八角堂便り

土屋文明の下句の字余り / 花山多佳子

2025年4月号

 一月号での町田康氏の講演記録「歌と言葉が運ぶもの」がおもしろい。全国大会には台風で行かれず生で聞きたかった。ロック歌手であった経験から、歌詞を書くときの言葉と旋律(節)の兼ね合いを語る。その絶妙な語り口に感心することしきり。旋律を短歌の定型と重ねて、形式の制約あるゆえの自由、不自由な自分をなくす自由というところに運びつつ、論理で収束させないところに説得力がある。
 この記録を読んだ時期に、塔の社員総会が東京であって、総会のあとに「新アララギ」の雁部貞夫氏の講演を聞いた。町田康氏が大阪ふうの語り口であるなら、雁部氏は江戸っ子ふうの語り口で聞かせた。語り口のリズムということも思う。
 雁部氏の講演は「戦後アララギ最盛期の選者たち」というタイトルだが、土屋文明の話もちらほら出て「抒情的な歌ではなんてったって茂吉にかなわない文明」が苦心して『山谷集』で独自の領域を開いた点に触れていた。
 二つの講演の話が特に結びついたというわけではないのだが、何となく頭に残って文明の歌を読み返してみた。
  うまとのわかちを聞き知りて来り来り来りきた
                               『韮菁集』

 文明の歌では最も人口に膾炙している歌だ。抜群におもしろい。昭和19年に陸軍の嘱託として出張した中国での作である。文明調の大幅な字余りなのだが「聞き知りて」までは定型に嵌っていて、下でダダダダと字余りになっていく。新しいリズムだ。この歌は突出しているが『韮菁集』にはこの型が多い。
  すたれかがやく丹青たんせい塔にありあたりかまはず玉蜀黍きび粟を植う
などなど。途中から定型の箍がはずれていく。風景はまとまらずエンドレス。
 これは、新素材を即物的に捉えた「山谷集」の新文体ともだいぶ違う。
  小工場に酸素溶接のひらめき立ち砂町四十町しじつちやう夜ならむとす
                            『山谷集』
  横須賀に戦争機械化を見しよりもここに個人を思ふは陰惨にすぐ

 上下の字余りでバランスをとった引き締まった文体だ。結句をきりっと収めている。一首全体に内容と定型の統御がよく働いているのだ。
 この『山谷集』から『韮菁集』の間に『六月風』がある。文体が『韮菁集』の作風へ移行しつつあるのが見てとれる。
  なつめあり花咲く青たごの一木ひときありあつまるは僧ともただの人とも見ゆ
  異国ことくにの人は眠りのまどかにて或る部屋はドアひらき白きベッドみゆ

 昭和12年朝鮮での作だが、ゆるやかに下で箍がはずれていく。対象を見ながらの自己放下が感じられる文体だ。
 もともと定型呪縛の強い文明の、自己と定型の関係の動かしかたにビビットな感興をおぼえる。

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