塔アーカイブ

2017年3月号

特集 平井弘インタビュー
「恥ずかしさの文体」(前編)
 
聞き手:吉川宏志
記録:澤村斉美
テープ起こし:干田智子
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「塔」との関わり
 
吉川 平井弘さんは「男の子なるやさしさは紛れなくかしてごらんぼくが殺してあげる」や「ひぐらしの昇りつめたる声とだえあれはとだえし声のまぼろし」などの歌でとてもよく知られている歌人ですが、これまでほとんどインタビューがなく、生(なま)の話を聞く機会はめったにありませんでした。今回、『塔』のインタビューを受けていただいて、とても嬉しく思っています。
平井 若い頃から「塔」とは不思議にご縁があるんですよ。ご存じのように、私は結社とは全く関係ないところで歌を作ってきたんですけれども、結社の引力圏みたいなのに一番接近してたのはたぶん「塔」だと思うんです。というのは、小瀬洋喜さんたちと創刊した同人誌『斧』の創刊メンバー十人の中に、「塔」の会員が二人いるんです。杉村昭代さんと、もう一人は栗山繁さん。栗山さんは、岐阜の海津の方でご健在ですね。最近名古屋の「塔」の会に出向いたときに、五十年ぶりにお会いしました。
 杉村さんは、私と同じ頃に活躍した方なんです。名古屋の人ですけど、岐阜の歌壇で活動してて、『斧』にも一緒に加わったんです。この人が、自分の歌の載った『塔』を毎号送ってくれていたんですね。だから、私はずっと『塔』の購読会員みたいなものでした。当時は高安国世さんが主宰でしたけどね。だから、あの頃の歌はよく読んでましたよ。例えば、清原日出夫さんやら坂田博義さん、それから伊藤雋祐さん。女性の方では藤牧久枝さんとか古賀泰子さんとか。
吉川 藤牧さんがのちの坂田久枝さんですね。
平井 杉村さんはかなり後に再婚されましてね、滋賀の方へ移られたんです。尾田昭代さんという名前になったと思います。『雪炎え』という歌集を出されたんですが、あれが一九八二年ですね。
吉川 僕は八七年の「塔」入会で、お会いした記憶はちょっとだけあるんですけれども。
平井 そうですか。主要な同人の誌上歌集という企画が『塔』であったんですよ。あれに杉村さんの歌集が編まれたときに批評を書かせてもらったんです。それが『塔』に載った私の文章の最初だと思いますね。その後は、『雪炎え』の批評も書かせてもらいました。河野裕子さんと並んで載ってますよ。
吉川 ああ、そうなんですか。
平井 そんなこともあって、『塔』の座談会で、花山多佳子さんが杉村さんの名前を出してお話しされていて懐かしかったですね。当時高安さんがもうちょっと売り込みに熱心だったら、もっと中央で名前が売れたんじゃないかと発言されてました。確かに力があった人だと思います。杉村さんの消息、ご存じの方があったら教えてください。
 もう一つ「塔」とのご縁は、私は高校生の頃短歌を作り始めたんですけど、実は最初活字になったのは高安国世さんの選なんですよ。
吉川 そうだったんですか。
平井 それがね、私は毎日歌壇だったと記憶してるんですけど、「立ち並ぶ煙突に今日は煙なくて雪の伊吹は近ぢかと見ゆ」というの。随分真面目な歌を作ってたもんだなと思うけどね。これ高安さんに採ってもらったのは昭和二十九年、一九五四年でした。三省堂の『現代短歌大事典』の中に、永田和宏さんが高安国世の項を受け持っておられて、七一年より毎日歌壇選者とあるんですよ。それは全国歌壇で、私が出してたのはひょっとすると地方歌壇だったかもしれない。
吉川 高安さんとは面識はなかったのですか。
平井 高安さんとお会いしたことはないです。でも、これだと、そのまま結社に入ってしまうというよくあるパターンでしょうね。
 
少年の視点
 
吉川 平井さんの歌といえば、やはり少年時代を詠んだ作品がとても印象的ですね。
平井 そんなに特殊な体験をしてたわけでもないんです。あの当時の私の年代の者の一般的な経験にほぼ近いんですけどね。『顔をあげる』のあとがきに「疎開っ子としての目を再確認したい」と書いたので、疎開っ子世代ということで取り上げられたんですけど、実は疎開の体験というのは私はないんです。だって、岐阜はもともと田舎の県だから、疎開を受け入れることはあっても、疎開を送り出すような立場にはなかったと思うんですよ。だから、私が疎開というふうに書いてるのは疑似体験のようなものですね。
吉川 なるほど。以前、エッセイで遊郭の子として生まれたと書かれていましたね。
