揺さぶられる時事詠 / 永田 淳
2022年6月号
私は3・11の大地震も、新型コロナウイルスのことも意識的に詠わずにきた。正確には大震災直後に数首は作ったし、コロナに感染したときの体験を詠ったこともある。大震災の歌を数首作ったときに、この大惨事をかなり題詠的に処理してしまった後味の悪さを感じたから、というのが作らない理由になるだろうか。大きな、しかも多くの人が亡くなる出来事をトピックのように扱ってしまっていいのだろうか、という疚しさもある。
誤解のないように申し添えておくと、決してこういった時事を詠うな、と言っているのではないし、私はことあるごとに時事詠は作るべきだ、と言っている。
ただ、今回のロシアのウクライナへの侵攻は詠っておくべきだ、との思いが勝った。今年からある雑誌で数ヶ月おきに二十四首の連載の場を与えられたこともあって、そこにウクライナの歌を作ったのだが、どうもしっくりこないもどかしさの残ったまま送稿したのであった。
そんな折、「未来」五月号の大辻隆弘の歌に目が留まった。
泥を踏む軍靴の音は侵攻をするときの常、けさも聞こえて
ひそかに、ひどくひそかに寄りて来る「西」が怖い、といふのなら分かる
ドニエプル川を渡河して攻めて来し仏蘭西、独逸、そしていま露西亜
二首目に大辻なりの主張が少し見えそうだが概ね順当な、語弊を怖れずにいえば海外からの傍観者的戦争詠だろう。
しかし、最後の十首目で
いつそいさぎよく敗れよ、やがて来む隷属の日を噛みしめながら
と詠い放つのだ。私はこの一首に、相当に揺らいだ。「塔」の投稿でも相当数のウクライナの歌はあったし、他の選歌の場でも何十首も読んできたけれど、ここまで揺さぶられたことは全くなかった。
これ以上の犠牲を出さないために降伏しろ、という一部の意見に触れることはあった。しかしそれはあまりにも無責任な言説だろう、と私は思うし世間の大多数も同意見だろう。ところが大辻はそんなことを斟酌せずに、自身の率直な思いを表現するのだ。思えば大辻は
紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき
『デプス』
さびしいと言ふのは罪かウサマ・ビン・ラディンしづかに殺害されて
『景徳鎮』
と、ともすれば白眼視されそうな歌をこれまでにも発表してきた。これらの歌に衝撃を受けた人も多いだろう。もちろん、私もその一人だ。一般的なモノの見方、捉え方では読む者の心を動かすことはできない。その考え方がいい、悪い、ではない。批判を恐れずにいかに思い切って詠えるか、それが時事詠を作る時に大事ではないか、と思ったのだった。