塔アーカイブ

2013年4月号

小石薫インタビュー
 
■ふるさと、本に学ぶ
 
村上 本日は「塔」に入会されて五十五年の小石薫さんに、いろいろとおうかがいしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。
 今、小石さんのお宅まで、地下鉄の麻布十番駅から歩いて来たんですが、ビルがまた増えたなあと思いました。東京タワーも見えにくくなってしまいましたね。この街には結婚されたときにいらしたんですか。

小石 はじめて田舎から出てきたときは、この家の向かいのお花の先生の家に来たんです。そこにお出入りの花屋さんが、父の友達だったので。私はあまり丈夫じゃないけれど、ここのお宅ならお手伝いが勤まるだろうと。自分で手紙を出して、全部決めてから父に話したんです。私ここへ行きますって。そのぐらい強行にしないと、父は離してくれなかったと思うんです。

村上 その当時のことが、小石さんの第一歌集『ひとつの声』「プロフィール」に書いてありますね。昭和二十六年に上京されて、三年後に、下村海南先生のところへ。

小石 そうです。お花の先生と海南先生のところの当時の若奥様が親戚なので、そんなご縁でうかがうことになりました。

村上 そして結婚を機に、またこの街へ…。

小石 昭和三十四年でした。東京タワーが去年建ったって姑が言ってました。お花の先生は私にそばにいてほしくて仲人したそうです。

村上 それでは、歌にもたくさん詠まれているご郷里のことからうかがわせてください。現在の茨城県鉾田市のお生まれとのことですが、お父様は、きっと可愛くて手離したくなかったんでしょうね。

小石 というよりも、その少し前に大きな病気をしたので、それが心配だったかと。

村上 九人兄弟という歌がありましたが、小石さんは何番目ですか?

小石 姉が、一、二、三…四人。で、兄が二人。妹が二人。それで何人になります?

花山 八人(笑)。

小石 じゃ、あと私ですね。

村上 どんな少女時代を送られたんでしょう。

小石 友達の家が、わりとみんな遠かったんで、よく一人で山を歩いて茸を採ったり、海を見に行ったり。あの鹿島灘ね。

花山 海も山も近いとこなんですね。

小石 海までは一・五キロぐらいかな。茨城県の海岸線を南北で分けて、真ん中から南へちょっと下がったところが鉾田です。

村上 地図で見ると、水戸から海岸線に沿って鹿島臨海鉄道が走ってますね。

小石 そう、でも昔は常磐線の石岡から鉾田まで、とことこ走るローカル線もあったんですよ。参宮線て呼んでました。廃線になっちゃったけど、マニアの間では結構穴場だったらしいです。水戸から来ればもっと早いのにって言われても、途中の霞ヶ浦を見るのが好きだったんです。桃浦のあたりが特に。

花山 参宮線って鹿島神宮への線ですか。

小石 そうです。あの電車に乗るとね、ああ家に帰ってきた、という気持になって。

村上 少女時代に戻りますが、小さい頃は元気にあちこち探検に行ってらした。

小石 はい、野の花がたくさん咲いているところや茱萸がいっぱい生っているところがあったり。姉の本にあった「高野聖」の世界ってこういうところなのかな、と思いました。

村上 文学少女だったんですね。

小石 いえ、そんなんじゃなくて、ただ戦争中で本がなくてね、読むものがなくて、手当たり次第に、祖父の法律の本まで読みましたよ。わからないところはどんどん飛ばして、姉の鷗外全集とか。国木田独歩とか。
 それとね、向かいにある親戚の家に、東京へ行ってる息子から、大きな柳行李二つにぎっしり本を入れたのが届いてたんですよ。当時はロシアの翻訳本でも憲兵にみつかったりしたら、思想がどうのとかってたいへんでした。そのうち女の子が多いわが家なら男の子ばかりの家より見つかりにくいだろうというわけで、預かって納戸に隠しておいたんです。そしたらそれを誰かが開けちゃって。

