塔アーカイブ

2021年9月号

塔800号記念座談会

そもそも歌集ってどう読んでる?

大松達知(コスモス)・河野こうの美砂子・濱松哲朗・川本千栄(司会)

2021年5月4日 Zoomにて開催(文字起こし:干田智子)

あなたは一冊の歌集をどう読んでいますか。
楽しんでいますか。
あなたにとっていい歌集とはどのような歌集ですか。
4人の歌人が、最近の歌集に即し、読みの方法について思う存分語りました。

取り上げる歌集は…

 小林真代『ターフ』          河野美砂子 推薦
 大口玲子『自由』           大松達知  推薦
 三枝浩樹『黄昏クレプスキュール』        濱松哲朗  推薦
 笠木 拓『はるかカーテンコールまで』 川本千栄  推薦

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●小林真代『ターフ』

◆一首で読む、歌集で読む
河野 一首で読む時と歌集全体で読む時では、歌集にもよるんですが、違いがすごくある、読みが変わってくることを実感したので、それが話題にできたらと、この歌集を選んだんです。
 全体に明るい、複雑な明るさ、もう一つ感じたのは、福島のいわきの方なんですが、生まれたのは別の場所なのね。結婚して子供が生まれて、家族がおられて、福島という風土への愛がすごくあると思いました。
 明るいけれども葛藤がある、ただの明るさでもないし、ただの暗さでもない。複雑な葛藤が飾らない言葉で、率直に、その辺がいいと思いました。
 あと現場感ですね。彼女は家の修理、そういうことをやっておられる現場の話が出てくる。その辺の生き生きとした人々の現場感もいいと思いました。
川本 具体的に歌に即して言うと?
河野 「汚れたる福島を言ひしそのこゑでうつくしと言ふ欅若葉を」。いきなり質問ですが、皆さん、これは誰の発言と読まれますか。
大松 福島県外の人が原発事故の話をする。と同時にしれっと福島のいいところも言う、そういう立場の人かな。無関心さの表明のように。
濱松 私も一首単体でぱっと見せられたら外の人の意見かなと感じます。この人は「汚れたる福島」のことを言ったその声でそのまま、例えば自然や食べ物のことを美しいと言ったりするんだと、醒めた目で見ている歌に見えます。
川本 自分達で言ってるのかもしれない。一首では分からないところです。
河野 角川か何かの時評に、これは作者の怒りやと書いてあった読みもあるんです、他人がこういうふうに言うからね。 
 一首だったらそう読めるかもしれないけど、この歌集何回も読んでいくと、自分で自分が福島のことを言ってるんじゃないかという読みがだんだん出てきたんです。福島の水が汚れているという話もしていて、それでもやっぱり欅美しいねと、他人を責めるというより自分自身に問う、そういう読みが私の中では出てきたの。
 正解は分かんないよ。さっき言った葛藤、それがほかにもいっぱいあって、その葛藤も一首では出てくるのが難しい。三十一音は短くも長くもあるけど、一首だけで全てを含める歌はよっぽどでないと出てこなくて、歌集でボディとして全体を読んだときに読みが変わってきた。そこが今回考えさせられたのね。あと風土の話も出てますね。
大松 歌集では息子さんを詠んだ歌の中で挟まれているので、息子さんの発言とも考えられる。
濱松 同じ見開きに「福島の人がクラスにゐると言ふ息子よおまへも福島の人」という歌があるので、その読み方もできますね。
大松 福島から離れてる人が無神経にも「汚れたる」と言う。自分で言ってるとしたら歌としては強いかもしれないけど、ややきついかなあ。ちょっと分からないですね。
河野 分からないけど、作者自身の声と私は読みたくなってきたんです。
  
◆時間が経たないと詠めないこと
河野 もう一つ、歌集の中で読むと言えば、「生まれ来し日の子の写真一葉をリュックに入れてこの家を捨つ」。結局は戻って来られたんですが、これは避難されたときの歌で、歌集で読んでいくと、最初地震の前の歌があって、それから地震が起こったと分かる歌が幾つかあって、しばらくしてから「二〇一一年三月」っていうタイトルの一連にこの歌が出てくる。
 時間軸がおかしいと思うじゃない。でも、気がついたのは、「捨つ」というきつい言い方は、その時点ですぐには言えなかったと思うんです。しばらく経って、歌集を編集するときになるんだけど、いきなり「捨つ」とは言えなくて、いろんな具体的な何やらが落ちてきたとかいう話をした後に、ちょっと時間が経ってから2011年の3月のことを思い出してやっと「捨つ」という言葉を、家を捨てるってすごい言い方じゃない。いきなりそのときには絶対に言えなかったと思うんです。
 後になってやっとこの言葉が言える、そこにも葛藤あるよね。この一首だけでは絶対そういう読みは出てこないけど、歌集の中で編集されるとそういう読みが出てきたことに気がついたんですよ。
 その「二〇一一年三月」一連の次に「二〇一二年三月」が出てくる。気持ちは変わっているのね。その辺が歌集で読むということだなと読んだんです。
 「山法師の実があかるくてうれしくて小さき鳥たち空から降る降る」、リズムがよくて、ただ明るいばかりの歌だけど、歌集の中で読むとこの明るさが悲しい。震災の後大分経ってからの歌です。放射能が目に見えないけどどこかにあるかもしれない、そこで小鳥は何も知らなくて喜んでる。その複雑さ。明るくて小鳥が本当に生き生きとしているからこそ、余計そうじゃないことが歌集の中では読める。一首だけ見ると、ただのかわいい小鳥となるかもしれないけど。
川本 一首で読む場合と、歌集の中で読む場合と、読みが変わりますね。
河野 昔やったら名歌、立ってる歌があって、歌集があろうがなかろうが名歌として立つ。それがこの頃難しいよね、そういう歌もあると思いますが。
 今回この『ターフ』で、歌集で、ボディで読む、ということを考えさせられました。歌集で読む、は昔河野裕子さんがおっしゃってました。

