八角堂便り

「安寧禁止」その後 / 真中 朋久

2025年6月号

 本欄の2023年2月号に「安寧禁止」と題して福田米三郎歌集『掌と知識』について書いたことについて、中西亮太氏がコメントしてくださっていることを最近になって知った(※)。迂闊なことである。まったく時機を逸してしまっていることではあるが御礼を申し上げる。
 私の文章の趣旨については概ね同意していただいているようだが、細部の詰めの甘さについての指摘はそのとおりで、いくつかの必読文献などもご紹介いただいた。まず「安寧禁止」は「風俗禁止」と対になるカテゴリー。このへんについては、国会図書館の目録にも凡例があり、「安」「風」の略号で分類してあった。
 さらに、たとえば福田米三郎については内野光子『短歌と天皇制』(1988年)の中で分析されていて、発禁理由は「出版警察報」七四号の引用として「本書ハ軍隊生活ノ裏面ヲ誇張的ニ描写シテ軍務及軍制ヲ極度ニ呪詛スルモノデ所謂反軍出版物ノ尤タルモノデアル」と示されていた。考えるまでもなく、発禁関係のことと狙いをさだめて、そのつもりで調べれば情報は出てくるものだ。自分の家に無い本も、少し大きな図書館に所蔵している可能性がある。内野光子の『現代短歌と天皇制』(2001年)は持っていて、占領期の検閲についての論文も読んだことがあるが、戦前戦中のことについては『短歌と天皇制』を読むべきだった。国会図書館のデジタル資料は便利だが、そこで閲覧できないものも、所蔵館に足を運ぶとか、複写を依頼するとかすればよい。資料の所在のみを確認して、あとまわしにしてしまうと、そのまま大事なことを取り逃がすことになる。
 中西氏は「おそらく真中はその後も調査を続け、疑問点も今では解消されたことと想像する」と、温かく書いてくださっているが、私の関心はどんどん横に逸れて、いっこうに深まらない。今も、『短歌と天皇制』を拾い読みしながら、内野が批判的に取り上げている逗子八郎なる人物に興味をもち、その歌集を読み始めてしまっている。1941年刊行の『雲烟―山岳歌集』と、44年の『八十氏川』から、それぞれ巻頭の歌を引いてみる。
  六月。綠に烟る雲の上の草原さうげん。いのちの泉に山靴を浸して悲む
  天ざかる千島のそとの御楯みたてぞとつらき守りの年を越えにき
 のびのびとした口語自由律の登山の歌が、一転して文語定型の、ものものしい歌いぶりになる。『八十氏川』は、タイトルもものものしいが、アッツ島の玉砕に発奮しつつ歌う作品。この転換は珍しいことではないが、内閣情報局に勤務していたという逗子には、その立場上のことも含めていろいろなエピソードがあるらしい。さて深入りすべきかどうか。

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