあります。しかしそれでも、わたしの知る言葉で歌を作る以外には
ありません。
『はるかなる虹』のあとがきで小島ゆかりはこう書いたが、これを自分のこととして受け止めている。人が動いて社会が動いて言葉も動く。その変化の速さはもちろんだが、量も膨大だ。今に始まったことではないが、すべてを知り尽くすことはできない。自分の持てる言葉で歌を作るほかない。
二〇二五年もたくさんの歌集が生まれたけれど、私はそのすべてを読むことはできない。『はるかなる虹』は二〇二四年の歌集で、同じく二〇二四年の歌集でこだわっているものがほかにも何冊かある。私は読みたい歌集を手元において何度でもゆっくり読む。今日は黒木三千代『草の譜』から何首か。
オシフィエンチム淡雪のふる惨劇はきのふなりしやあしたであらうか
オシフィエンチムはポーランドの村。ドイツ語名のアウシュヴィッツのほうが知られている。静かに過去から詠いだされて、結句で「あした」へ視線が動く。「あしたであらうか」という問いが読み手にぐっと迫ってくる。過去と現在、未来を地続きとして思考する人の姿が浮かび上がる。三十年ぶりの歌集ということで時事詠、社会詠も幅広い。この世はいろいろなことが次々と起こるから、そうなるのももっともなことなのだけれど。
ひとつ傘差してゆくのは思想にはあらずといへど あらずといへど
前後には、南京虐殺について見解が一致しない現状などが詠われていて、そういったことを踏まえてつくられた歌なのだろう。思想が同じだから一緒にいるわけではなく、別々の思想を持つ相手でもお互いの親愛や信頼は変わらない。が、そうは言ってもやはり腑に落ちない。親しさとは別にして自分の頭で考える。そしてきっと、自分の考えを変える気はさらさらないのだ。
クラスターつて果物の房をも言ふらしい熟れたぶだうの汁が飛び散る
ストーカーのやうなロシアの遣り口の いやだつて言ふのに、放してほしいのに
一首目は新型コロナウイルスの広まり始めた頃の歌だろう。クラスターという語から感染症のイメージとは遠い視覚的な鮮やかさを引っ張り出す。集団感染の果てに死者が出る状態を言っているのだと思うが、飛び散るぶどうの汁は、飛沫感染や、閉塞感が限界を超えて弾けた感情を思わせる。二首目はロシアのウクライナ侵攻に別の社会問題を重ね、生々しくそのイメージを呼び起こす。それぞれの歌は明るい内容ではないが、飛び散る果汁のみずみずしさや拒否する口調にはどこか華やかな感じも受ける。
世界中が感染症に覆われて先の見えない状況をどう言葉にするのか、遠くの戦争を歌にしてよいものか、等々などなど、誠実に真剣に現実と向き合って歌を作ってゆくときも、自分がこれまでに養ってきた感覚から表現が出てくることはある。日々の雑事と戦争などを同じに思うことはできないけれど、自分が大事にしている感覚や表現、歌との向き合い方からつくる歌が社会詠、時事詠として意味を持つこともあるだろう。
黒木三千代の時事詠というと『クウェート』の「侵攻はレイプに似つつ八月の涸谷越えてきし砂にまみるる」が思い浮かぶ。発表した当時ずいぶん批判されたようだが、「レイプ」という語に傷つく人は今も当然いる。それでもこの歌のこの比喩にはものすごい力がある。歌は読まれるほど誰かを傷つけたり、誤解をされたり、難しいことも増え、とくに今の社会の風潮では表現は慎重になるが、かつて激しく批判されたこの歌は、「侵攻」が起こると繰り返し思い出され、問い直され、世界から侵攻、戦争がなくなっていないことを示し続ける。ものすごいエネルギーだ。
そしてこれらの表現に力を感じるのもわたし、その表現がやりすぎではないかと不安になるのもわたし。歌の読みは自分自身へ返ってくるから、この歌にいま感じていることを私は私のこととして引き受ける。そうして自分の歌を作ってゆく。歌を詠むこと、読むことは、その繰り返しだ。
『草の譜』には好きな歌がたくさんある。
ばじりこんてれめんていなあるへいと加須底羅 さう杉箱の香り
ひとに
俗情に疎
一首目は子どものころの記憶。呪文のようにポルトガル語の単語が並ぶのが楽しく、その後で「さう」と思わず感動の声が漏れる。思い出はこの杉箱の香りとともに広がるのだろう。二首目は自分の心のうちのつぶやきと相手への呼びかけとで一首になっていると読んだ。シンプルなつくりが定型の面白さを思い出させる。終助詞もやわらかく気持ちを表現する。