◆バランスのいい歌集
濱松 私も美砂子さんと同様、明るさの中にいろいろな葛藤があるという印象を受けました。歌集を通して、明るいというかざっくばらんにいろんなものが次々と詠み込まれて登場する中にあって、山法師の歌は、歌集のタイトルにもなった「Jazz Spotターフ」に関する二つの連作や震災直後の詠んだ歌を経た上で、歌集のちょうど真ん中あたりに出てきますね。いろいろな経験を積み重ねた上で「あかるくてうれしくて」という率直な、ストレートな言葉が出てきているわけで、このかけがえなさ、この歌が歌集でここに置かれた意味合いが光っているのを感じます。
 しかもこれは「夏の声」七首の七首目、連作の最後にある。たまたま三首組の都合でこの歌の後に一首分空白があるのも良くて、その空白分だけ心の中で歌の反響を味わえるような気がして、これはまさに歌集という特殊な印刷媒体によって歌を読む時の醍醐味ですね。
 個人的には感情を直で出している歌ばかりを引いてしまったんですが、息子さんを詠んだ歌に面白いものが多い印象がありました。
 この歌だけでは息子さんか夫の方かは分かりませんが、「昼なにを食べたかきつと問ふ電話けふ不機嫌な我はうつちやる」、この「うつちやる」でまとめてしまえる相手との距離の感じがすごく良い。その前の「肉まんをあたためる昼けふ家に息子がゐること忘れてをりぬ」も好きな歌です。肉まんを蒸し器かレンジにセットし終えてから、二階の気配を察知したんでしょうね。しまった、これは私一人で食べたらまずいことになるかもしれないな、という予感の生々しさが出ていて面白いですよね。
 でも、面白い歌だけが集まっているわけではなくて、合間合間に絶妙なバランスで散りばめられている。お仕事の歌でも、人物の面白さが際立った歌が多いですが、その一方で、自分の感情に寄り添った、美砂子さんが引かれたような歌も収められていて、その辺のバランスが一冊の中できめ細やかに整えられている歌集という印象があります。
 「塔」で毎月の歌を見ていた人でも印象が変わってくる、いい歌集ではないでしょうか。

◆作者を知る
大松 私の場合、歌集を読む楽しさの一つに、その人の人となりがわかってゆくことがあります。その人の顔が見たいというか。『ターフ』からはそれが十分伝わります。作者ならではの特別なものがたくさん染み出ている。そこが強いし、読み応えがあると思いました。
 大震災を経験して、女性で内装業をやっている。そういう立場の人の歌は多くない。それも読みどころだと思う。
 歌集のおもしろさのひとつに、事実のインパクトがありますよね。テレビや雑誌からの情報ではない、歌人として縁のある人のナマの声。それが短歌として切り取られるのは心の深くに届く感じがします。それと、その人の特徴が分かる歌はいい。「帰れない生徒がゐるから帰れないたくさん米を炊いてと夫が言ふ」などです。夫が教員で、緊急事態が発生すると、妻が駆り出されて米を炊く。おにぎりを作る。そういうのはその現場にいないとわからないわけです。
 息子さんを詠んだ歌もいいですね。「どこへでもゆけるおまへをどこまでも追ひゆかむ甲状腺検査は」など。震災の被害は一時的なものではない。一生ものなんだという。それを息子さんという登場人物を通して訴えかけている、そういう事実の強さと怖さが出てます。

◆具体が抽象に転じる
川本 小林さんの強みは具体です。全ての歌が具体に即していながら、それがある時抽象に転じる。ずっと具体で行っていたのに、引き込まれるように象徴的なものになる。例えば「松林の塩害を説かれつつ昏きその松林わたしにもある」、上句の「松林」は本当の松林で、震災関係で塩害を受けている。それが、汚れて枯れ、死にそうな松林が自分の中にもある、という抽象表現に飛んでいる。
 「山法師」の歌も一首ではかわいい歌ですが、悲しい震災の歌の中にあると読み方が違ってくる。自然を喜んでいる鳥たちが哀れだし、人間にも重なって来る。一首では分からない、具体から象徴に飛ぶ感じ。具体を突き詰めていけばどこかの時点で象徴的な表現になる。最初から最後まで全部抽象だと、作者がどんな人かが掴み難い。この歌集はどちらもあり、響き合って良かったです。
河野 松林の歌、文体も、切れがずれている。「松林の塩害を説かれつつ昏き」で第三句になる。3・11って津波が広範囲で被害があったけど、福島は原発の話があって、単なる被害者というだけじゃない複雑な葛藤がある。それは、小林さん自身の葛藤でもあるし、その土地の葛藤かもしれない。彼女はもともとは明るい人やと思うから、何とか明るくしようとする、その辺の心の有り様を、歌集全体読んで感じたんです。
大松 歌集の代表歌と文句なしの秀歌とみんなの記憶に残る歌。それぞれ少しずつ違いますよね。松林の歌も山法師の歌も記憶には残りにくいかもしれない。でも、秀歌ですね。
 歌人がみんな印象的な強い歌ばかり目指すとしたら、あざとい感じは残るような気がする。時代に合うからとりあえずこの単語を入れておこうとかすると。そういう方向ではない山法師、松林の歌があるのが歌集の良さ。それを拾ってくれる読者がいるのはすごくうれしいことですよね。
河野 小林さん自身は一首残るような歌を作ろうというところから遠いスタンスで作っておられるかもしれません。
濱松 葛藤という視点でもう一度「汚れたる福島」の歌を見返すと、その葛藤度合いが分かる気がします。「汚れたる福島を言ひしそのこゑ」は福島の外からの声では必ずしもなくて、その場所にいるからこそ分かる葛藤、苦悩もある。「汚れたる」と言い切ってしまうことへの気持ちの迷いもあると思います。この言い方で本当に良いのかとずっと引きずっているように見える。この引きずった思いというのは歌集の中でじわじわと伝わってくるものだと思います。
河野 「子の部屋の裸のベッドに腰掛けて半月はあかるいはうの月」、半月は、半分明るくて半分暗いけど、自分自身に言い含めるように「明るいはうの月」と念を押している。明るい方を向いていこう、ということは暗い方を意識してるんです。

