大河ドラマとAI短歌 / 小林 信也
2024年10月号
NHK大河ドラマ『光る君へ』では、本稿を書いている八月、ついに源氏物語が書き起こされるところまで話が進んでいる。紫式部と清少納言が同時代の人物なのは知っていたが、他にも小倉百人一首などで知られる人物が次々に登場するのが面白く、「百人一首の同窓会やー」などと言いながら観ている。
さて、今回書いておきたいのはその一人である藤原道綱母の関連。蜻蛉日記の作者として知られる彼女は関白藤原兼家の妻の一人であり、小倉百人一首には次の歌が採られている。
嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る
藤原道綱母
歌意は、来ない男の訪れを待ちながら過ごす夜はなかなか明けないものだ、というほどのものであって、共感可能な心情吐露と言えるだろう。この歌について実はちょっと嫌な感じを覚えることになる。それは、俳優の演じる兼家と道綱母の会話の中でこの歌が語られたときのことだった。それまで「男を待つ女の心情」と一般化して理解していたものが、特定の男女の特定の一夜の生々しい場面に限定されてしまったように感じたのだ。
不思議な感覚だった。普段、歌会などで「個別具体的な表現を」とか言っているのと逆のように思えたのだ。初め、本人の顔が見えるからかとも思ったがそれも違う。結社内の仲間との歌会ではこんな違和感は覚えない。情報の多寡ではない何かが違うのだ。
一月号本欄の永田和宏さんの「AIと連歌を巻く」がヒントとなるだろう。乱暴な要約をすれば永田さんはその中で「言語化とはデジタル化である」「短歌の背景には言語化されない膨大なアナログ情報があり、短歌を読む行為とはそれを読み取ること」「AI短歌にはそのアナログ情報が無い」と書かれている。その論自体には全く異論はないのだが、では私が感じた違和感は何だったのか。男の来訪を待っている女の様子を漠然と思っているところに、「その男女はこんな関係で、その時のいきさつはこうで」と示されてしまったのが煩かったのではないかと思う。要するに、作歌の背景にあるアナログ情報と読み手が読み取るそれは違うのだ。その情報の骨子を間違いなくやり取りするために我々は作者として使う言葉を吟味し、読みの訓練をしているのだと思えば納得がいく。
さて、そこでAIである。AI短歌には背景は無い。しかし、AI作品と知らなければ、読み手は無いはずのアナログ情報を読み取ってしまうのではないか。『AIは短歌をどう詠むか』(浦川通著・講談社現代新書)によれば、作歌の過程で人為の操作も可能なようだ。創作は生身の人間の専権、と安心してもいられない気がするのである。