言葉による認識を引っくり返す / 吉川 宏志
2024年7月号
綾辻行人さんの『十角館の殺人』が、ネット配信のドラマになり、最近よく読まれているそうである。書店に行くと、たくさん並べられている。
このドラマは未見なのだが(とてもおもしろいそうです)、一九八七年に出版されたとき、私はトリックに身体が震えるような衝撃を受け、綾辻さんが在籍されていた京都大学推理小説研究会(京大ミステリ研)に半年ほど通っていたことがある。短歌のほうが中心になり、つい足が遠のいてしまったけれど……。
当時、永田和宏さんや河野裕子さんにも『十角館の殺人』をお貸しした記憶がある。河野さんには、京大ミステリ研の法月綸太郎
『十角館の殺人』は、ラスト近くのたった一行で、読者の先入観が鮮やかに裏切られるところが魅力である。推理小説なので詳しく書けないが、文章を読んでいるうちに、読者は知らず知らずのうちに、ある思い込みをしてしまう。しかし、全く別の見方ができたのだ、ということが最後に明らかになるのである。
それは小説の中だけではない。
私たちは、言葉によって世界を認識している。しかし、その認識は絶対的なものではなく、言葉を変化させることで、大きく揺らぐのだ。そうした言葉の不思議さに、綾辻さんの小説に触れることで、さらに惹かれていったように思う。
短歌でも、私が若い頃にまず好きになったのは、言葉によって認識を揺さぶるタイプの歌であった。
くさも樹もなべてが天へたれさがるこの倒錯を春というべし
村木道彦『天唇
今年亡くなられた村木さんの歌集は、短歌を始めたころ、何度も繰り返し読んだ。この歌を読み、「こういうふうに歌を作ればいいのか」と分かったような気がした。
私たちは、草や木は天に向かって伸びていると思い込んでいる。しかし、それも言葉によって作られた認識なのである。もしも宇宙から眺めたなら、草や木が天に垂れ下がっていると捉えることもできる。
「倒錯」という語が言い過ぎかもしれないが、「春」を一般的なイメージで表現してはいけない、思い込みを逆転させなければならない、という決意を読み取ることもできるだろう。
晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて
葛原妙子『葡萄木立』
葛原の歌も当時、先輩に勧められてよく読んでいた。有名な一首だが、私たちはこうした情景を見ると、「壜の中に酢が入っている」と自然に感じてしまう。そういうふうに言葉で表現するものだ、という常識が刷り込まれているからである。
だが葛原は同じものを見て、酢が立っている、と歌う。初めて読んだとき、非常に驚かされた。私たちが見ている〈現実〉とは、言葉によって照らし出された一側面にすぎない、ということに気づかされたのである。
掌
塚本邦雄『星餐圖
十字架のキリスト像を私たちは、磔
以前、長崎の教会を訪ねたことがあった。原爆で十字架を失ったイエス像が展示されており、海老反りのような不思議な姿で横たわっていた。そのときに、なまなましくこの歌が蘇ってきたのだった。
ちなみに雁来紅は葉鶏頭のことで、流されたイエスの血を暗示しているのだろう。キリスト教の矛盾を、塚本は歌おうとしていたのかもしれないが、そこまで解釈しなくても、印象深い歌である。
言葉によって認識を顛倒