青蟬通信

「見るべし」について / 吉川 宏志

2015年4月号

  馬追虫(うまおひ)の髭のそよろに来る秋はまなこを閉ぢて想ひ見るべし
          『長塚節歌集』「初秋の歌」
 明治四十年作のこの歌は、とても好きな一首で、読むたびに不思議な光のようなものを感じる。上の句はまぎれもなく視覚的なイメージだが、下の句では目を閉じて見るように歌っている。馬追虫の細い髭が、下の句では幻影に転じる。現実が虚像に変わる呼吸が、この歌の魅力のように思われる。

 

 「想ひ見る」は、「思いみる」(よく考える)という意味ではなく、「想ひ/見る」と切れているらしい。見えないものを見ようとする強い意志を、私はこの歌から感じるのである。

 

 角川『短歌年鑑』27年版の「現代短歌の文体」という文章で、今野寿美はこの歌について論じている。今野は、この歌の結句が「静かに感じとるべきである」などと訳されていることを批判する。「べし」の文語文法的な意味を重視し、
「島木赤彦に書き送った歌とされていることからも、節は本来の文語の「べし」の〈適当〉の意で「想ってみるのがよかろうよ」くらいのつもりだったのではないだろうか。過去の遺産の、そういう微妙な味わいを知っておくことは、多少とも文語に関わる歌人の特権であり、また責任であるように思う。」
と述べるのである。

 

 歌の読みに、絶対の正解はないので、今野のような読み方も可能だと思う。しかし私は、〈適当〉という意味で取るのには、少し違和感を持つのである。

 

 佐藤佐太郎の随筆集『枇杷の花』には「『初秋の歌』の成立」という章があり、長塚節が遺したノートをもとに、「馬追虫」の歌がどのように作られていったかを紹介している。それによると、この歌は、
  目を閉ぢて居て
  まなこを閉ぢて
  観るべかりけり(蓋し観るべし)
というふうに下書きされていたらしい。「目を閉ぢて居て」だとリズムが小刻みになるので「まなこを閉ぢて」にしたのだろう。節の推敲の様子が見えて興味深い。注目されるのは、もともとこの歌は「観るべかりけり」と発想されていたことである。「べかりけり」は、「……すべきであった」などと訳される。(蓋し観るべし)の「蓋し」も、「確信的な推定を表す副詞」とされている。つまり、もともとこの歌には、見ることへの強い信念が籠められていたと思われるのである。それを「想ひ見るべし」という抑制された静かな結句に変えていったという経緯があるのだ。

 

 また、斎藤茂吉は『長塚節研究』で次のように述べている。
「『まなこを閉ぢて想ひ見るべし』の句も、ただ漫然とした瞑想的な句でなく、自然にふかく浸つた生の一感慨として受取るべきものである。当時の歌壇は空想派唯美派理想派がその主潮流をなしてゐたから、それ等と混同しないやうにして味ふことを希求する。」

 

 ここには〈適当〉という解釈が入り込む余地はなかろう。茂吉はこの歌を、深い生の感慨を芯に持つ歌だと読んでいた。茂吉の主張はやや党派的だが、私はどちらかといえば、こちらの読みに共感をおぼえる。

 

 繰り返しになるが、短歌の読みに正解はない。今野のように、軽い意味でとらえる読みも面白いと思う。

 

 ただ、文法の辞書的な意味を強調する読み方には、私は少しだけ距離を置くようにしている。一首の中には、言葉の流れのようなものがある。その中に言葉が置かれるとき、辞書的な意味が、微妙に揺らぐことがある。その揺らぎを読むことが大切なのではなかろうか。「見るべし」という言葉が、この歌の中で最も生きる読み方は何だろうか、と考えてゆく。私はそのように歌を読んでいきたい。

 

 そして「歌人の特権であり、責任」という言挙げは、すばらしいと思うけれど、私自身は、もっと柔軟でありたいと思っている。「責任」というふうに言ってしまうと、自分の読み方だけが正しいのだ、という硬直した姿勢に陥りやすいからだ。

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