●大口玲子『自由』

◆経験を作品に構成する力
大松 大口さんはかなり極端というか、珍しい立場の人だと言えます。ご出身の東京から仙台へ、そして原発事故のあとには宮崎に移住します。そこで川内原発反対訴訟の原告になる。キリスト者で、縁のない死刑の未決囚に面会に行く。そういう立場の人の歌は他に見ません。さらに息子さんの不登校の経緯も詠まれる。そのひとつひとつが「掛け算」になっている感じがする。それは歌集の強さにほかならないでしょう。
 でも、たとえ同じ経験をしても、秀歌を作り、良い歌集に編集できるかは別の話ですよね。大口さんには事実の核心を捉える意志が感じられます。取材のために裁判を見学するとか、未決囚に会いにゆくことは文筆業の人ならあるかもしれない。しかし、大口さんには経験が先にあって、そのあとに短歌がある。行動が先にあり、結果として歌に昇華されるようなイメージです。
 事実をドラマチックに描ける手腕というか、同じ経験があってもものの見方、書き方に説得力や描写力がなければ歌としてもつまらないでしょう。だから、事実や経験でなく、大口さんならではの「作品そのもの」が迫ってくる感じがするんです。
 それに構成の力も大きいと思います。連作構成への意識が高いというか、巧みというか。ドラマチックに盛り上げて、そのあと収束させてゆく。それは学びたいです。一首ずつの歌を読んでいるんじゃなくて、「歌集全体」を読んでいる気になる。そういう歌集です。
 さらに言えば、言葉自体が大口玲子という人間を掴みに行っている気がする。言葉が上から降りてくるというか。自分がどういう人で、どういう息遣いをして、どんな匂いがしているのか。隠さず、全部さらす覚悟を感じるんです。そこが読者に迫るんじゃないでしょうか。
川本 特殊な経験をしても誰もがこう詠めるわけではない、優れた構成力がある、ということですね。
濱松 「真向かひの被告席には白椿まれに目の合ひ目をそらすなり」、裁判の歌は一つ前の歌集『ザベリオ』にも出ていて、モティーフの連続性が作者単位で見ても読み取れます。椿の喩えがこの連作の中で出てきて、赤と白の対比の中で被告、原告を対比している。過去に赤白や紅白に分かれて行われたさまざまな闘いをどこかで念頭に置きつつ持ってきているのでしょうが、だからこそ比喩の厚みが作中で生きていると感じました。
河野 「椿の夜に」の一連がすごく良かったです。大口さんの歌は、良くも悪くもメッセージ性が強いじゃない。前の歌集でも読んでいてこっちが苦しくなる時があるんです。
 大口さんってめちゃくちゃ歌うまいよね、初期から。思いのひたむきさもすばらしい。でも、何冊目かの歌集になるとあまりにもひたむき過ぎて苦しくなる時があったんです。
 今回も、死刑囚の話とかいろいろ一連があるんですが、断トツにこの「椿の夜に」がよくて。裁判の話だけど、椿が上手に添っている。事実だけ、メッセージ性だけでかーんと収めると引いてしまうんですが、椿が影になり日向になり出てきて、膨らみが出てくる、一首の中に。
 「椿落ちて踏まれたりゆふべ石段に椿の蕊も人に踏まれて」、椿だけじゃなく椿の蕊まで、もう一回言って、ここはまだ何もメッセージ性ないけど、一連で読むと象徴的にも読める。
 「「ずつと先」と九電さんが言ふ未来いかなる明度に咲かむ椿は」も九電さんが言って、そのずっと先を椿が「いかなる明度に」と持っていく行き方とかね、その詩的膨らみがよかったです。
大松 こういう連作の強さが必要な時代なんですかね。あの歌集に不登校の子の歌、未決囚の歌があったなあという思い出され方、ありますよね。それは「残念ながら」と言うべきかどうかわからないですけど。
 『ターフ』を読んだ人どうしで、山法師の歌よかったよねという会話は想像できなくて、ジャズバーの歌あったね、壁が天井が落ちる歌良かったね、とか言うことになる。
 大口さんが評価されるのは、一首一首はもちろん緊密だけど、同時に連作の強さも核に据えているからでしょう。みんなの意識のなかにすっと入ったまま残ってしまうような。一首一首の完成度とはまた違う、ドカンと音のする強さ。歌集を作る時もそういうことに気をつけると読者に訴えてゆく力が増すかもしれません。
河野 それは何を歌うかの話じゃない? 私はそれプラスいかに、どのように歌うかにも興味があるので、その辺難しいところやなと思います。

