八角堂便り

短歌はプロダクトなのか / 永田 淳

2024年8月号

 先日、長谷川麟歌集『延長戦』の歌集批評会に出席してきた。七十名ほど集まった参加者の平均年齢は二十歳代ではないか、と思えるほど若く、私は最年長のパネリストというやや居心地のわるいポジションであった。その中で気になった発言があったので書いておきたい。
 瀬口真司さんという著者と同年代(三十代前半)のパネリストからプロダクトとしての短歌、という発言があった。いわく、自己表出としての短歌ではなく、一首が屹立している短歌がプロダクト的な短歌なのだ、という。私なりに解釈すると、作者の抱えている背景や生い立ち、素顔や個性からは完全に切り離されて作られた短歌を指してそういった命名がなされていた。
 短歌がプロダクトなのだ、という認識に私はまず相当驚かされた、愕然としたと言ってもいい。プロダクトといえば、一義的には生産されたもの、ということだろうが、一般的には製品、しかも工業製品を指して使われる言葉だろう。
 そのプロダクト短歌の善し悪しについて明言こそされなかったものの、私性がべったり貼り付いている歌よりも明らかに肯定的に迎えられていた。
 当日の議論の詳細を記す紙幅はないが、二つの論点が出ていた。ひとつは固有名詞の問題。私が考える短歌における固有名詞の働きは、大阪の谷町六丁目で旧友の某に会った、というように作者像が限定されていくのが固有名詞の良さだと思っていた。しかし「吉岡里帆がかわいい」といった、みんなが同じように感じるだろう固有名詞の使われ方に肯定的な意見が出ていた。
 もうひとつはごく大雑把に言うと、作者固有の文体が煩く感じられる、個性を前面に出した文体の歌はプロダクト的ではないのだという。まぁその通りだろう。そんな中で俎上にのぼったのが
  アルティメット大好き級の恋だからグラップラー刃牙全巻売った
の一首。「グラップラー刃牙」はムキムキの男たちが必殺技を繰り出して戦う漫画らしい。この一首はツイッターでバズって(流行って)、歌集になる前から話題になっていた一首とのこと。
 この歌にインパクトがあるのは分かるが、取り立てて議論すべき歌であるとは思えない。「グラップラー刃牙」は例えば「北斗の拳」や「ドラゴンボール」などとも代替可能だろう(時代は変わるが)。上の句も流行り言葉を持って来ただけのように読めてしまう。ここに「ただ一人だけの人の顔」は見えてこない。それこそがプロダクト的短歌で、そんな作風が受け入れられる土壌がTwitter(現X)をはじめとするSNSの場なのだろう。
 隣り近所の私生活や夕食の献立までも筒抜けのムラ社会に住みたいとは、私も思わない。しかし、作者の実人生の悩みや喜びのかすかな残滓が感じられる歌をこそ読みたいと思うのだが、どうなのだろうか。

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