短歌時評

前衛短歌とその老い / 大森 静佳

2015年3月号

 今年は戦後七十年という大きな節目の年であるとともに、塚本邦雄没後十年でもある。最近、塚本についての文章を二つ読んだ。

 
 井上法子の「〈視る〉ことのメトードー塚本邦雄『水葬物語』から『青き菊の主題』まで」(「率」七号)は、前衛短歌にはじめから虚構や幻があったわけではないという強い信念から書き起こされている。塚本の〈幻視〉は、アララギ的リアリズム以外の新たな写実の方法として追求されたものであるとして、その〈幻視〉の方法が、やがて第七歌集『星餐圖』の頃から感情的で苦々しい〈凝視〉へと変わっていった経緯をたどっている。

 
 澤村斉美の「戦後七十年の塚本邦雄」(角川「短歌年鑑」平成二十七年度版)は、現代短歌は塚本のレトリックを洗練させてきた一方で、塚本がそのように詠った「根拠」には目を向けてこなかった、と書く。そして、「平和」や「繁栄」という戦後の物語の危うさが露呈した今、この不可解な世界に向き合うヒントとして塚本の思想を捉えようとしている。

 
 発想の道すじは違えど、井上、澤村には共通の思いがあるようだ。つまり、私たちは今、虚構、喩法、韻律的革新といったレトリックだけではなく、もっと塚本の内的な心の圧に目を向けるべきではないかという思いである。こうした意見は格別新しいものではないかもしれないが、両氏の熱のこもった筆致からは前衛短歌の精神への関心の深さが伺える。

 
 私の関心はと言うと、目下のところ前衛歌人の後期へ向かっている。

 
  散文の文字や目に雫(ふ)る黒霞いつの日雨の近江に果てむ  『されど遊星』
  蟬時雨ここより生を呼びかへす露ちりぢりに夕映の夏     『閑雅空間』
  凍蝶を吹つ飛ばす君の息づかひ私はどこまで吹かれてゆくのか 『詩魂玲瓏』

 
 後期塚本の歌には、茫洋とした時間感覚のもとに生を眺望するような、しみじみとした味わいがある。幻の一瞬と鋭く響き合う初期作品とは違って、「いつの日雨の近江に果てむ」や「私はどこまで吹かれてゆくのか」には、〈私〉の原初的なあてどなさが茫々と漂う。

 
 同じようなことが、後期の山中智恵子にも言えるだろう。

 
  この世にはまたもあはざるひとのため夕日に向きて鳥はゆあみす 『星肆』
  風に抱かれ何せむわれかひとひとりうしなひしのち雲の迅さよ  『神末』
  わが骨よきみの骨にと歩みゆく扇を閉ぢて空をひらくごと    『黒翁』
  空の磁器壊れゆくかなあをあをと心に水のながるるときを    『玉蜻』

 
 夫をはじめ大切な理解者を次々に失った山中の挽歌は凄まじい。湯浴みする鳥、風との交合、壊れる空。自然の痛みのなかに、凄惨な追悼の思いは溶けてゆく。初期には呪いのように張りつめていた韻律は、次第になめらかな優しさを帯びてくる。「空の磁器壊れゆくかな」といった強い言葉があっても、後はすっと平明に流す。一首のなかの時間は宙に霧散し、簡明な寂しさだけが残る。

 
 一般に、塚本邦雄や山中智恵子の後期はあまり評判が良くない。確かに、初期のあの鮮やかな切れ味はないだろう。でも、ここには前衛の方法論だけでは評価しきれない、不思議な味わい深さがある。「老い」そのものを直接詠んでいなくとも、時間感覚や韻律の上に独特の「老い」の意識が現れているのではないだろうか。そんな部分も含めて柔軟に読み継いでいきたい。

 
 五月には東京で「玲瓏」による塚本邦雄研究の会「女性歌人から見た塚本邦雄」が開催されるそうだ。ゲストは小島ゆかりと花山多佳子。どんな議論になるのか楽しみである。

ページトップへ