◆歌に自分を出す
川本 この歌集には3年間の歌が収められていて、1年ごとに強い連作がある。2018年は「椿の夜に」、裁判の歌で、2019年は「黒き桜」、死刑囚を訪ねた歌で、信仰の歌です。2020年は「自由」、息子さんの不登校の歌。それぞれその連作が山場になっている。
 河野裕子さんもそうでしたが、何も隠さず全部歌っている。象徴に高まっている歌もある。何かを言わずに象徴にしてるのではなく、全部をさらけ出すことによって象徴に至っている、そこは小林真代さんとも通じる。
濱松 分かります。これを書いたら身バレになる、みたいな危惧が無い。そこは読んでいてすがすがしいし、作者を信頼して読めるという意見にも繋がると思う。
 無論、何かを伏せて仮構化することは嘘つきだから信用できないという話では全く無くて、こういう形で信頼の提示ができる書き手の強さを思ってしまいますね。
 後書きに「ごく私的な体験と身の回りの事柄を書きとめた作品が中心となりました」とあるけど、身の回りの出来事の強さをいかに詠むかという、二重の強さを感じます。

◆情報を押さえて読む
大松 作者の生年や性別や居住地、それに収録歌の制作期間、収録歌数をあとがきに書いてくれると、読む側としてはすっと入り込める気がします。
河野 大口さんの最初の何冊かの歌集、後書きも何にもなかったですね。
大松 それぞれの作者にはそれぞれの考えがありますからねえ。
 近代の有名歌人の生涯は調べ上げられてますね。斎藤茂吉が好例でしょうか。良いこと悪いこと、いろいろと発掘されて、作者ならではのエピソードによって歌が膨らみを持つことはあります。斎藤家は茂吉の醜聞さえも出してはばからないようですね。
 ただ、北原(白秋)家はどちらかというと公にしたがらない。どっちが歌人としての膨らみがあるかと言うと、斎藤家でしょうね。歌にエピソードが還元していって、それを読者は楽しめます。
河野 歌集によりますね。大口さんは絶対そう。後で出てくる笠木さんとか若い人たちは言いたくないタイプ。
大松 作者と作中主体を分ける。
河野 若い人たちに今それが多い。
大松 それは考えによるかな。
河野 川本さんが挙げている歌、詞書で〈群衆は叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」〉「牢に居るイエスを訪ね十字架のイエスを殺す偽善者われは」は、この時期の大口さんの本心だろうけど、私はこの歌は「?」がつくんです。
川本 言い過ぎということですか。
河野 アリバイに見える。大口さんは昔から自分の中のマイナスの部分を見つめる歌はたくさんある。でも、「偽善者われは」まで言うと。
川本 素の、生身の自分を、手掴みで掴んだ歌を作っている作者があまりいないので、時々こういう剝き出しの歌が刺さる。露悪的かもしれないですが。
濱松 少し違う観点から言うと、この歌では『新約聖書』におけるイエスが法によって殺される過去の物語と、今、目の前にいる未決囚の、この人もそのうち法によって殺されるだろうという未来の物語とが意識において否応なくオーバーラップしていて、その中で自分の気持ちを何とか保とうとしている歌にも見えます。
 イエスの物語と目の前の事象とが、この人の中では腑に落ちた上で重なっているんだろうけれど、読者がその重なり合いの強さをうまく掴み切れない場合は往々にして出てくる。

◆一連の持つ力
大松 皆さん、歌集から歌を抽出しますよね? 僕は20~30首抽出して、プリントして保存しておくんです。それをちらちら読んだり、何かの執筆のときの検索データとして使ったりします。それを基にカルチャーセンターで話をすることもあります。
 ただ、今回の『自由』はとびとびの抽出では良さが伝わらない。だから、先日の教室では、「椿の夜に」一連28首を全部コピーしてじっくり読みました。一連の盛り上がり方やリズム感を感じるためにです。
河野 歌は、一首一首作っていくけど、一首だけを発表することは少なくて、マスになった時の力が別に働く。それを分かってもらうためにも時々一連をそのまま抽出することもあります。すると、一首一首とは変わってくるのね。
川本 大口さんの場合一首一首もいいから、一首で切り出せる歌もたくさんある。それが一連にするとまた違う。歌人によっては、一連でないと読めない場合がある。一首出てきたら何のことか分からない歌もありますね。
濱松 後で取り上げる三枝さんの歌はまさに対極ですね。一首だけで世界を完結させようとしていない。
川本 そうなんだ。「不登校は悪くないといふ物言ひに悪意はなくて慰めもなし」、これは一首で読めますね。
河野 これはどういうふうに読むんですか。
川本 最初に総合誌で読んだ時は、息子さんが不登校と知らなかったので一般論かと思ったんです。今から考えたら作者の子が不登校だから、相手は「悪くない」と善意で言ってくれる。「悪くな」くても親は苦しいので、その善意は慰めにならない。悪意の無いところに生じる残酷さ。でも相手に悪意が無いから、ありがとうとしか答えられない。
濱松 そういう言葉、ありますよね。
大松 「物言ひ」は直接個人的に言われた感じはしなかったです。マスコミも心理学者も不登校は悪くないという風潮に傾いている。でもそれはある意味、無責任でもある。