村上 どんな本が入ってましたか。

小石 『聖書』なんかも入ってましたよ、グリーンの厚い革表紙の。あとは厨川白村の『近代の恋愛観』とか河上肇全集もありました。

花山 じゃ、やっぱり危なかったんだ(笑)。

小石 『聖書』というもの知らなかったんです。でも、これ何って聞けないでしょ、内緒だから。「誰が誰の子を生めり…」とかいうところは抜かして物語のところを。それが面白かった。終戦後にその行李を返すことになったけれど、だいぶ中身が目減りしていて(笑)。私はちゃんと返しておいたんですけどね。

村上 これは以前うかがったことですけど、海の近くに菅野圭介先生〔註1〕のアトリエがあって、よく絵を見に通われたそうですね。

小石 勝下(かつおり)というところですが、祖父の実家の土地に菅野先生がアトリエを建てて住んでらしたんです。「鹿島灘は、一日に四十八回海の色が変化する」とおっしゃって。
 夏休みのある日ね、その勝下に住んでる友達に、絵を見に行こうって誘われて。男の子も女の子もわいわいと一緒に行って「おじさん絵が上手だなあ」なんて。その色がとにかくきれいなんでびっくりしました。一人でも見に行きましたよ。行くと先生もその絵を眺めていらして、振り返って、にこっとされて。

村上 海の絵ですか?

小石 ええ。それと村の風景もありました。

村上 もう一つ、小石さんの国民学校五年生のときの体験として、鉾田に駐屯されていた兵隊さんたちとの交流がありますね。『創立五〇周年記念合同歌集』にも「終戦のころ」と題して書いてらして。母屋や倉庫を兵隊さんたちの宿舎などに提供されていたんですね。

小石 関西のほうの歩兵第五十三連隊の方たちでした。鉾田基地が近かったもので、そこに落とされる爆弾の地響きが、防空壕の中にも伝わってきて怖かったですよ。戦闘機は飛び立つと片端から落とされていました。

村上 小石さんのお宅にも弾が飛んで来た。

  庭の杉座敷の鏡台貫通し転がる銃弾踏めば熱かり

小石 機銃掃射は当時は日常のことで、畑から防空壕に逃げ帰る姉が狙われたことがありました。途中で転んでしまって。その倒れたところの前後の土が抉れてましたから、転ばなければ弾に当たったはず。空襲が終わって家に入ると鏡台が粉々になっててね。畳に嵌っていた弾をうっかり踏んだけど爆発しなかった。その熱さだけ覚えてます。
 戦争も最後の頃になると兵隊さんたちはご飯のないときもあって。物をあげたりもらったりは軍規で厳しく禁じられてたけど、母はじゃがいもとかすいとんとか運んでましたね。どこの家でもそれやってたみたいでした。
 終戦後は一ヶ月ぐらいかな、兵隊さんたちは本部から命令があるまで動けない。することがなくて、草むしりや農家の手伝いなんかしてくれてたんです。村の人たちと俄か舞台を造って演芸会をしてみたりもしましたね。

村上 落語をする隊長さんがいたり、宿題を見てくださる方までいたんですね。

  宿題をして下さりし富田伍長お手玉上手くなりて帰還す

小石 なかに富田猪三夫(いさお)さんという学徒兵の方がいらしてね。戦争後も何度も実家に遊びに見えました。富田さんが亡くなったあと、奥様にお悔やみの手紙を出したら電話があって。大阪の近くに田舎があるのに買出しに行くと言って、なぜご主人が東京を通り越して茨城へ行くのか不思議だったそうです。亡くなってからご主人の日誌を見て「お宅のご両親とどんな交流があったかがわかった。ありがとうございました」って。それでぜひ泊まりに来てっておっしゃったけど、私も元気ならば、このあいだの大阪大会のときに行こうかとも思ってたんですが。

