百葉箱

百葉箱2025年3月号 / 吉川 宏志

2025年3月号

  何もかもめんどくせえなおい蜘蛛よコウネンキって知っているかい
                                北山順子

 勢いのある口語で、更年期の辛さを歌う。蜘蛛に呼びかけているのがユニーク。
 
  灯が一つ崎に消えゆくあと二つ曲ればふるさと闇のなかなり
                             大倉秀己

 第四句で切れると読む。海辺の暗い村に車が近づいてゆく感覚が伝わってくる。
 
  火星から見る夕焼けは青いといふ亡き人は見むその夕焼けを
                             豊島ゆきこ

 想像上の情景が美しく、亡き人への思いがこもる。
 
  屋敷林ある家羨しと思ひしに強盗のまとと今の世はいふ
                           南條暁美

 最近の物騒な社会状況をリアルに捉える。「まと」が効いている。淡々とした結句も巧い。
 
  後ろより影が追い抜きその次に生身の体が追い抜いてゆく
                            杉本文夫

 よくある出来事を抽象化し、スリリングにしている。
 
  かたつむり八手の広葉をわたるのかわたりきるまで吾も蝸牛
                             千村久仁子

 かたつむりを凝視することで一体化するような不思議な感覚。語の反復が効果的だ。
 
 「湯婆婆」の髪形に閉ぢて白芙蓉ほっほっほっほ土にころがる
                             いとう 琳

 『千と千尋の神隠し』の登場人物。ユニークな見立てだ。
 
  病人のおかずの味だと笑いだすとうがん汁はとろとろ煮える
                             堀田万里子

 病院食を思い出したのか。冬瓜はあっさりした味。
 
  貨物車の掻きたる風に鉄粉のにほへり朝の三番線に
                         船岡房公

 列車の鉄の匂いを敏感に捉える。「掻きたる」という動詞や、下の句の句割れも印象的。
 
  目尻より幾重の涙痕ありし母ひとさし指のはらにてなぞる
                            小野まなび

 細かな痕跡に触れることで、深い哀感を滲ませた歌。
 
  蝶結び教えてくれた母の指曲がったままで吾に手を振る
                           前橋由起子

 もう紐も結べない指。これも哀切な母の歌である。 
 
  どうしても始めの言葉でつっかえる好きな子のこと聞けば雨音
                              川上美須紀

 まだ幼くて、自分の恋をうまく話せないのである。「雨音」の名詞止めに味わいがある。
 
  肉体のある喜びを確かめる君を抱きしめ君の音聞く
                         大井亜希

 ストレートな恋の歌で迫力がある。結句が魅力的だ。
 
  耳の奥に模型を組み立てるやうな谷川俊太郎の声と詩
                          櫻井ひろ子

 谷川俊太郎の詩の本質をつかんでいる比喩だと思う。
 
  赤児にも指差す先はあそこだとわかる不思議を考えてみる
                            バリボー道子

 読者をハッとさせる問い。それだけで十分面白い。
 
  「方舟の予約をしたく。はい一人、はい一人です。え、一人です」
                               中森温泉

 ノアの方舟は、男女でないと乗れない。「一人」である不安感をユーモラスに歌っている。
 
  郷愁は目が合ふたびに屋内へ隠れてしまふ子どものごとし
                            宮下一志

 不思議な比喩だが、故郷に対する、気恥ずかしさと懐かしさの混じった思いはよく分かる。
 
  踏み切りが小雨を縦に照らしだし心の繊維に気づいた帰り路
                             吾妻亮太

 雨を「縦に照らし」という表現が鮮やか。「心の繊維」も、複雑な内面を感じさせる暗喩だ。
 
  商店街 銀歯のようにシャッターが閉まってそれを滅びと呼んだ
                               椎本阿吽

 衰退する商店街を独特の文体で捉え、映像的なシャープさが生じている。
 
  万華鏡まわした粒のそのうちにわたし一粒まぎれこませる
                            ゆらのあみ

 万華鏡の一粒という自己像が新鮮。豊かな謎がある。

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