短歌時評

運用と手順⑪ / 吉田 恭大

2020年12月号

 年間の振り返りを、ということで何かを振り返ってみようとするが、三月からこちら側の記憶は正直ずっと危うくて、もちろん本欄には毎月何かしらのことを書いているのだけれど。執筆時期と掲載月とウェブでの公開のそれぞれタイムラグもあり、世間やわたくしがいつ何をやっていたのか、今一つ漠然としている。
 疫病が社会に変化をもたらしたり、曖昧な感じで政権が変わったりしたところで、個人の生活も社会全体も明るい展望が見えない。皆様いかがおすごしでしょうか。わたしはもうずっと無理です。
 
 四月前後の記録と記憶
 五月号の当欄「運用と手順④」では、三月二十四日東京オリンピック延期決定、四月十日「塔」全国大会中止決定、あたりまでを纏めた。以降の時間軸も纏めていこうと思っていたのだが、いつの間にかそれどころではなくなってしまった。
 緊急事態宣言下の生活、については文芸誌はじめ商業媒体でも色々の特集が組まれていた。同人界隈、特に短歌を作る人たちの参加していたあたりで言うと、千百十一が企画、六月に刊行された「コロナの春」記録文集『春にしてみんな離れ』と、とみいえひろこの企画したnote「パンデミックとわたしと」が、企画意図、ボリューム共にとても読みがいがあった。それぞれ多様な地域、背景を持つ人々が創作とインタビューやエッセイを寄せており、いま改めて読んでも当時の混乱した状況や各人の置かれた困難さが色々な角度で残されている。
 個人的に参加した企画になるが、ヴァーヴァル・アート・ユニットTOLTAの詩集『閑散として、きょうの街はひときわあかるい』についても言及しておきたい。こちらの本は四月二〇日から五月一九日にかけて一六人の参加者が毎日少しずつ入力し、共有したテキストの集積をTOLTAがリミックスし、一冊の詩集に編纂するという趣向で、当然ながら前掲の二つの企画と違い属人的な記録としては読めないが、複数の人間によってストックされた数字や語彙は、当時の気配を詩の言葉として十分に伝えられている筈だ。
 「パンデミックとわたしと」について、とみいえ氏の巻頭言に相当する五月二十一日の投稿を引く。
   もう、忘れてしまったことがたくさんある気がします。
   ここは、新型コロナウイルスによるパンデミック下の状況において、それぞれ
  の人の日常や精神的・内面的なレベルで起きているさまざまな記録を積み重ねて
  いく場所です。
   それぞれの日常を、その複雑な姿のままで。(中略)
   このnoteで数週間に数名の記録を公開していく予定です。テキストを依頼し、
  制作側が受け取り次第できるだけ迅速に公開していきたいと、すでに依頼した方
  にはお伝えしました。ただ、わたしがこのnoteについていろいろと迷っているあ
  いだにずいぶん時間が経ってしまい、緊急事態宣言も解除されはじめました。
   これからも迅速には公開していけないと思います。ときには数日前、ときには
  何週間か前に書かれた記録が公開され、積み重なっていきます。日常のなかで遅
  れをとったり吹き溜まったりしながら積み重なっていく多様な記録が、それぞれ
  の読み方で読まれることにより身体に刻み付られる記憶となり、忘却への抵抗と
  なればいいと思います。
            (https://note.com/pandemic_to/n/n7be8fd79fb2d)
 同時代性が強みのコンテンツであることと、それに対して「迅速に公開してはいけない」と言えるのは重要なバランス感覚であると感じた。とりわけテキスト系のウェブコンテンツについては公開から時間が経つとあっという間に忘れられてしまう。
 出来事がそれぞれの作者の中で記されてアウトプットされる、そのタイムラグを含めたうえで公開すること、さらにそれが時間を置いても読者に届くと期待することは、ある種の覚悟が必要だろう。
 「パンデミックとわたしと」は十月の段階で二十九名のテキストが掲載されている。藤田千鶴さんや大橋春人さんら、塔の方の作品も読めます。ぜひ多くの方に記事を遡って読んでいただきたいです。
 