平井 国文社の歌人文庫に、初めて生い立ちとか、そのようなことを書きました。あれが最初で最後でね、後は話したことも、書いたこともないんですけどね。
 戦前は、岐阜の繁華街柳ヶ瀬の西に、金津遊郭というのがありました。浅野屋という楼があって、これは全国に名前をわりと知られたところだったらしいんですよ。金津はそこを中心に結構古くからある遊郭でした。そこの一軒の長男として私は生まれたんです。
 私、両親を早く亡くしているんですよ。父親が先です。もともとちょっと体の弱い人で、結核です。滋賀にあったと記憶しているんですけど、サナトリウムにずっといて、そこで亡くなったんですけどね、私がまだ三歳のときでした。だから、父親の顔はほとんど覚えてませんね。
 当時は、夫が亡くなっても男の子がいるので実家に帰るに帰れない。だから、母は姑の弟と再婚したんです。母親の日記が残ってたんで読んだことがあるんですけど、泣く泣くそうしたような感じでしたね。その母親も終戦の年、私が九歳のときに亡くなっています。だから、親の情はあまり受けずに育った印象が強いですね。
 それで、経済的には遊郭の御曹司みたいな形だから結構恵まれていましたけど、精神的にはやっぱりちょっといじけてたかな。その性格がいまだに残っているんじゃないですか、私の歌にはどうも。そんな気がしますよ、この人嫌いのところなんかはね。
吉川 では、ご両親が亡くなった後はどなたに育てられたのですか。
平井 おばあさんですね。姑の弟の人ともあまり合わなくて、少年時代は暗かったなあ。終戦の前の年だったかな、郊外の長森の手力(てぢから)というところへ移転したんですよ、遊郭ぐるみで。
吉川 手力って地名?
平井 地名です。火祭りで知られた手力雄神社という神社があるんですけど、そこへ郭ぐるみで移転したんです。一面芋畑の田舎ですよ。芋畑の真ん中に、二階建ての長屋が幾棟あったかな。五軒が一つなぎで、十棟ぐらいあったかと思いますが、そんな長屋の花街が突然出現したんです。
吉川 遊郭全体が疎開する、ということも戦時中はあったんですねえ。
平井 私は街中の小学校から田舎の小学校へ二年生のときに転校して、そのときにほぼ疎開に近いような体験をしました。田舎の子供たちの中へ放り出されて、遊郭の子だということで、いじめまではいかなくても、ちょっと変な目で見られたりして。
 これは後になって考えたことですけど、大江健三郎が出てきて、「飼育」とか「芽むしり仔撃ち」という作品のなかで、村というのを設定したんですけど、さらにもう一つ内側の枠として少年院を設定してるんです。二重の枠ですね。少年院にいた者が疎外されて、村というもう一つ外部の枠に移る、という設定に当時の私の状況も似てなくもないんです。遊郭という閉鎖された人間関係の中にいましたからね。だから、実は、そういう田舎へ放り出されていじめも受けましたけど、開放感みたいなのもあったんですよ。『顔をあげる』のあとがきでは「粗暴な回復」という言葉を使いましたけど、初めて他人の中へ放り出されて、他人とはこういうものか、ということを知ったんですね。それがずっと後にいわゆる「他者」を考える上での基礎になりました。
吉川 以前住んでいた金津遊郭あたりは空襲があったんですね。
平井 空襲に遭っていますね。その長森の移転した先は燃えなかったです。ただ、空襲はしょっちゅうありました。というのは、その手力というのは各務原(かかみがはら)に近いんですよ。各務原には当時陸軍の飛行場がありましたし、今でもあります。今は主に自衛隊が使ってますが、三菱のMRJ(開発中の小型旅客機)がアメリカへ飛び立ったときの最初の飛行場ですよね。陸軍の飛行場があったので、工廠群があったんです。だから、よく米軍機が空襲に来ましたね。
 子供の頃、当時は国民学校の時代でしたけど、ほとんど勉強してなかったですね。当時私らは桑畑によく駆り出されていました。桑の枝を水に浸しておいて、それを木槌で叩いて皮を剥くんですよ。その皮を干して、繊維を取ってね。落下傘か何かを作るというようなふうに聞いていました。そうだとすると、随分粗悪なものを作っていたんだなと思います。食料増産のために、学校の運動場も全部芋畑になっていましたもんね。そんな時代でした。いわゆる疎開の人たちが味わったようなひもじさとか、親恋しさとか、そういうのと全く違った疎開っ子の目が出来ていたように思います。
吉川 空襲で人が死んだ場に居合わせたようなことも、経験されたのですか。
