比喩と〈不在〉 / 吉川 宏志
2017年11月号
今年刊行された『玉城徹全歌集』をぽつぽつと読んでいる。なかなか時間がなくて、遅々たる歩みである。
読みさしのただにふえゆくわがめぐり睦月なかばのひかり差し入る
『われら地上に』
という歌に共感するのであるが、玉城氏が読んでいるのは、
さし隠(こも)りストーブの辺(へ)にわれは読む荊楚歳時記またその注を
『徒行』
といった難渋な本なのであった。「荊楚歳時記」は、中国の揚子江中流地域の年中行事を記した書物で、六~七世紀にまとめられたものらしい。世間から離れて、本の中に閉じこもることで、広大な言葉の世界に心を遊ばせている。この世から消えてしまった時間や空間のほうが、豊かな存在感を持ちはじめる。
「荊楚歳時記」もそうだが、玉城徹は、魅力的な言葉を書籍の中から見つけてくることに、大きな愉悦を味わっていたように思われる。
繽紛(ひんぷん)と庭の薄荷の花に飛ぶ小さき蝶また蜂のたぐひは
『窮巷雑歌』
この歌、初句の「繽紛」という語が珍しい。ただ大きな辞書には載っていて、「花や雪などが乱れ散るさま」とある。『太平記』の三井寺合戦のところに、「落花自おのづから繽紛たり。」という表現があるとのこと。
この漢字の硬質な印象もさることながら、「ひんぷん」という響きが耳に残る。蝶や蜂が細かく飛び回っている様子が伝わってくるのである。「はっかのはな」も、「ひんぷん」とハ行音でつながっており、他の花とは置き換えがたい。
結句の「たぐひは」で、蝶や蜂をちょっと見下すように歌っているけれども、この歌の根幹には、滅びてゆくはかない生命への愛惜があるのであろう。
天(あめ)にしてかがやく雲は植物相(フローラ)と動物相(フオーナ)のごとくあひ近づける
『徒行』
こうした歌にもとても心惹かれる。「植物相」とは、ある土地に生えている植物全体を示す言葉である。たとえば日本だったら、杉や松やススキなどがそれに当たる。フローラはもともと女神の名前であるらしい。「動物相」も同様で、日本なら鹿や猿や狸などになるか。フォーナもやはり女神の名である。
自然科学の用語を使っているのだが、このように歌われると、天上で二人の女神が、雲の衣をひらめかせながら近寄っていくイメージが目に浮かんでくる。技巧的で、とても美しい一首だと思う。
おそらくこの歌は、「植物相(フローラ)と動物相(フオーナ)のごとく」という比喩が先にできた歌なのだろう。私たちは「AのようなB」という表現があったとしたら、Bが先に存在していて、それをたとえるためにAが持ってこられた、というふうに考える。
しかし詩歌では、比喩のほうが先に生まれて、比喩されるものが後に出てくることもあるのだ。比喩が〈幻影〉、比喩されるものが〈実体〉だとすると、〈幻影〉と〈実体〉はたやすく入れ替わる。むしろ、その二つの関係が自由に揺れ動くことが、比喩の魅力なのではなかろうか。
かすかなる宴(うたげ)のひびきこもれるが如しゆりの木の遠き葉むらに
『われら地上に』
〈不在〉と〈実在〉という言葉を使うなら、「ゆりの木」が〈実在〉で、「かすかなる宴」が〈不在〉であるといえる。けれどもこの歌では、存在しないもののほうが、生命感を帯びている。
ゆりの木には、小さなカップ状の花が咲く。そこからの連想なのだろうか、静かで清らかな宴会が開かれているイメージが伝わってくる。しかし、心から楽しめる酒席は、現実にはめったにない。なごやかな宴へのあこがれが、この歌にはひそんでいるようである。
「○○のような」「○○の如し」というのは、存在しないものを、目の前に引き寄せるための表現なのではないか。「ゆりの木」は、不在のものを呼び寄せるための依代(よりしろ)と言えるだろう。そのように考えると、比喩は呪術的な言葉であるのかもしれない。