百葉箱2024年8月号 / 吉川 宏志
2024年8月号
建て売りの住宅街もゆふぐれは民話のやうな片陰つくる
越智ひとみ
画一的な家々も、夕暮れには何者かが潜むような気配を生み出す。比喩が巧い。
壁に掛かるユトリロの絵の傾きが話の輪よりわれを連れだす
安永 明
絵が気になり、会話から離れた状況を、擬人的に表現し、面白い。画家の名が効いている。
歩む分あらはれて来る石畳ゆくほかになし霧に巻かれて
髙野 岬
濃霧の中、足元しか見えない様子を、臨場感のある表現で捉えている。「歩む分」がいい。
百寿こえ逝きし義母の娘きみも又こえるのだろうわが亡き後に
歌川 功
妻も長命だろうと予想し、自分はその時間をともにできないだろうと寂しく諦観している。
吾の乗れる飛行機見えなくなるまでを追いたる動画が子より届きぬ
松浦わか子
事実だけを詠んだ歌だが、現代的な機器を通した親子の親しい関係性が伝わってくる。
すっぽんは食われる前に鳴くという実家の池は埋められにけり
小圷光風
実家の池で飼っていたのか。少し怖く、奇妙な印象の歌。
引揚船に海葬ありき霧ながら波に骸
坪井睦彦
幼い時に見た光景か。痛ましく、「霧ながら」が印象深い。
我だけが見えぬ私の体なり何か切られる音を聞きつつ
谷 活恵
手術中の、自分の身が自分とは感じられない不気味さ。
米兵のシャツを切り裂き吾のシャツを誂えくれしテーラーの父
谷口 結
米兵に対する父の複雑な思いが「切り裂き」という語に潜んでいるように思われる。
箸休めの響きのやさしベニシジミ少し飛んでは翅をやすめる
吉田達郎
「箸休め」の語の美しさを、蝶に重ねて捉えている。
こんな切符まだあったのか春霞む隼
徳野明了
鳥取県の駅。上の句の素直な口調がいい。紙切符らしい。
まなうらにふりくるひかり水面はゆうべの鳥をおぼえていない
河上 類
浮いていた水鳥がもういない池。朗々とした韻律が魅力的。
お互いの病める臓器に手を置いて風の崩れる音を聴く宿
田巻幸生
厳しい状況だが、情愛が深く、胸に迫ってくる一首。
指差しを始めた孫が新聞の一面にうつるガザの子も指す
由本慶子
幼い孫は、自分の友のようにガザの子を指差していたのだろう。はっとさせられる一瞬。
額をつけ車窓の桜をみるひとは己
海野久美
衰えて、自分の裁判の状況が分からなくなったのだろうか。哀切な春の一場面である。
構内に続報はなくこめかみをスマホの角でぐりぐりと圧す
といじま
電車が遅延しているのだろう。下の句に強い実感がある。
スクラッチするがに桜色はがれ若葉の色が現れてくる
伊丹慶子
桜が散り、新緑になる様子を、斬新な比喩で描いている。
ポテチとは人をダメにするかしでありえびやのりしおいろいろあるぞ
川村千春
小学生の作。ダメだと分かっているのに、気になってしまう。お菓子の怖さを見抜いている。
寝落ちした部屋の電気を消してやる 結婚前の最後の夜も
高月はるか
明日、結婚する子。大丈夫かなと思いつつ寂しさもある。
この街のどこかで緑のイヤリングが野生化してたら私のせいだ
水谷千代子
落としたイヤリングが生き物になった様子を想像する。発想がユニーク。結句に勢いがある。