平井 米軍の飛行機が落ちたのは、二度ほど見ました。警察や軍の関係が来ていて近寄れなかったですけど。死体を見たとか、そういう修羅場には居合わせていません。そういう現場を見たという子もいましたけど、私自身は見てないですね。芋畑の中に赤い旗が立っていて、焼夷弾の不発弾が埋まっている位置なんですが、むろん未処理です。そういうものは日常的に見ていました。
吉川 平井さんの歌は、ある意味でずっと戦争をテーマにされていますね。
平井 それは一貫しています。一度も外れたことはありません。『顔をあげる』から、それはずうっと根底に置いてきましたね。
吉川 戦争で身近な人が死んだわけではないけれども、やっぱり少年の心の中に残るものがあったんでしょうね。
平井 恐怖感とかね、確かに、戦争に対するいろんな思いがありましたよ。空襲の初めの頃は、B29が高いところをきれいな姿で飛んでいました。高射砲も届くか届かないかぐらいの高空で、針の先から糸がすうっと引いているように、キラキラして本当にきれいなもんです。あまり高いから、爆音も聞こえないですものね。
 だけど、敗戦間際になるともう迎撃する飛行機もないから、おおっぴらに低空を飛んで来ます。地上から高射砲を撃っているんですけど、あの破片が怖いんですよ。バリバリってね、板塀に突き刺さってましたね。あんなのが当たったらひとたまりもなかったでしょう。そういう経験はしています。
吉川 死の恐怖というか、そういうのはやっぱりありましたか。
平井 どうだろう。すごいなあというだけで、怖さが死につながってなかったかな。恐怖はあっても、死を実感していたのではないと思います。
吉川 後から、死に対する意識が来るということですね、じわじわと。
平井 後から、書物とかで知識が入ってくるので、ああ、あのときは、と思って、そこで初めてじわっと死の恐怖のようなものが湧いてくるということはありますね。
吉川 平井さんの歌ってそのときの子供の視点をずっと持ち続けてますね。
平井 それは、私にとっては最高の褒め言葉ですよ。そのとおりだと思います。
吉川 解釈が入ってこないですものね。子供のときに見た戦争というのを本当に大切にしてるというか。
平井 そこから成長してないんだな。というよりも、その時々の時点でそこへ立ち戻って詠っている感覚があるんですよ。音楽で言うフーガ、遁走曲ですね。私の作歌の中断の理由をよく聞かれるんですけど、その時点で一旦詠い尽くしたような感じがするんです。ただ、ある程度時間がたって立ち戻ってみるとまた別の感覚が湧いてくる。だから、もう一度詠い直すということの繰り返しが三回あったような気がするんです。
吉川 なるほど、確かにそうですね。歌集ごとに、その時々で達成されているものがある感じがしますものね。
平井 だから、五十年間でたった三冊の歌集という言われ方もしますけど、それでも私自身はショートランナーだと思っているんですよ。短歌っていうのはやっぱりロングランナーの詩型だということは事実なんです。吉川さんそう思われるでしょう。
吉川 まあそうですね。
平井 だって、現在歌壇の中心にいるような人たちはずうっと結社の指導者とかそういう立場にいて、何冊も歌集重ねてという長いスパンの活動でしょ。ところが、短歌史の節目節目で寺山修司や春日井建、村木道彦、俵万智、穂村弘などのショートランナーが短歌を大きく動かしたことも事実ですね。私の場合はショートレースを三回走ったような気がするんですよ。だから、三冊ともまるっきり違うんです。どれが本当の平井弘だとよく言われるんですけど。
 
第一歌集『顔をあげる』について
 
吉川 平井さんの作品は、「村」を仮構したというふうによく言われるけど、もっと自然な感じなんですね。
平井 私の中では自然ですね。ずっと前に菱川善夫さんが『花づな』というご自身の雑誌で、私の特集をやってくださったんですけど、村ということをすごく皆さん勉強されてたんです。詩人の黒田喜夫の村とか、谷川雁の村とか、前登志夫の村とかと比較されて。だけど、私はそこまで考えて村というものを構築したり、そこに戦後思想を映したりした意識はあまりないですね。私の周りにあって、初めて他人というものに接したところが村だった。その移り変わりを描いただけなんです。
 でも、歌集のあの読み方を最初に始めたのは冨士田元彦さんだし、それから菱川さんなんですよね。私の歌の中から、歌を引きながら、こういうふうに村の中が変質していったんだというね。だけど、菱川さんたちの読みは、私の歌を論に当てはめて解釈しているようなところがあるんです。
