「事実読み」か「作品読み」か / 三井 修
2025年7月号
最近、本多稜の歌集『時剋』を読む会に出席した。本多は最近、大病を患い胃と周囲の幾つかの内臓を摘出したらしいが、幸いにして回復し、歌集全体がほぼ闘病の作品で構成されている。優れた歌集であり、本年度の斎藤茂吉短歌文学賞を受賞した。読む会で様々な問題が提起されたが、その一つが「事実読み」と「作品読み」の問題であった。
「事実読み」とは、作者の実人生の重さによって読ませる歌集という意味である。確かに、作者が本多のように大病を患ったとか、東日本大震災や能登地震のような大規模な自然災害の被災者になったとかいう人の歌集は、その重い事実によって読者を引き摺り込み、読後に強い印象を残す。
一方の「作品読み」とは、そのような事実の重さよりも、作品としての抒情性や修辞の巧みさなどによって読ませる歌集という意味である。そのような歌集もまた読者に深い感動と充足感を与えてくれる。
この問題は歌集の評価のみならず、賞の選考などでも常につきまとう問題である。私は五年間「塔短歌会賞」と「塔新人賞」の選考に携わってきたが、毎回このことを強く感じ、迷いながら選考をしてきた。
もっともこの問題は決して二者択一的なものではないと思う。修辞性を欠如した事実の羅列は散文であり、作者の実人生の裏付けのない作品は、それがいかに修辞性に優れていてもどこか空虚さを免れない。
本多の場合は病気という重い事実に基づきながら、それに加えて優れた修辞性も兼ね備えている。それが斎藤茂吉短歌文学賞受賞に繋がったのだと思う。こんな作品があった。
まんまるに背を曲げ針を惑星の軌道に乗せるやうな感じで
「硬膜外麻酔」という詞書があるが、自身が背中を丸めて脊椎に注射をされている姿勢から、一挙に宇宙に発想を飛ばしている。スケールの大きい比喩がユニークで魅力的である。
更に本多の作品にはユニークな諧謔性もある。こんな面白い作品があった。
昭和生まれの脳部長が胃課長の逃亡後ヒラの小腸に檄を飛ばす図
少し字余りではあるが、思わず笑ってしまった。胃を全摘して、食道を直接小腸と吻合したらしい。小腸に胃の役割を担わせるのだ。大変なことだと思うが、本多はそれを笑い飛ばしている。国際的ビジネスマンである本多らしい比喩である。アルピニストとしての元々の頑強さに加えて、このようなユーモアたっぷりの前向きな精神性が、彼に病魔を克服させたのだと思う。それにしても、退院後直ぐにマラソン大会に参加したり、登山をしていることには驚かされた。