 五月、緊急事態後の場と百首会
 ZOOMその他のオンラインサービスによって、ウェブ上で開催される歌会も一部ではすっかり定着した。
 塔では五月二十九日に第一回のZOOM歌会が開催され、その後もコンスタントに開催されいる。八月二十二日には塔短歌会賞、塔新人賞の授賞式もオンラインで開催された。結社でZOOMアカウントを取得できる、というのはなるほど盲点でした。今や総合誌の座談会なども普通にウェブを活用して収録されているし、状況を見るとこのままオンラインで色々片が付くようになるのだろう。
 もう少しZOOM歌会の話をする。興味深かったのは、(ネット上の一部、ごく限られた観測範囲の話ではあるが)夏ごろににわかに「百首会」が流行したことであった。
 参加者はZOOMに常時接続した状態で、時に会話をしたり、離席して散歩をしたりしながら歌材を求め、一日をかけて百首を捻りだしていく。丸一日かかる酔狂な企画である。
 なぜ百首会が頻繁に開催されるようになったのか。もしオフラインで、対面で百首会を開催するとなると、どこか会場を押さえて泊りがけで開催するなど、かなり大がかりな準備が必要になるだろう。
 これまでであればちょっとした合宿の準備が必要だったところが、長時間オンラインに接続できる環境があれば、人間同士オフで顔を突き合わせなくても同時に同じ作業をすることが可能になった。
 これまでも「作業通話」「さぎょいぷ」などの名前で、長時間オンライン通話をしながら各々の作業をする、というような文化がインターネットで創作活動をする界隈にはあった。このあたりについてはlineだとかSkypeだとかその時々に浸透していたアプリやサービスによって時期的に、世代的に色々な変遷を辿ることができるが、もとを辿れば固定電話による友人との長電話(その後携帯電話の普及により姿を消した)と同種のコミュニケーションで、友人との他愛無い会話のバリエーションと考えていただいて差し支えない。このようなコミュニケーションは往々にして、会話で交わされる話の意味や中身より、会話をしている、という体験をやその場を共有していること自体に重点を置かれている。
 で、この「めいめいで作業しながら会話する」という会話そのものを目的としない時間の共有と、「複数の人間がオフライン(またはオンライン)上に会する」という歌会としての座の共有、の二つの文脈が、自宅待機で時間を持て余していた一部の界隈で合わさった結果が、百首会のにわかな流行だったのだ、と言えるだろうか。みなさん暇だったからいつもはできないことをやってみたかっただけかもしれませんが。
 普段、歌会で顔を合わせている人間同士でも、それぞれの普段の歌作の様子というのはなかなか見ることがないので、画面越しとはいえそういう意味でも興味深い体験であった。
 緊急事態宣言以降、オフラインで「集まれない」状況からオンラインで「集まらざるを得ない」状況になり、それが広く普及した結果として、オンラインで「集まれる」ことが、海外や遠隔地を結んだ歌会や、深夜など通常では開催できないような時間帯での歌会など、「これまで集まれなかった」座の立ち上げに繋がった。
 ここに付け加えるならば、百首会などの長時間の場の共有が必要となるイベントは「今だから集まれた」(=外出自粛の状況で多くの人が長時間自宅にいる)からこその座の成立と言えるだろう。
 国際歌会も深夜歌会もオンライン百首会も、これまでも技術的には可能な話ではあったけれども、このような形でオンライン環境が半ば強制的に普及した状況下では無ければ、ここまで定着することは無かった筈だ。
 