◆再起するテーマ
大松 この歌、不登校が主題の一連の中にあるわけではないんです。
川本 一つ前の章でしたね。
大松 「阿修羅」という、テーマの違う一連の最後にさりげなく置かれている。自分の息子が不登校だという主題は強烈ですから、もしそういう連作中に置かれていたら、重すぎる。
 でも、歌集を読み返すとき、そういう状況にあるということを知ってこの歌を読む。歌集を前から読んでゆくこと、再読すること、一首ごとにわけて鑑賞すること、いろんな相がありますね。
河野 一つのテーマがあったら、それをびちーっと一連にやって、それで終わりの場合があるけど、そうじゃなくて、歌集の中でまず一つのテーマの一連があって、一応それで終わって、でもまた後の一連で時々それがちらっと出てくるところが、胸に残りますよね。
濱松 作者がさまざまな物事を経由しつつ、またこのテーマに戻ってきたというのが、歌集を読むという私たちの意識の流れの中でも感じ取れますよね。
河野 同じものを歌っていても歌い方が違うとその心境の変化が分かるよね、そこでね。
川本 前の連作の時は正面切って歌えなかったのかもしれないですね。
大松 もうちょっと長いスパンで言えば、何冊も前の歌集にあったテーマの歌がふっと戻ってくることがあります。「再起する」というか。思考が深められたり、逆に軽くなって伝わりやすくなったりする、そういう複数歌集の連続性も楽しみ方の一つですね。
河野 全歌集的に読む?
濱松 分かります。作家読みとも言いましょうか。私、わりと作家単位で作品を追うタイプなので。今回も大口さんや三枝さんの歌をまとめて読んだから、読みがそっちへ引っ張られている気がする。

●三枝浩樹『黄昏クレプスキュール

◆一人の作家を全歌集的に読む
濱松 三枝浩樹さんは、まさに作家読みに向いている歌人です。たまたま昔の歌集から順に読み直しているタイミングで『黄昏クレプスキュール』が出て、続けざまに読んだのですが、作家読みが必然と思うくらいに以前からのモティーフを繰り返し取り上げるタイプの歌の作り方をされている。
 一首単独だとふっと読み飛ばしてしまうような歌でも、連作の中で、あるいは一冊、あるいは一人の作家という単位で読んだ時に、モティーフの繰り返しが意味を伴って読み手に迫ってくる。作歌行為と実人生がとても近いところにあって、両者が歌を通じて互いに接近し合っているようなタイプの歌人だと思って今回取り上げました。
 例えば「水ひびくチェンバロ 銀の愁しみを幾重にもいくえにも鎮めて鳴れり」という歌。これを見た時、瞬時に第二歌集『銀の驟雨』の「チェンバロの銀の驟雨に眼を閉ざす 樹も樹の翳も寂かなる午後」が思い出されるわけです。チェンバロや、あるいはバッハの音楽など、同じものを繰り返し自分の身に引き寄せて詠むことによって、年齢や生活環境と合わせて歌への表われ方がちょっとずつ変わっていく、その営みの積み重ねが見えてくるから面白いのではないかと。
 あるいは「むなしさってあかるさのこと ひとひらの雪が舞いくるこころの遠野」の歌。これは「鳥の歌」という連作のラストに登場する歌ですが、この連作は雨宮雅子さんの追悼の連作なんです。その一番最後に「むなしさってあかるさのこと」と、「~って」という会話体に近い口語が出てくると、この初二句は誰の発話だろうというのを考えてしまう。これはこの歌の主体が思ったことなのか、あるいはこの主体が弔い悼んだ相手が生前に「むなしさってあかるさのことよね」と口にしていたのを不意に思い出しているのか。連作の中で読まれた時と、一首が単体として抜き出された時とで印象ががらりと変わってくるのが印象的です。
 抜き出し方で変わってくるのは、歌集で何度も登場する「なまよみ」の歌も同じかなと思いますね。私が引いたのは最後の方に出てくる「山の子の父と母の血、なまよみの甲斐身の内に点れるごとし」ですが、歌集の前半に「なまよみの甲斐」という連作があって、やはりモティーフが共通している。一冊の中で読むと「なまよみの甲斐」という言葉も単に枕詞として使っているのではなく、本当に何度も引きつけて身に沁みた言葉として出てきていて、一冊の中で通底する何かになっているのが味わい深い。
 一首一首に力を込めて作るのも良いですが、一首一首に力を込めるよりも、全体としてのまとまりが生み出す雰囲気や読み手に与える印象の生成の方に三枝さんの力加減はあるように思えて、こういう書き方で連作を作る人って今は少数派であるような気がします。
 連作の作り方、物語性という観点なら福島泰樹さんも挙げられるかと思いますが、こういう力加減の妙っていうのは歌集の単位になった時の方が、雑誌連載で読んだ時より映えるんじゃないか。『時禱集』が評価されたのもそういう観点からだったのかな、と思ったりしました。
河野 この歌集の特徴として、最初の第一部は連作で、雑誌に掲載されたのがそのまま20首、まとまりのある連作が7つあって、第二部は結社誌の日常詠が多いけど、それが全体として響き合っている。
 私が挙げた歌はほとんど最初の連作からです。「〈だから〉と〈だけど〉寄せては返り水の辺のはだしのきみを波ひたしゆく」、これだけ読んだらある意味で分かりにくい。これは「十二歳の君に」という一連で、最初に短文がありますよね。その場を分かった上で読むと分かるのは、それが連作あるいは歌集での読みという話になると思う。単独でも読めなくはないけど「蠅ほどのちいさな蜂を遊ばせてはくちょうそうが微かにゆれる」、これは高橋たか子さん追悼の一連です。
 三枝さんの一冊のテーマとして、一つは、キリスト者として、もう一つは、自分が生まれて生活している甲斐という土地ですね。昔、隠れキリシタンがいた、殉教者がいるとか、甲斐とキリスト者がつながるんです。そこが一冊としての力があるのかな。
 甲斐の歌、「初めてのこころに飼いて鹿といる野の暮らし神とともにありしや」、タイトルの「初鹿野はじかの」という地名がいい。これだけで読むとどこまで読めるか分からないですが、歌集の中で読むと良かったです。

