百葉箱

百葉箱2025年8月号 / 吉川 宏志

2025年8月号

  この川の素顔だらうか橋の下に暗く澄みゐる水面を覗く
                           千葉優作

 川の素顔という発想が美しい。下の句も現実感がある。
 
  怒っているか訊けない人がしゃくしゃくとサラダ食む音ただ聞いている
                                  中山惠子

 ひりひりとした人間関係が伝わる。擬音語が効果的。
 
  六時半を過ぎてもお迎へなき児にはおにぎりがあると幼が話す
                              江原幹子

 保育園の様子だろう。遅くまで残っておにぎりを食べられる子を、少し羨んでいるのかも。
 
  撮ることは君との時間を残すこと逃した鳥の名憶えておこう
                             山田恵子

 「君」との時間を失う恐れも持ちつつ、爽やかな一首。
 
  ゴムの葉の薄き埃を拭きおえて半分廻すひかりの方へ
                          黒木浩子

 動作が丁寧に歌われ、「廻す」という動詞も効いている。
 
  〈左前〉と〈右前〉交互に重なりてうぶ毛ある皮たけのこ包む
                              白井陽子

 筍の皮は確かに和服の衿の感じに似ている。左前は不吉とされるが自然界では普通なのだ。
 
  桃色のキリンが群れているような夕焼けに向き自転車を漕ぐ
                             中本久美子

 比喩が面白く、抽象画のような色彩感が生じている。
 
  足許の桜の花を君は蹴る波になるのを渦になるのを
                         高原五尺

 対句が美しく、散り積もる桜の様子が目に見えるようだ。
 
  重さには塗料のそれも含まれて飛行機は飛ぶ春の遥かを
                           星 亜衣子

 飛行機の塗料の重量という意外な視点に驚く。「飛行機」と「飛ぶ」の重複などがやや惜しい。
 
  ひとやすみしてもいいよね桟橋の影に集まる魚が好きだ
                           鈴木ベルキ

 口語の軽やかな響きが快い。疲れたとき、魚も休息しているように見えたのだろう。
 
  帰りには迷うだろうな駐車場その場の景色を写メに撮りたり
                             加住えり

 広大な駐車場なので迷うのだろう。生活の知恵の面白さ。
  
  清国が阿片を海に捨てたように娘からスマホを取り上げる 
                            高木三十三才

 オーバーな比喩を家庭の一場面に使い、笑いを誘う。
 
  北に延びる防雪柵が畳まれて津軽平野の春は始まる
                         佐藤裕扇

 雪国の風物が印象深く描かれ、大きな風土の広がりも感じさせる。「畳まれて」がいい。
 
  トーストのバターの溶ける方向に広がってゆく朝の角度が
                            佐伯青香

 トーストの角度という表現により、日常生活に新鮮な光を当てている。
 
  幾千の手にねじられたつり革が手を離されてかすかにゆれる
                             中森温泉

 「ねじられた」が良く、物体の質感が伝わってくる。
 
  デパートの鏡の奥に振り返る喪服の娘は値札を下げて
                          丸山かなえ

 親族の死を予期しているのだろう。値札という細かな物に注目し、リアルさが出た。
 
  口の中赤いからすはこどもにて一年たてば黒くなるとう
                           加藤京子

 知識をそのまま詠んだ歌だが、色合いが生々しい。
 
  逝きしを忘れゐしこと多くなり家族写真に君を見つけたり
                             福田正人

 つい忘れていることに気づくたび、悲しみに襲われる。簡潔さの中に深い哀感がこもった歌。
  
  まだ暗い中段帳は上がりきり床の白さを一度だけ見た                       
                          篠田葉子

 舞台に立っている場面。非日常の時間に入る前の一瞬が、臨場感豊かに捉えられている。
  
  雨が降るまえの湿った塩豆のようなにおいだ生きるみんなの
                             石井しい

 「塩豆のような」がユニーク。生きるとは匂いを持つことなんだ、という力強い実感がある。

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