短歌時評

三・八リットルの水 / 竹内 亮

2026年1月号

 東京の住宅街にある小さい家に住んでいる。朝早く散歩の犬さんがたくさん通る。そして、その何匹かがわたしの家の前におしっこをしていく。犬さんはそういうものなのだとおもうけれど、飼い主さんの行為にときどき疑問を感じる。多くの飼い主さんは透明なペットボトルを左手に持っていて、犬さんがおしっこをしたとき、そこから水をかけていくのだ。正しい行いだとおもわれるかもしれないが、見ていると、飼い主さんがかける水は五〇〇ミリリットルのペットボトルからせいぜい一〇〇ミリリットルくらいである。この量の水で犬さんのおしっこが洗い流されたり匂いが消えたりするだろうか。TOTOのサイトを見ると、人間のトイレに流れる水量は、一九九四年には一回に十リットルで、格段に技術が進歩した最新型では三・八リットルらしい。
 つまり、ペットボトルから水をわずかにかける行為に実際におしっこを流す効果はなく、記号的な行為なのである。短歌を始めた頃、歌に「悲しい」「美しい」と書いてはいけないと何度も言われたけれど、それはペットボトルからわずかな水をかける行為だからなのだろうとおもう。では、わたしたちは歌を詠むときに三・八リットルの水を流すべきなのだろうか。そして、短歌において三・八リットルの水を流すとはどういうことなのだろうか。歌を作るときにときどき考える。
 角川短歌の二〇二五年十二月号が「他者との出会い――越境の短歌」という特集を組んでいる。そのなかで平岡直子「伸びる身体の先に」は「自分はデジタルな存在だ、という実感は増しているように思う。……自分は命であり、同時に画面に映るデータである」という。たしかに、わたしたちは人間に接することが減った。買い物の多くがスマートフォンから注文され、いつの間にか玄関の前に「置き配」として置かれていく。駅の改札が自動改札になって、東京の地下鉄では改札口に駅員さんがひとりもいないところが増えた。スーパーはセルフレジになり、電話には合成音声の詐欺の電話がかかってくる。しかし、他方で、平岡は「短歌は『他人と同じ』であることを絶えず証明しようとするが、おもしろいのは、同時に『他人と違う』部分が生命線になる」という。定型である短歌自体が記号的で、そのなかで他者との違いが求められる仕組みであるというのだろう。
 いりの舎のうた新聞二〇二五年十二月号の巻頭評論、寺井達哉「なぜ、批評はいつも切ないのか」は、塔二〇二五年九月号の吉川宏志「ショーペンハウエルの笛」を取り上げ、斎藤茂吉がニーチェに触発されて歌をつくったのではないかという吉川の議論が、「歌壇」における小池光のインタビューに触発されて初めてなされたと指摘する。寺井は、「言葉は、記号にすぎない。……記号にすぎない以上、言葉は、ある一つの事物についてさえ、すべてを語りつくすことはできない」とした上で「短歌を批評することの困難は、歌の言葉について、散文の言葉によって、語らねばならない点にある」といい、それは「ひとりの手には、とても負えない。そこで、複数の論者が、時間をかけて議論を継走することになる。先行者が投げかけた言葉が後続者を触発し、新たな議論が広がる」とする。
 短歌は作る場面だけでなく、読む場面においても、平岡が作歌について述べていたこと以上に、他人の議論を参照して、その上で他人と違うことを加えていくことが求められるのである。歌会の評においても、歌集批評会の議論においても、複数の視点が提示されることとあわせて、他の評者の議論を受けて自身の考えを述べることが原理的に大切なのだとおもう。わたしたちは、特に批評において、自分ひとりでは水を流し切ることができないのである。

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