◆一首で分かる歌を
大松 僕は、後半の「沃野」に出詠した歌を集めた部分の方が好きでした。前半は、連作の中だから分かるけども、一首だけ取り出すと分からない歌が多い感じです。「コスモス」で、一首で分かるように作りなさいっ!てさんざん教わってきたこともあるかもしれません。
 連作の中であっても、一首として切り取ったときに状況や意味がわかる独立した歌にすべし、ということ、それは、自分でも大切な方向だと思っています。まあ、なるべく、できるだけ、ってことで、堅苦しいものじゃないんですけども、そういう考えから抜け出せなくて困ります。
 この歌集で言うと、前半の連作としての勢いに気圧されるというか。やっぱり短歌は一首独立だぜ、とひねくれたい気持ちがあります。ですから、前半では、「庭隅のつゆくさ程のしずけさが人の中にはないということ」が最高だなと思ってまして。
 後半なら、「家族という微視を笑えど拠るところひとつがあれば 歩いてゆける」が好きです。〈家族〉という壮大な題詠の中の一首というか。
 こうして話していると、歌集として読んだり、連作として読んだりしていても、自分には「一首」として読む傾向が強いんだなと分かってきました。その傾向の割合って人によってかなり大きく違う気もします。

◆信仰も含めてその人を読む
川本 私にとってキリスト教は「物語」です。西洋文学を通じて興味はあったけど、信仰に至ることは無かった。私の死生観は全部仏教で、キリスト教のものとは全然違います。大口さんは思想的ですが、三枝さんはすんなり宗教を語っておられる。宗教が血肉化されている印象です。だから読んだ時、宗教の持つ、歌だけでは分からない部分があるんです。
大松 作者がキリスト者であることは、予備知識としては大切な部類だと思います。人によって、作品によって宗教性の濃淡はありますけどね。横山未来子さんや、もちろん葛原妙子さん、雨宮雅子さんなど、キリスト教との近しさは、部外者からすると眩しいですし。作者と不可分な要素ですよね。
 やはり、歌集を読むということは、作品を読むと同時に「その歌人」を読んでいるんですね。やはり作者の属性は大切。キリスト者としての三枝浩樹を読んでいる。若い世代の人は、作者と作品を分けて考えることもあるようです。この場合、それがどれほど可能なのか、よくわからないです。
川本 さっきの一首で読むのと、今のお考えは矛盾しないんですか。
大松 一首読む時にも、個人的な背景をけっこう強く意識している気がします。三枝さんの歌には、そういう薫りがしてる。「もう数年会わざるままのおさの子を伴いてゆく心の広場」の、「心の広場」にはキリスト教の香りを想像する。そんな読み方をしてしまいます。
河野 歌会のときに無記名で出すと、誰の作品か分からない。その言葉、三十一音の言葉だけで評価するというのは一つのやり方だし、大事と思うけど、逆にこれが誰の作品と分かった途端によくなる歌があるんです。無記名の歌会は良し悪しと思うことが時々ある。
濱松 無記名歌会もあんまり原理主義的になるのは危険だと思います。原理原則が歌を作るスタンスにまで影響してしまって、それによって得るものも大きいとは思いますが、一方で損なってしまう何かもあるわけで。三枝さんの歌は、無記名歌会とは対極にある気がします。
大松 ご高齢になって、一生で一冊だけの歌集を出される方はおいでですよね。技術的には不十分であっても、読みどころがたくさんあって引き込まれることがある。
 それは、その人ならではの世界を歌を通じて感じ取っているからだと思うんです。言葉以上に、作品として重層的なもの、読ませるものが歌集にはある。歌集の魔力みたいな。
川本 それを極めると、人生読み、人間読みと響き合う危険性もあります。
河野 大松さんがおっしゃることはよく分かる一方で、いかに歌うか、いわゆる詩的広がりも読みたい。
濱松 私もそういう意図で、「鉄線のむらさき深き花咲きて水の季節がもうやってくる」の歌は三枝さんの技巧の歌だと思って引きました。
 これは一首単位でも映える歌ですが、「鉄線の」の「の」が良いんです。「鉄線のむらさき深き花」というまとまりで、ここの鉄線には紫の花が咲くという大きな認識を先に立たせた上で、その繰り返しが毎年起こり、自分は再びそれに出会っているのだという時間の厚みを「水の季節がもうやってくる」で表現しているわけです。
 「鉄線に」ではないんですよ。鉄線に紫の花が咲いているという発見の歌ではない、そこがこの「の」でうまく出せているんじゃないか。しびれましたね。これが三枝さんの見せる技巧なんだなと。
川本 キリストを信じている人の歌だと思うと、より透明度が増す、自然の見方に独特のものがあると思う一方で風土に密着している歌もある。そのミックス具合がこの歌集の読みどころかな。
 前半、連作でキリスト教的で、後半は生活密着型の普段詠で、風土的なものも出てくる。全体を通してクラシック音楽が流れているような静謐な感じの歌集。
大松 歌集を読むときの贅沢な要求なんですかねえ。全体としてまとまっていてほしい、作者の顔も見たい、一首一首としての秀歌もあってほしい、みたいな。
 その点、この歌集は、バランスよく、歴史性も日常性もある。映画や小説なら、さまざまなシーンの組み合わせで一編になっている。この歌集もそんな、長編みたいに起伏がありますね。でも一本筋の通った何かを感じます。
河野 同じ調子でずっと続くと、幾ら一首一首がよくても飽きてくる。時々がっちりした連作や、肩の力の抜いたのが入ったりすると読みやすい。
大松 リズムや文体をちょっとずらしてもらう、それも要求している。
河野 連作出す時に考えますよね、並べ方を。例えば、同じ句切ればかり、名詞止めばかりにしない。入り方も漢語ばかりにしないとか考えますよね。その大きいのが歌集の一連一連の並べ方かもしれません。