吉川 批評のほうが先に進んでしまった、ということなんでしょうね。第一歌集を、今回ずっと読み返していたんですけども、繊細な心理詠ですね。はっとしたのは、「騙されている貌の中の騙されてくれいる一人にまた負けていつ」という歌で、この心理は分かるなあ、と今になって思ったりしました。
平井 妙に屈折してるんでしょうね。今でも教科書に一つだけ取り上げられている歌があって、「困らせる側に目立たずいることを好みき誰の味方でもなく」という歌です。学習書に、この歌の意味を次の中から答えなさいって幾つか選択肢があってね。だけど、これが正解なんてあるわけないです。他人を信用することができなくて上目づかいに見ている歌だとかいろいろ書いてあるんだけど、どれも含まれていますもの。
 いじめとかひきこもりにリンクして読まれていることもあるんです。歌というのはやっぱりその時代時代にリンクして読まれるでしょ。私の歌も多義性があるために、その時々の読まれ方をされるんですね。
吉川 集団の中で孤立している感じですね。
平井 やっぱり集団とか、他者、対者の中の相対的な私という立ち位置はいつもずっと意識にあがっていますね。微妙な、デリケートな意識の仕方でね。だから、春日井建さんはいつも、平井弘は俯いていた方がいいんだよって言ってたんです。『顔をあげる』は、歌集のタイトルとは裏腹に俯いてますよ。春日井さんとは逆に、塚本邦雄さんは手紙の中で、平井弘がこの後求めなきゃいかんのは強さだけだということを言っていたんです。強さっていうのはやっぱり顔を上げよということだから、そのはざまでもう揺れ動いて歌が作れなくなったんですね。
吉川 ああ、なるほど。
平井 結局「顔をあげる」って宣言した手前、上げたんですけどね。その結果生まれてきたものの集積が『前線』という第二歌集なんですが、今読み返すと随分背伸びしているようなところがありますもの。思想云々ということを言われると、私はそこまで立派な思想を持ってはいませんと言いたくなるんでね。
吉川 『顔をあげる』は本当にみずみずしい歌が多いですね。田園風景の美しさに、やはり魅かれてしまう。
平井 そうですね。私が育ったのは、田園だものね。
吉川 これも好きです。「雪嶺は映らぬ遠さ水たるるコース・ロープに揺れる夕焼け」。
平井 本当に初期の歌ですよ、これ。十八、九の頃の歌です。
吉川 いかにも山間の学校の懐かしい情感があって好きだな。
澤村 私もいいですか、一首挙げて。「手いっぱいに拡げて描きし円のなか幼児はすでに拒む眼をする」、これはすごく好きな歌で。
平井 これも屈折しているな。
澤村 他人と出会った、他人を発見した歌ですよね。そういう歌が『顔をあげる』にたくさんあるような気がします。
吉川 さっき言った「騙されてくれいる一人にまた負けていつ」、これもすごく深い。嘘をついていることは分かっているのに騙されてくれる人っているんですね。そんな相手の優しさに、かえって自分が傷ついてしまう。お互いに相手の心理を読み合っているところが、すごく複雑で、屈折してますよね。
澤村 屈折があるんですけど、田園に守られているという、そういう世界観が『顔をあげる』にあるように思うんです。
平井 そうですね。さっき開放感って言ったのはそこもあると思うんですよ。私が育った遊郭の人間関係の中で、「騙されて」のような歌が詠まれていたら、もうたまらなく暗い歌になるでしょ。
吉川 『顔をあげる』では、純粋な少年が、汚れたいと願うような歌も印象的ですね。「鼻血して胸すこし汚せしまま眠る眠りにもわが汚れしままに」とか。自分が無垢だからこそ汚れたいという思いを抱くわけですね。それがかえってすごく美しい感じがしますね。
平井 自分で言うのもなんだけど、何かちょっと頼りないくらいにね。子供のままなんだと思います。
吉川 この心理詠的な傾向はどこから出てきたんですかね。他の作者の影響はあまりないのでしょうか。
平井 私が歌を作り始めた頃一番影響を受けたのは相良宏ですね。
吉川 ああ、そうなんですか。ちょっと意外でしたが、相良さんも心理詠ありますね。
平井 『短歌研究』か『短歌』に何十首かまとまって載ったことあるんですよ。あれで最初読んだんです。
吉川 相良さんも病棟の中に閉ざされていて、それですごく心理の屈折もありますものね。
平井 微妙に屈折してますもの。初期の歌なんか特に影響受けてますね。