おとうさま百たび声のかなしみを溜めた桔梗
おとうさま、と何度も何度もくりかえし呼んだ声、ということだろうか。その声に宿るかなしみを溜めた桔梗が、ぱちんと裂けるように花ひらく。「声のかなしみ」はウエットなのに、「桔梗がぱちんと裂ける」で硬質さが加わって不思議な味わい。この硬質さが痛々しい。
もやもやと暑気来る日にて居睡れば かなかなが澄み亡き父が死ぬ
夏の日の眠りに歌は始まる。下の句はその眠りと現実のあいだでのことだろうか。結句の言い切りが否応なく父はもう死んだことを思わせる。「薬包紙赤かりし不意に胸に来て 二十八で死にし父を覚えず」という歌もあり、「亡き父が死ぬ」と死を重ねる表現は、幼いころ亡くして記憶にない父を、わからないなりにおもいつづけてきたからこその表現なのだろう。桔梗の歌の不思議な味わいも、覚えていない父を恋うゆえの硬質感、清潔感だろうか。
『草の譜』から歌を引きながら、どの歌も結句に力がこもっていると感じる。もちろん一首全体が魅力的なのだけれど、引用した歌をあらためて読んで「あしたであらうか」から「亡き父が死ぬ」まで結句の力強さに魅かれる。問いかけで終わる歌は読み手に迫ってくる。それ以外の終わり方の歌も結句で読み手へもう一歩踏み込んでくるような迫力がある。どの言葉も疎かにしないで詠い切ることの積み重なりをこれらの結句に感じる。たった三十一音しかない短歌だから、一語一語、最後まで、細部まで大事に詠いたい。
大辻隆弘の『短歌の「てにをは」を読む』は、「てにをは」に注目し、助詞や助動詞といった細部にこだわって歌を読む。連載中から楽しみに読んでいたが一冊にまとまってうれしい。これまでいろいろな歌を読んで、短歌における「てにをは」の使い方が散文と微妙に違うケースをなんとなく知るようになった。面白くて真似してみたが、文法として正確でない、素直な使い方とは言えない等の理由で否定されることも多かった。その「てにをは」について語る本が出た。長くそばに置いて楽しみたい。
結句に力がこもる、ということでみていくなら、大辻は「基本形の衝迫」という章で、動詞の基本形で歌が終わる場合について書いている。斎藤茂吉の歌の場合を例にあげ、文語を用いて作られた短歌では動詞に「たり」「り」「き」といった助動詞を付けることが多く、そのなかに剝き出しの動詞の基本形で終わる歌があるのは珍しいことだと述べ、そこに「強烈な衝迫を感じてしまう」という。
その理由として、時間に関わる助動詞を使った歌を読む時はその事象を過去のこととして認識するが、基本形(現在形)の時は今ここで起こっていることとして認識するからだという。過去のこととして振り返る余裕はなく、今まさに起きていることを表現するからこその衝迫性を大辻は感じている。
動詞の基本形で終わる歌が私は好きだ。言い訳無用の、動作そのものが訴えてくる何かに私はひどく打たれる。その何かを、大辻は「衝迫性」と呼ぶのだろう。どこか整い切らないような感じが動詞の基本形で終わる歌にはあるが、とにかく今の目前の出来事をぶつける率直さが、韻律を飛び越えて魅力的に思える時がある。と思うのだが、皆さんはどうだろう。
続く章では、口語の基本形には文語の基本形ほどの迫力が生まれないことにも触れる。口語には時間を表す助動詞が少ないので、動詞の基本形で終わることがとくに珍しくない。また、口語の動詞の基本形は、「今ここ」でのことを表さず、未来や一般的事実、習慣など多様な意味を表現する。それゆえに文語の動詞の基本形が持つ「今ここ」を表す強さはないという。
ある意味では口語の動詞の基本形は使いまわしやすい便利な形だと言えるのだが、表現の強さはそのぶん薄まったということなのだろう。また、口語の基本形が多様な意味のなかのどれを表現しているのかは、副詞が確定させると指摘する。足りなければそれを補う工夫が生まれるのも言葉の面白さだなと思う。
今年の歌集から、動詞の基本形で終わる歌を読む。
待ってたと言えば待ってたことになる あとは黙って自転車をこぐ
