いま、対詠歌 / 岡部 史
2026年3月号
昨秋東京で開催された朗読劇「たとへば君」の冒頭で、河野裕子役の浅野ゆう子が野太く装った声で「たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか」と切り出した途端、開演直後のまだざわつく場内が水を打ったように静まり返った。一人の若い女性が君なる相手に自らの拉致を迫る。短歌が声によって表現されたことも大きく与かっていたと思うが、対詠歌の強さ・激しさをあらためて感じる一瞬だった。
対詠歌・独詠歌という分類は、斎藤茂吉によるものらしいと、私は永田和宏の評論「なびけこの山」(「塔一九八四年四月号」のち『喩と読者』所収)で知った。
短歌は、戦後長く独詠歌が占め、七十年代には篠弘によって「微視的観念の小世界」などと、短歌の内向性、閉鎖性が批判の対象になっていた。永田の先の評論も短歌の閉鎖性へのいら立ちを表わすものであり、読者との結びつきを渇望するところから生まれたものだったろう。
そんな状況下の、河野の口語による強い対詠歌は、とび抜けて斬新なものだっただろうと想像できる。
だが、このところ急速に加速している短歌の口語化は、対詠歌の領域を大きく豊かに広げてきている。長く主流を占めてきた閉鎖的な独詠歌は根強く存在するものの、短歌の大勢は大きく変化を遂げていると言えるだろう。
廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て
東直子のこの歌は、その変化のなかの一記念碑のような作品と言えそうだ。結句の二文字のみで対詠歌に仕立て上げた力業には目を奪われる。切実な結句が矢のように鋭く空を飛び、短い詩形である短歌ゆえの緊迫感が強烈に胸に迫る。
えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力をください
笹井宏之のこの作品は、読者全員への呼びかけのようにも聞こえる。「えーえんと口から」何が飛び出すのかと思った途端「永遠解く力」と変換される衝撃。表音文字と象形文字の二刀流である日本語の特徴を巧みに利用した秀歌であるが、やわらかい呼びかけの形で詠まれていることが、この作品の普遍的な魅力につながっていると思われる。
なりたい職業二位に町中華の店主なんて日が来ることは、ないよな
名古屋で短歌の聖地とも呼ばれる中華料理「平和園」を切り盛りする小坂井大輔の作品。「二位」と控えめに切り出し、でもそんな日は来ないよな、と読者に同意を求める。葛藤も滲ませながら。この一首も結句の「よな」の二字で読者との交流を図るかのよう。
口語短歌は「今」を伝える言葉の流れに乗り、対話によって読者との間に橋を架けている。風通しの良い短歌世界が広がり始めていると気づくのである。