 あと作家で言えば、最初の頃は大江健三郎の影響はもうたくさん受けてます。「飼育」とか「芽むしり仔撃ち」の世界は、舞台的に近いところにいたからわかるということもあるけど、「鳩」という短編があるんですよ。少年院の子供の日常が書かれていて、その中に小動物が重要なファクターで出てくるんですけどね、あの影響受けてます。未だに私の歌には小動物がたくさん出てくるでしょう。あれは「鳩」の影響ですね。少年院の塀にトカゲとかネズミとか、あんなのを吊すんですよ。すごく印象に残っててね。
吉川 『前線』に兎の歌があったでしょう。兎が吊されているあの歌もすごくいいなと思ったんです。
平井 「吊されている恥しさ 兎より 兎が吊されいたりしことの」ですか。
吉川 兎が恥ずかしいんじゃなくて、吊されていること自体が恥ずかしいんだという。これは本当に、はっとしますね。
平井 私の歌で「恥ずかしさ」はキーワードでしょうね。
吉川 それはどこから来るんですかね。
平井 何なのだろうな、やっぱり恥ずかしいですね。もう基本的に私の感情のベースは恥ずかしさです。
吉川 他人から見られている怖さというか。
平井 いや、そうじゃなくて、他人の前に自分がいること自体が恥ずかしいというね。
吉川 「膝ひらいて搬ばれながらどのような恥しくなき倒されかたが」(『前線』)なんて、運ばれる様子を他者に見られる無惨さが、すごく伝わってきます。
平井 そうそう。あれもそうですね。
吉川 人間の存在が曝されてしまう恐ろしさなんでしょうかね。
 
『斧』の頃/「虚構」論争
 
吉川 ちょっと先に話を進めさせてもらって、それで高校時代から歌を作られていて、同人誌の『斧』に入られるんですよね。大学短歌会には入られなかったのですか。
平井 いや、私は大学に行ってないですよ。高校を出ているだけです。私はちょっといじけてましたから。登校拒否みたいなので、もう学校に行くのが嫌で、私は高校もろくすっぽ行ってなかったですね。だから、難しいことはわからないんですよ。それも恥ずかしさの一つかな。難しいことはわかりませんっていつも言っているんです。
吉川 当時は学生短歌、大学生の短歌が中心だったですものね。
平井 あの頃が第一次の大学生短歌のピークというか、注目されたときですよ。
吉川 そうですね。岸上大作さんとか。
平井 みんなそうです、あの頃ね。清原さんだってそうだったし。
吉川 その中で、疎外感もあったんですね。
平井 それも当然ありましたね。
吉川 『斧』に入ったきっかけはどういうことなんですか。
平井 当時岐阜では『假説』という同人誌が先行してありました。岐阜の歌人クラブというのは超結社の親睦団体みたいなものなんですけど、そこにちょっと発表はしてたんです。そのときに『假説』に対抗するというのかな、そこに入らなかった人たちの中で、若手を集めて小瀬洋喜さんが「岐阜青年歌人会」というのを立ち上げたんですね。その機関誌が『斧』だった。まあそんなことで駆り出されたような形で、別に何かの旗印が私たちにあったとか、志向に賛同したとか、そういうことじゃないですね。
吉川 小瀬さんとは以前から知り合いだったんですか。
平井 『短歌研究』の新人賞に最初に応募したときに、私は予選通過しただけですけど、その作品を持って小瀬さんのところを訪ねたのが二十一歳のときです。そのときに初めてお会いして、それ以降ずうっとお付き合いいただきました。
吉川 小瀬さんがちょっと上なんでしたっけ。
平井 十歳ぐらい上ですね。大分違いますよ。『斧』を小瀬さんが立ち上げてくれたおかげで、私の作品が載って、創刊号や二号の作品が塚本邦雄さんの目にとまり、すぐ葉書や手紙をくれました。
吉川 当時の塚本さんはまめに手紙を書かれていますよね。
平井 目敏いですよ。塚本さんが東京へ持っていってね、こんなのがいるぞということで、岡井さんやら寺山修司、中井英夫さんにすごいぞということを言ってくれたらしいんです。それで、中井さんがちょっと作品を見せてみろということで、何度も送りました。
 あの頃ね、中井さんがもうプロデュースしていたみたいなもので、中城ふみ子とか寺山修司もそうだけど、みんなあの人の独断で賞を出してたようなものでしょう。だから、春日井建さんの後を探してた中の一人になってたんじゃないかと思うんです。村木道彦とか。でも、あの人剃刀みたいな人で、見切りをつけるのも早いんですよ。その辺が冨士田元彦さんと違うんですね。冨士田さんはどっちかというとネジのようにキリキリっと締めてくる人なんで。中井さんに二、三度見てもらいましたけど、ここはだめだ、あそこはだめだって例によってものすごくダメ出しされるんですよ。随分作り直して、何度も三十首、四十首出させられて。
