青蟬通信

ラムジー夫人と河野裕子 / 吉川 宏志

2025年7月号

 今年の初めごろの歌会でヴァージニア・ウルフを詠んだ歌が出た。恥ずかしながら私は読んだことがなく、冷や汗をかきながらその歌の評をした。その後で「今年中にヴァージニア・ウルフの小説を読みます」と宣言したのだった。
 昨年末に『灯台へ』が新潮文庫から新訳で出て、書店でかなり宣伝されていたので、読もうとは思っていたのである。約百年前にイギリスで出版された小説だが、現在重要性を強く感じさせる本であるらしい。
 簡単にあらすじを書いておくと、哲学者のラムジー氏の一家は、小島にある別荘に滞在していた。そこには詩人や画家といった芸術家も集まっている。幼い息子が、遠くに見える灯台に行きたいと言い出すが、天気が悪くなり、諦めることになる。
 その後、第一次世界大戦が起こり、ラムジー家にも死者が出る。別荘も荒れ果ててしまう。十年後に、もう一度集まった人々は、もう一度、灯台を目指そうとするのだった。
 すごく単純に言えば、戦争によって家族や芸術が深く傷ついた後、静かに新しい時代が始まっていくことを描いた小説とまとめられるのだろう。「灯台」は人々の心を照らすものという象徴性を帯びている。だが、壊れたものは二度と同じ形には戻らない。その喪失感が胸に沁みる。
 『灯台へ』で特徴的なのは、ラムジー家と芸術家たちの晩餐会の様子が蜿々と(五十ページくらい)続くところである。御馳走を準備したラムジー夫人は、芸術家たちの会話をコントロールし、個性的な発言を楽しみながら聞いている。
「ばらばらの彼らをひとつにし、自然に交わらせ、会食の雰囲気づくりをする努力は、そっくり夫人の肩にかかっていた。ここでもまた、何も生み出せない男性の不毛さを感じたが、これはただの事実であって悪口ではない。なにしろ夫人がやらなければ、だれもしようとしないのだ。」
「夫人はそうした話題にすっともちあげられ、身をあずけてしまう。男らしい知性が織りなす、このけっこうな布地に。彼らの知性は縦横無尽に張りめぐらされ、まるでふわふわと頼りない布地に鉄のはりがわたされたように、世界をしっかり支えている。だから、夫人はすっかり身をまかせ、目を閉じていても平気だし(略)」
 こうした文章を読みながら、私は河野裕子さんのことを思い出したのだった。
  菜も魚も肴な な な素材いろいろ楽しくて男らに背を向け流しに向ふ
                             『はやりを』
  ピーナツの殻の幾山男らの議論沸点にさしかかるかな
 河野さんも、料理を作って、男性歌人たちが熱く議論するのを楽しんで聞いているところがあった。にぎやかで活力のある宴の場は、河野さんの尽力があってこそ成立していたのだと、あらためて感じる。
「私なんかはくちばしを差し挟めないから、次の肴は何を出そうかなあ、難しいお話をしておられますねえと思って聞きながら、まな板をトントンやっている。でも、耳は立ってます。」                     『私の出会った人々』
 男たちの観念的な話を面白がりながら、しかし、食べるという現実的なことは、女性にしか分からないのだ、という自負があった。
  じやがいもを買ひゆかねばと買ひに出る この必然が男には分からぬ
                                  『家』
という歌も思い出す。
 『灯台へ』が興味深いのは、そのような女性(ラムジー夫人)の影響から、新しい世代の女性(リリー)が、十年という時間が過ぎてのち、ようやく脱していく姿が描かれていることだ。ラムジー夫人の存在はあまりにも大きく、生前はどうしても圧迫から逃れることができなかった。
「『結婚しなさい、結婚!』などと(庭で鳥がさえずり出す暁のころ、背筋をぴんと伸ばしながら)言うに事欠いて無茶を言ってくる夫人を、リリーは冷やかし気味に見る思いだった。」
 男たちの知性が「世界をしっかり支えている」なんて言えるのか。もしそうなら、戦争は起きなかったのではないか。「すっかり身をまかせ」ることの危険性に、新世代の女性たちは気づきつつあったのだ。

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