●笠木拓『はるかカーテンコールまで』

◆祈りの文体
川本 みんなを幸せにしたいという祈りと、でもできないという寂しさがこの歌集には多く含まれている。生まれてきたことの根源的な寂しさや無力感に触れている。つぶやくような、叶わない祈り。それがよく表れているのが文体で、特徴的。私は影響を受けています。
 「踊り場を曲がる一人の影は見えまたねってまた言えますように」。結句は散文だと甘いけど、歌だとフィットする。歌の持つ特質かな。
 「青鷺、とあなたが指してくれた日の川のひかりを覚えていたい」、自分に対する願望です。覚えてられないかも、という不安がある。
 「水差しがそこにはあって光るから小さな夜に名前を呼んで」と相手に自分の希望を託している。それも叶わないかも、と思っている寂しさを感じます。
 傾向の似た歌人もいますが、笠木さんは語彙が華やかで、読む楽しみがある。王朝和歌の影響もある。物に託さない心情を祈りの形で歌う。即物的な短歌とは違う流れを感じます。
濱松 具体的な作者情報が歌から読み取れないにせよ、読み手は作中の言葉の偏りを追うことはできる。
 「死ぬまでに看取るすべての花束でいまはあなたの手をふさぎたい」「わたしがわたしの人質だった日々のことごめんね水に棲めないつばさ」。他者に向かって言葉を投げかけようとして、それを手渡して本当にいいのかという、言葉を手放すという行為の手前にある戸惑いの地点から言葉を紡ぎ出そうとする、そのせめぎ合いが魅力かな。だから笠木さんの歌は他者に対して力を及ぼす可能性にとても敏感で、その姿勢は暴力に近づくほど表面化している気がします。
 「(ほらあれがあなたの叛旗)しののめの空をがくがく截るビルディング」、「あなたの叛旗」という決めつけを括弧書きで入れてくるのにびっくりするけど、そうした暴力的な力の差し出し方が、他の歌の「~したい」「~できますように」という祈りと響き合うことで、独特の調和や世界観を一冊の中で織り成している。
 加えて、祈りという行為が他者に及ぼす力も意識的に描いていて、内側にある感情をどう外に向けるかが、作品の大きなテーマとして見えてきます。
 そう思うと「わたしがわたしの人質だった」の歌がとても重く見えてきて。自分自身を束縛してしまう思い。それがこの歌集の中で「~したい」と願う時の、言葉を他者に向けようとして押しとどめる心の動きと重なるんじゃないか。一冊の読む時の鍵として引きました。
河野 下句はどう読むの。違和感か何か。
濱松 水鳥なら水に棲めちゃうので、この「つばさ」は空を飛ぶ方の、水に降りられない鳥の翼だと思うんです。
河野 笠木さんの歌集は一見すごく魅力的なフレーズいっぱいあって好きだけど、ただ一首をどう読むのか、「?」がいっぱいついたんです。

◆章立ての持つ意味
大松 全体的に相聞の薫りが流れていますよね。架空の恋人を設定しながら自分を詠んでいるのかも。途中、具体的に金沢駅や家族が出てきます。そういう現実に軸足のある歌があるとほっとする。ある種の錘があると、それとは無関係の一首屹立系の歌もよく読めるような。
濱松 四章構成の中で、Ⅲ章は明らかに毛色が違うという印象があります。それまでは淡々と、特に誰でもない主体を通じて詠んでいたのが、主体の設定に関わる話題を差し入れてきて、意表を突かれたというか。それが作者個人のことかどうかはどうでもいいのですが、ここでこの設定を出す意味合いを考えてしまう。
河野 作者にとっては必然やったんじゃないですか。いきなりは出せへんから、第Ⅲ章にやっと出てきた。
大松 濱松さん、章立てに意味を置いて、読まれますか? 例えば、高野公彦の歌集は、平成二年、三年、四年というのが「章立て」なんですが。
濱松 気にする作者としない作者がいますね。笠木さんの場合は歌の印象が章ごとに明らかに違っていて、章ごとのまとめを意識して作っているのが分かる気がする。Ⅲ章は性に関するモティーフを散りばめつつ、「僕は性の死神でいい くり抜いた林檎の芯にしずかな疼き」という歌で終わるので、みずからを縛るものとしてのセクシュアリティから何らかの形で解放させたい、あるいはこの歌の主体をそれらから解放させた状態で歌を作りたいし読んでもらいたいという祈りの表れじゃないかと。
 歌集の作り自体をマニフェストとして捉えるのは歌にとっては幸福ではないかもしれないけど、敢えて踏まえて読むと、他の歌の主体を読み取る時の解像度がⅢ章を経ることで変わってくる。
大松 三枝さんだと発表媒体が違う、雰囲気で分けてる。
  
◆「年代」という詞書
濱松 年代順なら今回だと大口さんがそうですよね。
大松 年代で分けてる人多いかな。
濱松 年代順だと、モティーフがもう一回出てきたとか、再起してくるものに関心が向くので、章ごとに、さあここから変わるぞ、と気合いを入れて読んでいるわけでは無いですね。
川本 「年代」は大きな詞書になりませんか。2020年の章を作ったら、コロナの年という詞書、2011年なら、震災の年。章立ての年に起こったことが詞書になる。三枝さんはそれを外している。発表媒体によって章を変えるのは、その「年」に起こったことに自分の歌は影響されないという表明ではないですか。
濱松 三枝さんは山の印象に近いですね。いついかなる時も甲斐の山。
川本 いついかなるときもキリスト者として、という落ち着いたものもあります。笠木さんも年代という括りではないですね。
  
