青蟬通信

入門書で大切なこと / 吉川 宏志

2025年11月号

 今月号の特集は、入門書である。私が短歌を始めたのは一九八七年だが、そのころに出会ったのが、岩田正の『短歌のたのしさ』(講談社現代新書・一九八四年)であった。
 この本の序文には、岩田の軍隊体験が書かれている。正岡子規歌集だけを持って入隊したが、すぐに発見され、没収されたという。
「まことに敗戦直前の日本帝国陸軍は理不尽きわまるもので、私は申し訳ないと子規に詫びつつ、それでも厳しく残酷な軍務の合間に、五七五七七と指を折っては、歌を作りつづけた。いや実際はできなかった。紙に書けないので、暗記していても次々忘れた。」
 後で書くように、この本は入門書としては疑問点もあるのだが、それでも冒頭に短歌への覚悟が示されていたのは、とても良かったと思う。この一節は四十年近く経っても、記憶に残っている。入門書で最も大事なのは、短歌は人生を賭ける価値があるものなのだ、ということをいかに伝えるか、なのだろう。
 ただ、この本にはいくつかの添削例が書かれているのだが、若い頃に読んだときも、違和感を覚えることが多かった。
  胸高く母の形見の帯をしめ見合いの席に坐したる記憶
 たとえばこの歌を岩田は、
  胸高く母の形見の帯をしめ一生ひとよにひとつの見合いせしこと
と添削する。そして「この一回だけの見合いは、作者にとって極めて感動的なものであったろうし、それは成功したに違いない。一回だけの見合いだったから『母の形見の帯』も生きてくる。」と言うのだが、原作の歌には見合いが一度だけだったとは全く書かれていない。私は何度目かの見合いであっても良いと思う。この歌のポイントは「胸高く」で、ここに身体的なリアルさが感じられる。「一生にひとつ」と無理にドラマチックにしなくても良いのではないか。当時の男性の古風な価値観が、つい表れてしまったのかもしれない。
 さて、入門書で重要なのは、「悲しい」とか「寂しい」「嬉しい」といった語を使わずに歌を作るほうがいいことを、いかに納得させるか、なのである。岩田も書いているのだが、「白鳥しらとりはかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」(若山牧水)のように、「かなし」「あはれ」「喜ぶ」などを用いた名歌は少なくない。その矛盾をどう説明しているか。入門書を買う前に、まずそこをチェックすることをお勧めする。
 岩田の解説はやはり見事だと感じた。牧水の歌について、
「ここで使われている『かなし』は、(略)これこれこうだから悲しいのだよ、という一定の論理を追って、その帰結としての『かなし』ではないことだ。(略)母が死んだから悲しい、というのとはまるきり違う。」
 なるほど。そしてこう述べる。
「私は人間への愛に基調をおく作品を、作品のなかで常にもっとも高く評価している。しかし、『あはれなりけり』で万事を完結させてゆく作品は、同時にもっとも駄目な作品だと思っている。
 そういう意味で人情やヒューマニズムには落とし穴が用意されている。人間相互というものは、二人より三人、三人より十人という具合に多くなればなるほど、その共通理解や感動しうる質というものの最大公約数は、質的に低下せざるをえない、という宿命がある。」
 多くの人に共通して分かってもらえるような言葉を使うと、表現が陳腐になりやすいと指摘している。説得力のある意見だ。もちろんそれ以外の答えもあるかもしれない。そこに入門書の書き手の個性や力量が表れると言ってもいいだろう。
 もう一つ、入門書で大切なのは、過去にもさまざまな優れた歌が作られてきて、現在はその基盤の上にあるのだということを実感してもらう、ということにあるだろう。
  母は死をわれは異る死をおもひやさしき花の素描を仰ぐ
                           小野茂樹『黄金記憶』
 私は岩田の本でこの歌を知り、特に強く胸を打たれたのだった。入門書は、過去の名歌との出会いの場であってほしい。そう願うのである。

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