花山 残念でしたね。

小石 はい。それで、その富田さんが来たときにね「アンクル・トムズ・ケビン」を持ってたので、それ貸してって頼んだんですよ。それは子供用の「アンクルトム物語」ではないから、最後の方に奴隷解放のこととかも書いてあって、とても厚い本で、富田さんが帰るまでに半分も読めなかったの。そしたら「薫ちゃん、その本面白い? ならあげるよ」とくださったんです。で、何度も何度も読みました。ああ、世の中にはこういう世界もあるんだって。それも私の一つの開眼でしたね。

花山 当時、原作の翻訳本なんてなかなかね。

小石 こういうことがなければ、上京することもなかったかもしれません。ふるさとは大好きですけど、田舎の因習などは、正直、息苦しいと感じていました。
 
■下村海南先生、短歌との出会い
 
村上 下村海南先生〔註2〕のところでは、先生の膨大な蔵書を自由に読むことをお許しいただけたそうですね。

小石 はい。大人として固まっていく時代に海南先生と出会えたことはものすごく恵まれていたことだと思います。先生も奥様と喧嘩されるし普通の人なんだ、と思うときもありましたが、おそばにいればいるほどやっぱり普通の人ではないと思いました。でもお客様がものすごく多くて、若くなければ務まりませんでしたね。朝は六時から、夜十二時ぐらいまではざらでしたから。

花山 お幾つのときに、海南先生のところに移られたんですか?

小石 十九歳ぐらいでした。昭和二十九年に、家事のお手伝いということで。でも、電話番がたいへんで。相手の方の名前を覚えるのもね。毎日、ものすごい本数ですから。私のほかにもう一人、ご飯を作ってくれるおばちゃんがいらしたんですけどね、私がいないとき電話に出るのいやがるんですよ。私も今はこんなになっちゃったけど、その頃はまだましで、いちばん冴えてた頃ですから。

花山 えっ、そうだったの(笑)。

小石 なんとかね。当時、先生は八十何歳かでしょう。私は若いのに、何かしなければ申し訳ないという気持がいつもありました。だってね、先生は「早く寝なさいよ」とおっしゃって、ご自分は夜、原稿書くわけです。
 あるとき試しに恐る恐るお紅茶を持っていったんですよ。そしたら「まだ起きてたのか。ありがと」と美味しそうに召し上がるから、原稿書かれるときは必ず持っていくことにしたんです。それで、その紅茶の時間にね、よくわからない言葉や社会のことなど、十ぐらいずつ藁半紙に書いて持っていくと、一つ一つ丁寧に教えてくださいました。

村上 たとえば、どんなことを?

小石 読めない字とか、その意味とか。右翼と暴力団はどう違うかとか。お客様が一人も居ない時間に、先生と遠慮なくいろいろお話できるのが幸せでした。

村上 先生にとっても本当にくつろげた、いい時間だったんじゃないでしょうか。

小石 そうだったら嬉しいんですけど。それでこれは昼間、書斎の掃除をしているときに、先生の本を立ち読みしてたんですよ。で、ふっと振り返ると先生がいらして。怒られると思ったら、「本、好きか? 薫くんは」って。「はい好きです」と答えると「どれを読んでもいいけど、原稿書くつごうがあるから位置だけは動かさないでね。立ってなんか読まないで自分の部屋に持ってって読むんだよ」と。

村上 本当にお優しい方だったんですね。

小石 ええ、でも怒られるときは、「薫は居るか!」と大きな声も出されました。それでね、先生は「心の花」の会員でいらしたでしょ。そのお仲間の真鍋美恵子さん、桝富照子さんがよく連れ立ってみえてたんです。

花山 あ、桝富さん(戦前の朝鮮で農場経営や短歌活動を広くされていた)って方も。

小石 はい。それで、お帰りのとき一緒にお見送りしたときでした。先生が「普通の奥さんだが、あれですごい歌を読むんだからなあ」とおっしゃるんですよ。その言葉を聞いて、すごい歌ってなんだろう、とかだんだん思うようになって。で、書棚で「心の花」を見つけて、これだこれだと。見よう見まねで書き始めたのですが先生には言いませんでした。

