八角堂便り

校閲する者 / 栗木 京子

2025年5月号

 川上未映子氏の小説『すべて真夜中の恋人たち』の主人公の入江冬子は三十四歳。フリーランスの校閲の仕事をしている。ある日彼女が自宅のゴミ箱の横に積んだ雑誌(クーポン券付きの小冊子や区報や地域の情報誌)を何気なく見ていると「十分間ほど読んでみるだけで七ヵ所の間違いがあり、わたしは爪でそこにあとをつけていった。」という箇所があり、リアリティがあるなあと思った。仕事でつねに文字の正誤と向き合っている人は暇つぶしで冊子を見ているときも誤植や誤用を見つけてしまうのだ。
 歌集を刊行して謹呈すると、礼状代わりに「〇〇ページの〇〇は誤りでは?」とハガキをくれる人がいる。あらさがしをされたと気分を害する著者もいるかもしれないが、私はありがたいと思う。もしも重版が出る機会があれば、きっちりと直すことができるから。自分ではなかなか気付けないものなのである。
 少し前に、ある出版社のPR誌(書店のレジ横に置いてある無料の冊子)を読んでいたら、人物交友録的な連載エッセイに春日井建氏の名が登場した。内容はけっこう面白かったのだが、何と「春日井健」と記されている。一ヵ所のみでなく、四ヵ所も。これは誤植ではなく執筆者の認識の間違いである。編集部にメールをして指摘しようかと考えたが、大手出版社の月刊PR誌なので読者は多いはず。きっと誰かが見つけるだろうと、そのままにしてしまった。数ヵ月後に早くも連載は一冊の本になったので早速手に取ってみた。如何せん、「春日井健」のままではないか。ああ、春日井氏に申し訳ないことをした、と後悔した。
 ところで、誤植といえば、
  誤植あり。中野駅徒歩十二年。それでいいかもしれないけれど
                         大松達知『アスタリスク』

が良く知られている。ユーモラスでありつつ物事の真相を見通すような深さも感じさせる一首で、都内の一等地の「中野駅」が、さり気なく効いている。
 その大松氏の最新歌集には、
  四十年経て思い出す戦争を戦草と書いてバツだったこと
                          大松達知『ばんじろう』

という答案の書き間違いの歌がある。大松少年はバツの採点に抗議しなかったのだろうが、私は「戦草」に〇を付けたくなる。戦草は民草を連想させる。戦闘が起きたとき最も大きな影響を受けて犠牲になるのは罪もない民衆(民草)なのである。この歌が二〇二二年二月末のロシア軍によるウクライナ侵攻の折の一連に含まれていることも印象に残る。
  invasionは(侵略でなく)侵攻と訳すべし、通訳者に指示があったと
 同じ一連にある歌。翻訳の難しさをあらためて思う。侵略と侵攻。軽々しく校閲のできない言葉であろう。

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