八角堂便り

踏切にて / 村上 和子

2025年2月号

 鉄道の「踏切」が気になっている。英米語ではレヴェル・クロッシングとかレイルロード・クロッシングとか形状を示していてわかりやすい。一方、こちらは「踏み切る(場所)」として、動作ばかりか心のもちようにまで関わるような印象がある。それだけにさまざまに詠みこまれて、心に残る歌を生むのだろう。
  星ばかりなだれるごとく内陸の夜、たったひとつの踏切を過ぐ
                         中井スピカ『ネクタリン』

 オーストラリアの大陸横断旅客列車「Indian Pacific号」乗車中に生まれた一首。星明かりにうかぶレール、それを横切り夜の大地に伸びてゆく道。一読、景が浮かび、深呼吸をした。その踏切には、どんな標識が立っていたのだろう。
  踏み切りのむかう今は無人の父母の家には実を採るための梅の木がある
                         永井 陽子『樟の木のうた』

 二十代で父を、四十代で母を見送るまでを暮らした瀬戸市城屋敷町の生家。独り名古屋市に転居してまもなく、取り壊されて更地になったようだ。この「踏み切り」は、名鉄瀬戸線にかかるものか。今年も梅が咲くころとなった。永井陽子が逝ってから二十五回目の春が来る。
  踏切の前で止まっている母を電車の中から見て通過した
                           相原 かろ『浜竹』

 母親に駅で見送りをうけたあとか、別の日に特急などに乗って母の住む町の駅を徐行しつつ通過したときのことかもしれない。「見て」過ぎたことは、母にはいまも伝えてはいないように思われる。
  床屋さんの兎犬に咬まれて死ににけり朝の踏切に立ちてわが泣く
                             酒井 佑子『空よ』

 ここは、京王電鉄井の頭線永福町駅の踏切。駅前の商店街から数歩入ったところにあるという「手入れの行き届いた小さな理性寺りしやうじ」へ百円上げて、折々に兎の菩提を弔ってもいる作者である。
 永福町駅の二つ渋谷寄りに、東松原駅がある。
 「ここは東京じゃないよ。だって踏切があるもん」。
 一九八四年二月二十五日の夕刻、この駅の前で中井英夫はこう言った。初対面の挨拶をするとすぐに、照れくさそうな表情で。依頼したエッセイの掲載誌をお届けするべき編集者氏に同行したときだった(もちろん事前に許可を得て)。
 その頃の私はまだ『黒衣の短歌史』の筆者というより、推理小説『虚無への供物』の作者としてのイメージを強くもっていたので、少々意外ではあった。
 「中井英夫にとっての東京とは―」。黒鳥館への道を歩むうちに、この問が、頭のどこかに沁みついてしまった。こののちも、東京や都市について考えるとき、ふと思い出されることである。

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