「本当に笑う」課題 / 竹内 亮
2026年3月号
演出家の鴻上尚史さんが演技を教えるオープンワークショップに参加したことがある。ワークショップは、新大久保の天井の高いスタジオで二日間、お昼過ぎから夜遅くまであった。参加者は三十人で、そのほとんどは俳優、声優、芸人や俳優志望の学生で、当時トランプを口から出すマジックで人気が出てきていたふじいあきらさんも参加されていたけれど、三人だけ演劇とおよそ関係ないひとがいた。大きな会社で営業の仕事をしている男性と高校教員の女性と、鴻上さんのファンで弁護士になったばかりのわたしだった。
わたしは学校の文化祭以外で演劇をしたことがなかったし、当時、人前で話すこともほとんどなかったのだけれど、ワークショップで鴻上さんの指導を受けて、大人数の誰かに存在しないボールをパスするワーク、二人組で背中合わせになって体重を預けるワークや既存の言語ではない「※!?#」のような発声で意図したメッセージをなんとか伝えようとするワークをやって、二日目の最後に三人組になって数分の短い劇をやった。
短い劇のわたしの演技はひどかったし、緊張で声もあまり出なかったけれど、でも、そのワークショップで学んだことはその後とても役に立った。
相手の俳優の先のセリフがわかっていても、相手のセリフをよく聞いてから自分のセリフを言うとよいという指示は、裁判の証人尋問で、こちら側の証人(どういう流れで質問するか練習して臨むのでやりとりは当然わかっている)のときにいまも思い出すし、人前で話すときは大きな声や小さな声を意識的に変えていくのがよいという指示は非常勤講師の授業をするときにときどきやっている。
演劇をやったことがなかったわたしにも二日間ですこし演技というものがわかった気がして、その方法論の明確さと、誰にでもわかる説明になっていることにとても感心した。
習いごとには学びやすいジャンルとそうでないものがあるとおもう。たとえば、大学受験とか資格試験とかは学び方が確立されている。身体を使うものでも運転免許は学びやすくできていて、運動神経のよくないわたしもなんとか免許を取ることができた。しかし、それだけでなく、俳優という才能とか感性の領域のように思っていたジャンルも教えることができるのである。
では、短歌はどうだろうか。短歌の講座はそれなりの数があるけれど、学びやすいジャンルにはなっていないような気がする。
二〇二五年末に服部真里子の『あなたとわたしの短歌教室』という短歌入門書が出た。光景だけを詠む課題、「実景+つぶやき」を詠む課題などを示し、短歌を学びやすくしている。その上で、服部は、「苦しみという内的要請でつくられた短歌こそ、真に優れた短歌である」というのは信仰に過ぎないのであって、内的要請と短歌の価値とは関係しないという立場を述べ、外在的な「折句」によって内的要請に基づかない短歌を作る課題を提示する。
俳優は、与えられた戯曲を演じるから折句に近いところがある。しかし、そこで求められるのは「本当の感情」である。鴻上さんのワークショップで「本当に笑おう」という課題があった。笑ってくださいと言われて参加者のひとりが「はっはっはっ」と笑う。そうではないと言われ、最近見たおかしかったことを思い出してくださいと言われる。そのうちに誰かが小さく笑い出す。いつしか三十人の多くが本心から笑い始める。
この笑うワークは、折句を始めたはずなのに本心であるという意味では内的要請になっているようにおもう。そして、この内的要請は、服部が信仰と呼ぶ内的要請とは別なのだろう。短歌で「本当に笑う」課題が成立するか、もうすこし考えたい。