◆チューニングを合わせていく
大松 歌集を読み始めると、徐々に作者のリズム、文体に合ってきて、読み易くなることあります。
河野 そうそう、それを誰かが、チューニングが合ってくるって言う。
大松 ああ、「チューニング」ですね。小説でも最初の方がきつくて、だんだん慣れる。歌集もそういうことあります。ごりごりと読んでいって少しずつ入り込む。再読するともっと慣れる。
 音楽もそうじゃないですか。好きな歌手のアルバムだって、はじめての曲を聴くときはぎくしゃくする。でもなんどか聴いていくとその世界に寄り添えるみたいな。
河野 チューニングが合ってくると、最初読めなかったのがだんだん読めるようになる。
大松 アンソロジーが読みにくい理由もそこにあるかもしれません。
河野 そうそう、逆にね。
川本 体がなじむから、ある人の歌集を終えても、次の人の歌集を続けては読めない。なじんだ後再読しないと、一回読んだだけでは良さが分からない。
大松 私の場合、一回目に良いと思った歌には頭にテンをつけます。そして、もう一回読むとけっこう読み落としがあると気づく。やはり歌集全体を読んでから一首ずつに戻ると違います。
 ただやはり、秀歌を探しながら読んでる側面は強いですね。それを歌集全体で補強してもらっている感じ。引用できる歌と心に残る歌が重ならないこともある。その人ならではの秀歌もある。
川本 この人の特徴を書こうと思って読む「書評読み」もあるし、一首一首屹立した秀歌を探しながら読むのもあるし、連作でないとその味が出ない歌もあります。その場合、歌の順番が大事になってくる。
河野 それは作り方によります。例えば塚本邦雄はどこから読んでもいい、一首一首屹立していて。笠木さんはそのタイプ。繊細な優しさとか、いろんな心情がある、プラス言葉への愛がある。
川本 大口さんや三枝さんの連作はマスで読むタイプです。一首で詠むタイプか、連作あるいは歌集単位で読むタイプか。どの歌集も同じ読み方をするのではなくて、その歌集に、自分としてもチューニングを合わせていくのですね。

◆今、短歌というジャンルは
河野 短歌は、今かろうじてジャンルが一つになっていて、でもそろそろ無理違うかって私は思っていて、たとえばサブカルに強い人たち、あるいは古典に強い人たち、全然違うじゃない。全部のジャンルを読み解くのは大変。
大松 やはり「五七五七七」を読んでる感じ。ジャンル分けできるほど内容は多岐にわたっても、究極的には、「短歌のリズム」を読んでいる。だから辛うじて「短歌」として統一して読めるわけ。
河野 岡井さんがおられた頃まではかろうじて短歌というジャンルが崩れない感じだったけど、今はばらばらになりかけているのと違うかな。
濱松 田村元さんが以前「太郎と花子」で「歌壇におけるほとんどの賞は、「純文学」を志向していると言っていい」と、短歌の多様さを十把一絡げに読んでしまう問題について指摘していました。
河野 みんなちょっとずつ感じてるよね。
川本 私はその歌集にチューニングが合うと、自分自身のモードが変わってしまうので、ばらけていることを危機とまでは思っていません。肝心なのは、ポエジーがあるかないか。
河野 そのポエジーが何かということが、人によって違うんだよ、きっと。
濱松 感情は個人の心の奥底にあるものでありつつ、誰のものでもあり得るから、読者にとっては重ねやすさとして、読みの鍵として機能する。この辺に笠木さんの歌の人気の秘密がありそう。
川本 笠木さんの歌に限らず、意味が明確じゃない歌でも、何の経験も感情も無しには詠えないと思う。戦争で家族を失ったことも、部屋内を歩いててつまずいたことも、経験は経験。経験で感情が動いても、言葉で伝えた時に出てくる形はそれぞれ違う。
 「私」が見える見えない等あるけど、何も無いところで言葉だけいじってる歌をいいと思えません。底に経験が、感情があるかどうか、というのは歌から判断できるんじゃないですか。
濱松 分かります。虚構か否かではなく、それが一回作者の手元で感情として肉薄したかどうかが直観できた時に、その歌をいい歌だと思う。
川本 虚構でしか歌えないこともあるけど、その底に元になる経験がある。経験をナマなまま出すのも一つのやり方だけど、一度自分の中で消化して出す時虚構の形を取る事はあるでしょう。なぜ書くのかには色々なタイプがあるけど、私は核が有るか無いかかな。
河野 まず心情があって書くということは分かるけど、それとは別に、一首書くことによって何か見つけていく、私ってこうやったんやとか。
川本 定型に引きずられて自己の深い部分が出て来る。作る方の話ですね。それが無い歌集は面白くないです。
大松 いろんな自分があって、短歌によって不思議な自分が出てくる。それは歌集を読んでいるときも同じで、合わせられたりすると楽しい。
川本 全部が全部のチューニング合うわけじゃないし、その必要も無いんじゃないですか。美砂子さんがおっしゃるように、ばらばらに分かれていても、それはそれでいいのではないか。五七五七七の三十一音でつながっている、それが短歌の最後の締めの部分でしょうか。今日はこれで終わります。ありがとうございました。

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