青蟬通信

黒住嘉輝さんの思い出 / 吉川 宏志

2025年8月号

 一九八七年に私が「塔」に入ったころは、月に一回、大阪の上新庄かみしんじょうにある古賀泰子さんの家に選者や編集部員が集まることになっていた。田中栄さん、諏訪雅子さん、澤辺元一さん、黒住嘉輝さん、永田和宏さんは応接間で会議を行い、大山令彦はるひこさん、田中雅子さん、前田康子、私などの若いメンバー数人は、和室で「塔」の原稿の割付をした。当時の原稿はすべて手書きで、文字を数えて何ページになるか計算した。当時の「塔」は六十ページくらいで、今と比べるとかなり楽だったはずだが、数時間はかかっていた。のんびりと仕事をしていたためかもしれない。
 編集作業が終わると、古賀さんの手作りの料理が出て、十数人の宴会になる。古賀さんは料理が上手で、フランス料理のテリーヌなども作っていた。とても美味しく、澤辺さんが珍しそうに食べていた顔が思い浮かぶ。
 ビールが入って、政治談議もしばしば熱くなった。
  北京遠しさらに安保は遠きかな武勇談持たずわれらは生きん
                             『青蟬』
  たたかわずなんのやさしさ峰打ちのごとき日射しは肩に落ちいつ
という私の若い頃の歌があるのだが、これは黒住さんがモデルである。一九八九年六月に天安門事件が起き、北京の学生たちが政府と軍に抵抗している姿が、テレビで大きく報道された。それがきっかけで、六十年安保の思い出を黒住さんが朗々と語り出すということがあったのである。
 この年に昭和が終わり、天皇の戦争責任に関する議論が盛んになった。また、国民の反対を押し切り消費税も始まった(税率はまだ三パーセント)。なぜ昔の学生のように君たちは戦わないのか、と黒住さんから厳しく言われた記憶がある。
  勝つために闘うわれらの明日ありと枯れつつ光る草踏みてゆく
                             『シジフォスの罰』
 一九六〇年に黒住さんはこんな歌を作っている。しかし八十年代末はバブルの真っ最中で、政治活動をする雰囲気はほとんどない。「もっと権力と戦え」と言われても困るよなあという思いが強かった。ただ、デモなどに行かないことを恥ずかしく思う感情も、ないわけではなかった。SNSなどない時代なので、政治へのいろいろな思いがあっても気軽に書くことができず、何も発言できずに終わってしまうことが多かったのだ。
 黒住さんとの議論の内容はほとんど忘れてしまったが、一つだけ鮮明に憶えていることがある。
 差別されそうなとき、自分の出身などを隠すということがある。もちろん差別する社会が悪なのは分かっているのだが、正面から抵抗するのが非常につらい場合は、隠すことがあってもいいのではないか、というのが私の考えであった。
 しかし黒住さんは、隠してはならない、隠すことがますます差別を助長してしまうのは歴史的にはっきりしている、と強い口調で言い切ったのだった。この「歴史的」という一語がすごく印象に残っている。ほんとうに歴史的に確定しているのか、もやもやとした疑問を持ちつつ、しかしあまり知識もないので、それ以上反論できなかった悔しさが、心の中に沈澱したのであろう。
 さて、ここで現代に話題を変える。「歌壇」二〇二四年九月号で「長寿歌人のうた」という特集が組まれることになり、「塔」からは黒住さんを推薦した。この年、ちょうど九十歳で、卒寿の記念になるのではと思ったのである。「ふるさと大連」という一連を発表している。
  生まれ直し生きなおしなど出来ざるに今は異国となりしふるさと
  玄界灘の荒波に揺られ祖国へ向かう船へどを吐く人倒れ伏す人
  引揚げ来し父の郷里になじめぬまま新制中学の生徒となりぬ

 黒住さんは岡山県の大島村に引揚げ、少年期を過ごしたのだが、中国帰りのために、差別のようなことも体験したらしい。「隠してはならない」という主張には、そんな背景があったのかもしれない。そして晩年になり、自分の故郷は他国であっても大連なのだ、と深く確信していたことに、私は胸を打たれるのである。

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