吉川 それは緊張しますね。
平井 そうですよ。結局まあちょっと、ということで、けれど何かまだ見どころあるなと思われたんでしょうか。編集が冨士田さんに代わりましたので、冨士田さんに見ておけやと申し送りをされたみたいなんですね。それから冨士田さんとのご縁ができたんです。
吉川 冨士田さんとの交流が有名ですけど、中井さんとの関係がまずあったんですね。
平井 『顔をあげる』を六月に出したときに、すぐ八月号の『短歌』に書評が載ったんですけど、書いたの中井さんですよ。
吉川 ああ、そうですか。
平井 だって、異例ですよ。編集者自身が書評を書いてくれたんです。あの後中井さん自身が書評書いたの見たことないな。
吉川 書評は結構厳しかったんですか。
平井 いや、随分理解のあることを書いてくれてました。あの人、見切りをつけるのも早いですものね。春日井建さんでも『未青年』以外は何かもう、魂の抜けたようなもんだってばっさりやってたでしょ。怖かったですね。その点、冨士田さんは優しかったですよ。私が歌をやめていた間も毎月のように励ましの葉書をくれました。
吉川 岐阜の青年歌人会について冨士田さんが書いている文章がすごかったですね。アドバイスというかアジテートしていた。
平井 そうそう、本当にあの人のタクトで動いていたような。歌壇全体がね。
吉川 『斧』と『假説』はもっと闘えとか、煽ってましたよね。
平井 煽ってましたね。あのタイプの編集者はもう出てこないでしょう。あの頃はまだ深作光貞さんとか、菱川善夫さんとか、結構いました。今もう、あまりいませんね。
吉川 今、絶対的な基準もないですからね、あれもこれもいいんじゃないか、というふうに、価値観が乱立してますからね。
平井 ちょっと戦国時代ですよ、今は。
吉川 そうですね。で、『斧』では小瀬洋喜さんと岡井隆さんの有名な虚構論争があったんですけど、平井さんは全然関知していないところで行われたんですか。戦死した兄たちを歌っているけれども、平井さんには実際には兄はいなかった。それを小瀬さんは、短歌の可能性を広げる虚構として、肯定的に評価したわけですが。「空に征きし兄たちの群わけり雲わけり葡萄のたね吐くむこう」(『顔をあげる』)などの歌です。
平井 何か私自身は、冷めてたと言ってはおかしいけど、ちょっと違うんじゃないのというようなところでは見てましたね。
吉川 「兄がいない」と指摘しなければ、読者は気づかなかったでしょうからね。
平井 そうですよ。本当は言わんでもいいことです。だから、岡井さんあたりに、嘘つき子供のごっこ遊びだなんて揶揄されたんですよね。
吉川 杉村昭代さんも、普段の自分と異なるものに短歌の中ではなれる、ということを書いていました。
平井 そうです。あの人もちょっと幼かったですね。私は風にでも、星にでも、何でもなれるといった、それは私論とはまるきり関係ないことです。それはもう詩の常識であってね、そんなことは私論じゃないですもの。
吉川 ただ、やっぱり当時の地方では、女性に対する束縛は強かったんでしょうね。だから、杉村さんが、短歌の中で虚構の自分を生きたいと願ったのは、理解できる気がする。
平井 そうですね、まだね。
吉川 まあ文学的には初歩的な話かもしれないですけども。戦死した兄たちというのは、虚構とはちょっと違うような感じがします。
平井 小瀬さんは、分類癖があるんですよ。水質学者でしたからね。だから分析するのがものすごく好きなんです。あの人が言いたかったのは、表に書いて四つに分けて、事実を写実的技法でやってるのが一般の短歌だとすると、その事実を象徴的な技法でやったのは岡井さんだというんです。虚構を象徴的な技法でやったのが塚本さん。それに対して、この中にぽっかりとあいたピースが一つあって、虚構を写実的技法でやるということが残ってたというんですね。それを初めてやったのが平井だというんですよ。わからんでもないですけど、これは。
吉川 まあ確かにわからないでもないけど。
平井 わからんでもないですけど、ここまで整理されると、ちょっと違うんじゃないかと思うんですけどね。
吉川 割り切りすぎてる気はしますね。