 七月と八月、訃報と共同体について
 夏には、岡井隆、石川不二子両氏の訃報が相次いで届いた。お二人の容態が良くないについては、それぞれ未来や心の花の会員の方から何となくお伺いしていたのだが、訃報が届く、新聞記事として目の当たりにすることで、改めてその死が告げられたと感じる。
 個人的な話。岡井さんは早稲田短歌会に在籍していた頃、未来の新年会にパネリストで呼ばれたときに昼食をご一緒したのを覚えている。会場は当時まだ神楽坂にあった日本出版クラブ会館でした。その場の会話は何故か吉田隼人と藪内亮輔についての説明でほとんど終始して、カレーを食べ終えた。
 石川不二子さんとは高校生の頃、岡山で開催された文芸部の中国大会でお話したことがあった。結社というものに入りたいのですが、と初対面で不躾にも相談したところ、後日いくつかの結社誌を送っていただき、結社について丁寧に教えてもらった。その中で、鳥取在住ならば、ということで池本一郎さんをご紹介いただき、それが塔に入るきっかけの一つとなった。そういえば心の花には特に誘われなかったですね。個人的な話終わり。
 亡くなった方について、個人的な話をするのも、個人的な話を聞くのも、それぞれ意義はあるとは思うが、実際のところ情報としてどう伝え、受け取ればいいのか、未だに持て余してしまう。とはいえ、ここで取ってつけたように「その歌人が短歌史に貢献した役割」のような話をするのも、もっと適役がいるだろうから自分がやらずともいいか、という気になってしまうのでよろしくない。
 「まひる野」9月号。富田睦子は岡井隆の訃報について、記事に要約されるような「昭和三十年代に興った社会性・抽象性に富む」「前衛歌人」といったその人を大きく雑に括ってしまうフレーズについての違和感、嫌悪感を表明しながら、次のように述べている。
   私は、短歌史と並行して歌人史があるといいと思う。どのような歌人がどのよ
  うな交流をしたか、また、ひとりの歌人がどのように生きて、その都度どんな短
  歌を残したのか。
   適当に区切った時間の流れの中に人間を置くのではなく、人間が生きている時
  間の中になにかの凝り、なにかの交錯を見るような、そんな視点が必要ではない
  かと思う。
             (「短歌史と歌人史」・富田睦子『まひる野』九月号)
 短歌史と歌人史。これを沿わせて並べるならば、没後の追悼や検証のための企画は、歌人史を短歌史の中に織り交ぜ、編み込んでいくような作業であるのかもしれない。その過程で故人はどうしても矮小化され、手に取りやすいパッケージにされていく。その時、献花のように集まった故人についてのエピソードの集積はどこにいくのだろう。「短歌研究」十一月号の花山周子による短歌時評を引く。
   あのような甚大な災害と較べるべくもないが、今回のコロナウイルスは、もっ
  と緩慢なかたちで自分たちの周囲にあった共同体を霧散化したようなところがあ
  る。短歌界についていえば、佐佐木(吉田注・幸綱)が「みな」と呼びかけてい
  たような所謂「歌壇」の輪郭はだいぶ薄れていたけれど、それでも一人の歌人の
  死を悼む一つの共同体はそこにあった。河野裕子の死や小高賢の死を私は私個人
  としてだけでなく一つの共同体の全体性によって実感する過程を得ていた気がす
  る。けれども今回、岡井隆が亡くなったことをどうしてもこれまでのようには実
  感できずにいるのだ。もちろん総合誌等で追悼特集は組まれるわけだし、何が違
  うのか自分でもよく分からないのだけど。
         (「今、という地点の背景」・花山周子『短歌研究』十一月号)
 共同体、については、私自身は正直コロナ以前からよく分からなくて、理解はできるけれども体感として、私は佐佐木幸綱が一九九三年に認識していたような「歌壇」は分からないし、少なくとも私自身はそこには帰属できていない。(例えば、会費や会則がある組織であれば、制度がある分だけ、帰属していると公言しやすい。いわゆる歌壇は明確な輪郭がない分、信仰が必要なのだろう。)
 信仰はさておき。実在する結社の話として言えば、度々言及されることではあるが、やはり歌人史こそ短歌結社の機能というか、得意とすべき領域なのだろうと思う。八月号の「河野裕子没後十年」、九月号からの集中連載「冬道麻子を読む」など、塔という結社らしい好企画と言えるのではないだろうか。
 物故者の回顧については、総合誌の企画や特集が一通り出そろった後で個人的に読み直しておきたいと思う。折角ZOOMの読書会なども開催されやすい状況になっているので、生活が落ち着いたら、なるべくそういう時間を確保できるようにしたい。
 
 十月の任命拒否と声明
 もう一つ実在する組織の話に触れておかなければ、と思った。
 十月二十六日。現代歌人協会理事長・栗木京子、日本歌人クラブ会長・藤原龍一郎の連名で「日本学術会議の新会員任命拒否に反対する声明」が出された。同時期にさまざまな学術団体、職能団体や個人が同様の声明を出しており、それぞれの立場によって特徴的なコメントも付されているので見比べると興味深かった。
 声明では、歴史の前例として戦中の大日本歌人協会の解散について言及し、「今回の任命拒否をきっかけにして、政府に逆らう学者や研究者は排除すべきだ、という短絡的な言説も出てきました。ここから、政府に逆らう表現者(歌人を含む)は排除すべきだ、という風潮までは、わずかな距離しかありません。」と述べている。実際、体制に認められない表現はあっという間に否定されるようになるだろう。そうなるともはや名古屋市長どころの問題ではない。
 もしそのような事態がやってきたとして。先の戦争と最も違う点があるとすれば、共同体が成立しなくなった状況下で、「組織としては」大政翼賛会も日本文学報国会も存在しない、ということになるのではないか、という気がしている。どうだろうか。

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