山中千瀬『死なない猫を継ぐ』
石を投げる。石が戻ってくるを待つ。その一〇〇年を笑ってすごす
一首目、「あとは黙って」によって「自転車をこぐ」ことに集中する今がくっきりと見える。衝迫性があり、その動作には意志も感じる。二首目は基本形三連打。「投げる」は一瞬の動作だが、「待つ」「すごす」は一〇〇年の時間を持つ。その一〇〇年を笑って待つという明るくて強い決意が凝縮されて伝わってきて、一〇〇年が一瞬のように思えるのは動詞の基本形の力ではないか。
白梅の八重ゆるみゆくまひるまにゆるみあまりしひとひらの落つ
小原奈実『声影記』
手をたまへ 双手
一首目、語の重なりを生かしたなめらかな韻律がたっぷり続いたあとで、結句の「落つ」はインパクトがある。そこだけ加速する感じがする。文語の動詞の基本形で「落つ」のほかにも「捨つ」などは口語の場合と違って二音で、とくにスピード感があり衝迫性を高める。二首目は比喩に加え「ひとときを」と「逢ふ」の結びつきが切迫感を強める。結句の基本形には一首を統べる強さがある。
少年の見蕩れてゐたる夕焼けはこれから万の空蟬を生む
渡辺松男『あぢさゐだつたらあぢさゐの中』
河口ほどさみしきものはあらざると見送るばかりの突端に立つ
冬のくもりに奇妙なあんしん感ありておそらく雪がちらついて止む
脱皮した蝉ではなく、抜け殻のほうに着目してざわっと妙な感触のある一首目。「これから」と言っているので、この基本形は未来を表現していると言えるが、「生む」という言い切りは確信に満ちているように思う。二首目は、二音の「立つ」が一首全体を受け、さびしさがぎゅーっとそこに集まるような、今のここでの感情が迫る。三首目は、一首目と同じく未来に起こることを基本形で言っている。「おそらく」起こるだろうと知っているから「あんしん感」があるのか。冬のくもりのこの感じなら、私も知っている。結句の「ちらついて止む」は、過去の経験を踏まえた上で、これから起こるはずのことを表現していると言えるだろうか。
現代の短歌では口語、文語、ときれいに分けることが難しく、基本形で終わる歌についてもそれぞれを区別することは難しいが、私は私の好きな動詞の基本形をこれからも意識していきたい。なにかと変化の速い今の時代で、それらが与え得る衝迫性、「今ここ」を強調する迫力を、面白がっていきたい。
言葉の変化は、その時には気づきにくかったり、気づいてもどうすることもできなかったりするのだろう。それでもそれぞれの場所で、大小さまざまな声で、たとえば短歌の「てにをは」をそれぞれに語り合っているのだろう。想像するとたのしい。そういう声を聞きながら、見落としや勘違いを修正してよりよい表現を探り続けたい。先のことはわからないし、過去に起きたことも実感できるわけではないし、そのうえ今このとき起きていることもよくわかっていない。それで一体何を表現しようとしているのだろうね、と考えだすと、頼りない気持ちになってくるが、それでも歌をつくるのだから、良い知恵を出し合いたい。もっと声を聞きたい。
二〇二五年は現代短歌新人賞表彰式での睦月都のスピーチを総合誌紙で何度も読んだ。「歌壇」二〇二五年五月号からその一部を。
私にとって短歌とは、透明なものたちをすくい上げ、それを短歌の器にそっと流
し込むようなものなのだと思います。目にはみえないもの、見えづらいもの、社
会や制度や人々の無関心によって隠されてしまっているもの。そういった愛すべ
き透明なものたちを、これからも短歌をとおして描き出していけたらと思いま
す。
受賞のことばとしてそれぞれに受け取ればよいのだけれど、「愛すべき透明なものたち」については誰もがそれを描こうとして歌を作っているのだと思う。社会にインパクトを与えるような大きなところを目指す人もいれば、みめぐりのささやかなところにそれを求める人もいて、どの歌も、それぞれにとっての「愛すべき透明なものたち」を摑もうとしている。
そうして表現されたそれぞれの大事を、私は大事に受け取りたいと思う。どの歌もみな、流れの速いこの世の中の、それぞれの「今ここ」で生まれた歌だ。よい歌を作りたいと思うのと同じくらい、よい読み手でありたいと思う。