短歌時評

わたしは了解しました / 竹内 亮

2026年2月号

 目上の人に「ご苦労さまでした」という言葉を使ってはいけない、という人たちがいる。その種の人たちは「了解いたしました」も失礼な表現であるから「承知いたしました」にすべきだといったりする。いまは人を傷つけないようにすることがとても重んじられる世の中だから、このようなことをいわれるとすこし緊張する。
 これに対して、国語辞典編纂者の飯間浩明が、いやいや「ご苦労さまでした」は江戸時代にも、昭和の戦後にも普通に目上の人に使われてきたのだし、「了解」が失礼な言葉だといわれるようになったのはここ十年のことに過ぎず特に根拠はないのだと、出典を示しながら指摘して、歴史的には正しくない「言葉の正しさ」の言説が広まることを防いでくれている。専門家の飯間が存在してくれていることで、ある種の人たちから日本語が守られているとおもう。
 専門家の権威には、よい部分がある。
 いま、大学を中心とした専門家の権威的な言説やふるまいは急速に価値を失って、代わりに市場的・金銭的な価値か、または多数者に支持されるという意味でのSNS的な価値が勢力を拡大しているけれど、専門家の権威には、「ご苦労さまでした」が失礼だというような、本来その資格のない言説が過大な権力をもつことを防ぐバランス機能がある。
 坂井修一は、令和八年版の角川短歌年鑑の巻頭の評論「人工知能は短歌を滅ぼすか?」に「この二年の生成AIの進化は、凄まじいものがあったのだが、短歌のような言語芸術の世界では、たいした進展はなかったようだ」と述べる。二〇二五年末現在、AIの生成する短歌には見るべきものはなく、AI自体に歴史的な進歩がみられたこの二年をみてもAIのつくる短歌に意味のある進化は見られなかったから、今後も当面は、AIは人間に比肩しうる短歌をつくれないだろうというのが坂井の予想である。
 AIの時代に坂井のような情報システムの本当の専門家が短歌界にいることは、とても貴重なことだ。最近まで東京大学副学長を務め、いまは現代歌人協会の理事長である情報工学者の歌人がAIの短歌に一貫して疑義を述べることで、「いまにもAI短歌の時代が訪れる」というような議論とのバランスが取られている。坂井の議論を前提としてならば、AI短歌の時代が来るというのもひとつの立場としては受け入れることができる。
 もちろん、権威のすべてが正しいわけではないし、抑圧的な効果のおそれもありうるのはわかるけれど、それでも、飯間や坂井のような専門家の権威は、正しさが曖昧になっている現代において、言説の適度なバランスを取る「基準点」として、むしろ重要な価値を有しているのではないか。
 結社というのも、ある種の権威である。結社、そして歌人の緩やかな共同体である歌壇という基準点があることで、短歌は、市場やSNS的な価値から直接に侵食を受けることから守られ、なんとかバランスを取っていられるところがあるとおもう。
 二〇二五年十二月、小島なおの『卵降る』が出た。コロナ禍の二〇二〇年に第三歌集『展開図』を読んだ時、どの一首もすばらしくて、適当に開いた頁からランダムに歌を選ぶと歌集の十首選ができそうだとおもったけれど、五年経った第四歌集でもそれが変わらないでいる。
  喩えつくされた裸はどこへゆくの浴槽に身を沈めゆきたり
  さむざむと二つの月の物語 右肺萎みゆく胸の底

 これからも、結社や短歌における権威が、抑圧的な面に注意しながら、なんとか維持していけるとよいとおもう。そしてその中心の一角に、小島なおがいてほしいとおもう。

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