花山 作ったのは知られてたんですか。

小石 奥様の話ではご存知だったようで「今はそっとしておいてやろう」とおっしゃっていたと、あとからうかがいました。正夫先生には少ししてからお話ししました。

村上 海南先生のご長男ですね。

小石 ええ、松村(正直)さんが「塔」に書いてた「高安国世の手紙」(二〇〇九年)に出て来ます。正夫先生は面白い方。でも出来たか出来たかと、まあ、うるさいんです(笑)。そしてね、「薫くん、そんなに歌が好きなんだったら友達の高安というのが京都にいて、今はドイツに行ってるんだ。帰って来たら紹介するから十首ぐらい出来たら寄越しなさい。僕が手紙を書いてあげるから」って。でも正夫先生に紹介されたら手も足も出なくなるから自分で探しますって申しあげました。どこに入ろうかと、また書棚をみると「香蘭」とか五誌ぐらいあって。で、「心の花」を読むと、なんというか様式美っていうんですか。

花山 上流の方が多いんですね。「心の花」はね。

小石 私の頭では対応できないって思ったんです。それからそこに並んでた「塔」を見たらね、すごく熱気があったのと、高度なんだけど、昔、国語の教科書で見たような歌じゃなくて、その時代をうたっているわけでしょ。そこがいいなあって思ったんです。それで高安先生宛に手紙を書きました。「私は病気をしたりして学校にあまり行ってないのだけど入会の資格はあるでしょうか」と。すぐにお返事が来て「どなたでも入れます」って。これがその葉書で。

村上 ああ、これが記念すべき。
 「塔にご入会の由歓迎いたします。どなたでもすぐ入会できます 手続はたヾ郵便局へ行って振替用紙というのを貰って(…)」。

小石 そのあとで正夫先生に「大(おお)先生の書斎に行ったら「塔」というのがあってこれがいちばん気に入ったので入りました」と報告したら、「なんだ、それが友達のところじゃないか」と、笑われて。

花山 偶然一致したわけですね。

小石 それからは根掘り葉掘り訊かなくなりました。でも、その頃の海南先生は、お体がだいぶ悪くなられてました。

花山 亡くなったのは…。

小石 昭和三十二年です。

花山 もともと高安さんとはお知り合いだったわけですよね。

小石 海南先生の六甲にあるお屋敷の、苦楽園のころからでしょう。正夫先生と高安先生は、幼稚園からの友達だったと思います。高安やす子さん(高安先生の母)と下村文さん(海南先生の妻)はPTAでご一緒だったわけですね。

■「塔」に入会、東京歌会へ

村上 「塔」に入会されたのも、その年ですね、一九五七年。その頃からの歌が「誌上歌集」で紹介されてます。誌上歌集というのは、通常号に個人の作品をまとめたもの?

花山 そうそう。まだ、歌集を出すのはたいへんな時代でしたから、作品特集みたいな感じでね。小石さんのは一九七三年六月号に「祈り」というタイトルで載ってます。私、一首目、覚えているんですよ。

  よろこびに悲しみにもろき吾となりぬ女中生活七年の間に

小石 五首載ったのが最初でした。で、この歌については永田茂さんという方が「女中」さんとあらわに言っているのはどうだろうか、という評がありますね。ただ、下村先生のお宅では、私は本当に自由にさせていただきました。ですけど、その前のお花の先生のときには、階級意識が感じられましたから、私の中には、それがどうした、という居直りがありました。永田茂さんはそれを書いたんじゃないでしょうか。私の立場を低く見るのは、自分を否定することではないかという思いがあって。

花山 この頃の傾向として、敢えて言うというところがありましたよね、一般的にも社会をうたうべきということで。塔の人の生活詠でもその辺を強く出したり。

村上 その辺というのは?

