百葉箱

百葉箱2025年7月号 / 吉川 宏志

2025年7月号

  二分咲きの桜が道に落とす影帰り道には濃くなりてゐむ
                           高橋ひろ子

 桜は一日で数多く蕾が開く。帰る頃には陽射しを覆うほどだろうという予想が美しい。
 
  十九時の空を滴りおちてくる葡萄のにおい 傘巻き絞る
                           田村穂隆

 上の句の幻想のような感覚が魅力的。結句に手触りがあり、現実感が生じている。
 
  幕のの息子を三度呼び立てぬ証明写真の取り方変り
                          清田順子

 自動の撮影機。「幕の外」に息子を待たせるのが面白い。
 
  ホカロンが落ちましたよと鬼に言う二月二日の厳寒の底
                           田巻幸生

 節分の鬼が使い捨てカイロを使っているのが可笑しい。
 
  亜麻色の妻の手織りのマフラーの長くもあるか我に残さる
                            谷口公一

 亡くなった妻が作ってくれたマフラー。「長くもあるか」という語に、深い哀感がにじむ。
 
  「許せぬ」と徹夜で書いた辞表だが出さないままで年度を跨ぐ
                              内田裕一

 口調に勢いがあるが、竜頭蛇尾に。苦渋が伝わる歌だ。
 
  生ハムでサラダを埋める 生ハムは光をとおす食べ物だから
                             古井咲花

 よく見る場面だが「光をとおす食べ物」に詩情がある。
 
  雨ですよ同じ口調で医師の言う癌ありました進行性の
                          小久保美津子

 生死に関わることを医師が淡々と告げる様子。「雨ですよ」という初句が非常に効果的。
 
  本鹿とうちさき邑なり残雪の滴のひかりその音を聞く
                          徳野明了

 鳥取の地名で「ほんが」と読むらしい。視覚から聴覚に転じる下の句も美しい。
 
  父の見て暮らした山の山肌を白く透けつつ雲わきのぼる
                           宮脇 泉

 父の死後、父の眼を思いつつ風景を眺めている。「山の山肌を」の重複も、韻律的に快く響く。
 
  吊り革を祈るポーズでにぎりおり車窓のひかり右へ流るる
                            松下英秋

 上の句は新鮮な見方である。下の句も印象的な表現。
 
  枝先の三個を二個に摘果せり転がる桜桃わずかに赤し
                          向日日向

 摘果作業を細やかに描き、映像的な美が生じている。
 
  曇りには固く閉じたるハルリンドウ野辺の枯草に紛れてしまえり
                               鈴木初子

 花を閉じると他の草と区別のつかない様子を、簡明に歌う。地味だが味わいのある一首。
 
  やわらかな風 ゲレンデにステファンは転んだ友を転んで待ちおり
                                中村由美

 スキー場で確かにこんなことは起きそう。下の句の「転ぶ」の繰り返しが楽しい。
 
  かすかなる悪ただよわせ少年ら春の水辺に何かをつつく
                           森川たみ子

 少年が悪さをするときの独特の気配を繊細に捉えた。
 
  米の価の二倍となれば仏飯も控えめとしてその分拝む
                          今井裕幸

 意外なところに値上げが波及した。視点に独自性がある。
 
  雪あらし午後には止んで洗いたてのビルのガラスに雲の寝そべる
                               村上春枝

 「洗いたて」「寝そべる」に、童画のような雰囲気がある。
 
  変わったと言われるわれが地下鉄の窓の奥の暗さの奥に立ってる
                              平井 環

 他人からは変わったと言われるが、自分では分からない。下の句に自己への不安が漂う。
 
  スクリーンが光り始めたそのとたんポップコーンは月面になる  
                              岩田茶閑子

 映画館のほのかな光が照らすポップコーンは、確かに月面に似る。飛躍が素晴らしい。
 
  そりゃ私だけのものではないけどね。遠くの観覧車ならつまめる
                               なずしろ

 口調が軽やかで耳に残る。遠い観覧車は玩具のようだ。

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