平井 割り切りすぎてるでしょ。最初に兄がいないことに驚いたと言ったのは『假説』の平光善久さんで、これは『顔をあげる』の批評会のときに初めて言ったんです。戦死した兄がいるとばかり思ってたけどいなかった。これは短歌にとっては大事件だというようなことを言ったんですね。私はそんなこと意識して作ってなかったんですけど、ロマネスクな内容を写実的に歌ったという弱みがあるんですかねというようなことを言ったんです。劇的な内容を写実的な技法で表現した、ということで、ちょっとタブーを犯したかなという意識はあったんです。
 だけど、兄というのを私は別に虚構したとは思ってないです。岡井さんが書いてたんですけど、平井は戦死した兄を虚構したんじゃなくて、戦死した兄を持つ弟を虚構したんだ、と。これだとわかるんです。戦死した兄を虚構するのは、これは他者、対象の虚構ですね。でも、戦死した兄を持つ弟というのは、主体、自分ですものね。他者を虚構するのとは、ちょっと違うことなんです。戦死した兄を持つ弟を虚構したと言われると、思い当たる点はあるんですよ。だから、私はそれを今でも引きずって歌にしてるんです。戦死した兄を持つ弟という視点をずうっと今でも持ち続けてますもの。
吉川 それって普遍的なものとも言えますね。自分の上の世代が戦死して、自分たちは生き残ってしまったという罪悪感や後ろめたさ。
平井 戦死した世代、残された世代という読み方を兄、弟で読んでくれてもいいように思うんですね。
吉川 長い時間が過ぎて、今では普遍的に読まれている気がするんですけれども。
平井 その点、この間話題になった石井遼一さんの父親殺しの歌、あれとはちょっと違うんですね。
 
政治的実践・文学的実践と他者論
 
吉川 平井さんも、子供時代は、いつかは戦争に行くんだと思ってたんですか。
平井 思ってなかったですよ、当時の子供たちは。大江健三郎の小説にも出てくるけど、戦争というのは、遠くに響いている爆発音とか、遠くで鳥が落ちるとか、その程度のことだったという感じですよ。そんなに身近には感じてませんでした。
吉川 学校ではどうだったんでしょう。
平井 軍事教練とかはやらなかったです。もうちょっと下の世代だから、私は。
吉川 うちの父親は教科書に墨を塗った世代でしたね。
平井 墨は塗りましたよ、私たちも。
吉川 あれがすごい衝撃だったと言ってました。今まで教えられたことは何だったんだと思ったらしい。
平井 墨塗って隠せるもんじゃないですものね。
吉川 何かそこで信じられなくなったという。
平井 大人を見る目というか、何だ、こんなことだったのかというのはありましたよ、確かに。
吉川 それってすごく大きいのかもしれませんね、人生において。
平井 何か大人に対する幻滅感みたいなものはありました。
吉川 もうちょっと年齢が上だったら、戦争に敗けた意味がわかるんでしょうけれど。
平井 そうです。そこがわからない世代なんです。だから、これはいみじくも吉川さんがこの間言ってくれたんだな。「ある意味で、平井さんは永遠に子どもなんです。だから、「戦死者」という言葉で割り切らない。子どもの目から見ているので、何か分からないものが帰ってきたという不気味なイメージをずっと手放さないで詠ってきた。だから、多義的であろうとする理由はすごく分かると思う」(『時代の危機と向き合う短歌』)。本当にね、戦争という得体の知れない怖いものという、そんな感じでしたよ。戦争の是非とか善悪、こういうことはやっぱり知識として後から補充されたものだと思います。
吉川 ある意味で、当時の学生歌人は、みんな理論化していくわけでしょ。しかし平井さんは、あえて理論化しないで、戦争の得体の知れなさにこだわり続けた感じがします。
平井 そうそう。それに対するアンチテーゼみたいなもので。
吉川 岸上大作さんに対する反発はあったんですか。
平井 いや、岸上に対する私の文章「明るさについて」は、反発じゃないですよ。彼の負っていた痛みに、彼の死に私は無関心であるということを手だてとして、彼の痛みに加わりたいというようなことを書いてますね。
吉川 微妙な言い方ですよね。
平井 微妙な言い方ですよ。神戸の現代短歌シンポジウムのときに、平井弘が、清原や水落博、藤田武を相手にして、分科会でこんなことを言っていたと冨士田さんが書いているんです。「いわば無関心の自覚という形での状況への参加という手だてをあなたたちは認めますか」と聞いていたと書き留めてくれたんです。無関心の自覚、無関心だということを自覚するという形であなたたちのいる状況へ参加するという、そういう手だてをあなたたちは認めてくれますかということをね。冨士田さんさすがに記録魔なんですよね。私自身あまりはっきり記憶してないことを書き留めてくれてるんです。
 この当時も政治的実践と文学的実践ということは分科会で話題になったんですよ。安保の改定を引きずってたでしょ。今と状況がよく似ているんです。吉川さんが今まさに政治的実践と文学的実践で引き裂かれているような悩みはね、その当時、私たちも持ってました。そういう状況に参加しなきゃならんことは私もよくわかってるんだけど、ただ私は無関心なんです。だけど、無関心でいるだけじゃなくて、その無関心である自分を自覚するという手だてであなたたちに連帯することを許してくれますか、という質問をしたらしいんですね。
吉川 僕は反原発のデモに行ったりしますが、皆が参加しなくちゃいけないとは思わないんです。あくまでも個人の営為ですから。他者と連帯しようとか、そういうことはあんまり考えないですね。だから、平井さんの他者の論がやっぱりおもしろいんです。
平井 他者論ですか。あれもそんな難しいことじゃなくて、単純に書いたんですよ。井上正一さんの歌と清原日出夫さんの歌を例に挙げてるんですけど。「他者を巡る試論的展望」という題で、『短歌』の昭和三十七年八月号に載ってます。この中で他者論として谷川俊太郎の詩の一節を取り上げてるんです。「他人の家にも猫の墓がある。他人の家の台所にも出刃ぼうちょうがある」。他者ということに対してまずこれを最初に置いておきたいと書いている。他人っていうのはそういうもんじゃないか、他人の中にも自分と同じような利己性を見るということを基本に置かないと連帯も何もないんじゃないかということを言いたかったんですよ。
 短歌というのは、やっぱり一人称の詩型だから、相手を見るときにどうしても自分の投影になっちゃうんですね。どうしてもその相手は他者としての性格をなくしちゃってるんですよ。だから、私はそれを「対者」という言葉で書いたんです。対者は詠えるけど、他者は詠えてないんじゃないの、ということを疑問に思ったんです。
 井上正一さんは「自らの無惨を戦争に寄せていうニコヨンたちよ貧しき語彙に」とか「汝とわれとをつなぎつつ明日の日本へいきいきと伸びてゆく思想あり」というような歌を作ってるんですけど、これなんか他人を全く捉えてないんじゃないかと思ったんですね。それに比べて、井上さんの角川賞の受賞作に「吹く風の中父は何ききとめてゐるならむわれには草が鳴りゐる」とか「喀血終へし父へやさしく頷きてゐる妹をおどろきて見つ」というような歌があるんです。ここに捉えられているのは他人であり、他者というものの復活というか、驚きの目があるように思ったんですね。
 清原さんの歌は皆さんよくご存じだから、こちらの方がわかりやすいと思うんですけど、「従きて来る警官を罵りつづく一人その単純に疲れて歩む」などの歌には、他人に対する疲れとか他人に対するあきらめみたいなものが出ている。「不意に優しく警官がビラを求め来ぬその白き手袋をはめし大き掌」は有名な歌ですが、警官の中に他者を見てるんですよ、明らかにね。あの新鮮さがなくなってるんじゃないかということを言っているんです。
 短歌の宿命なんだろうけれども、どうしても相手を分解してしまって、自分の意識の投影としか見てない歌が多いんじゃないかということを言いたかっただけなんですね。
吉川 政治運動もそうなりやすいところがあって、典型的な被害者をこっちで見つけてきて、それに自己を代弁させるという形になりやすい。それは他者を見ているのではなくて、自分の分身を見ているだけなのではないか。平井さんの問いかけはそれを批判しているんだと理解しています。
平井 政治運動は、明らかに相手、敵というのが対者としてはっきりしてるときは盛り上がるんですよ。それが曖昧になってしまうと下火になっちゃうんですね。
吉川 理論武装という言葉があるじゃないですか。理論化することによって連帯できると夢見て、同じ論理によって相手を説得して連帯させる。けれども、平井さんの歌や文章って論理化じゃないですものね。
平井 そういうものじゃない。そもそもそういう論理的なとか思考的な人間じゃなくてね、直感的な、情緒的な人間なんですよ。だから、私の文章というのは長いものは書けないし、もう本当に直感で情緒的に書いた文章なんです。
吉川 戦争に対しても、戦争というのを論理化してしまっては何かが抜け落ちてしまうという、そういう意識がすごく強いですよね。
(次号へつづく)

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