花山 階級的な立場をはっきり言うっていうか。澤辺(元一)さんの最初のころの歌も、自分が経営者でプチブルで、搾取の側の人間っていう言い方したり、立場を意識的にうたうんですね。

村上 なるほど。海南先生のところでの思い出というと、そのほかに、どんな。

小石 はい。先生は新聞を五紙ぐらい取っていらしたんですが、それを私もざっと目を通しておかないとお客様の取り次ぎができないわけです。政治家の人に今どんなことが起こっているかとか。

花山 秘書みたいですね。

小石 ある部分はそういう仕事もあったかもしれませんが、それでその新聞のここは大事だってところを、先生が朱い筆で囲うんです。それを奥様がピカピカの鋏で切りぬいて籠に溜めておかれる。それを今度は私が、逓信省時代のお古の、百ぐらいの段のある棚に入れるんです。スポーツとか時事などに分けて。切り抜きの量が多くて夜になることもありまして、先生はお手当とは別に毎月お小遣いをくださいました。「本を買いなさい」って。五百円のお札でした。ありがたかったですよ。もちろん本代にしました。

花山 海南先生が亡くなったのが昭和三十二年ですか。そのあとも小石さんは二年ぐらいいらしたわけですね。

小石 そうです。先生が亡くなったあとは奥様と二人で。そのあと結婚しました。

村上 「塔」に入会されて、高安先生に初めてお会いになったのはいつですか?

小石 一年に一度、先生が上京されて歌会をしてくださるときでした。先生が出てこられるんだから小石さんも出席できないかしらって花山さんから誘われて。子どもを連れて、東京歌会に初めて行きました。

花山 高安先生との初対面は結構遅かったわけですね。

小石 そう、だから、東京歌会の皆さんにとって、私は謎の女だったようですね(笑)。

村上 高安先生は、どんな方でしたか。

小石 貴公子然とした、お公家さんみたいでもあった。創刊時からの方たちは、先生はものすごく怖かったと言ってたけど、穏やかな感じで。京都弁が柔らかいからでしょうか。「実は、うちの娘と下村さんの宏彰くん(海南先生の孫)が結婚します」と教えてくださって。嬉しかったですね。

村上 ご縁が幾つも重なっていったんですね。それで、東京歌会へやっと出られたということですが、最初の頃は、場所とか人数とかいろいろ苦労されたと花山さんからうかがっているんですが

小石 発足して二年ぐらいしてたでしょうか、進藤多紀さんの提唱で。最初は進藤さんのお宅で、その後、人が増えてきたので、加藤和子さんのお知り合いの「カスタム」という喫茶店や近代文学館とか。

花山 永田和宏さんとは、いつ頃出会ったんでしたっけ?

小石 近代文学館でした。そのときは、子どもを三人連れてったんです。皆さんに悪いなあ、と思いながら。一番下がまだ赤ん坊でね、机の上に寝かせておいたら永田さんが気になるらしくって、風邪引くかなあとか言いながら窓を開けたり閉めたり。若い男性なのによく気がつくなあと思いました。

花山 当時、小石さんが歌会に出られないって話はよく印象に残ってるの。お姑さんとのこととか、短歌も隠すようにして作ってるってこととか、直接お話を聞いていました。

小石 まだ、私が歌を作るってことが認知されてなかった頃で、和裁と子育ての時代が重なってましたから。家族が寝てから枕元の電気スタンドの電球を明るいのに取り替えて清書したり「塔」を読んだり。それがもとで若年性白内障になって病院で怒られました。三十代でしたね。でも、そのことで、自分がやりたいのが何なのかがわかったということもあったんですよね。こんな思いまでしてやるってことは、私は短歌が好きなんだなって。

村上 ご自分の気持が確認できた。

小石 そう。それで歌会に出て、歌会というのはこんなに大事なものなんだと、よおくわかった。作り始めた最初から出られたわけではないので、作るときにどういうことが困るかっていうことを体験しているわけですから。

村上 困るというのは、歌を作る上で?

小石 そう。ある程度歌を作ってから出ると。たとえば、歌会でよく「この言葉は何に掛かるの?」とか訊かれているでしょ、文法のことで。あっ、そういう作りが歌なんだなってわかる。作歌上のことは、十何年やって初めてわかることもあるけど、一度聞くと「ああそうなんだ」って学べることもあるわけですよね。だから東京歌会に出始めた頃、ああ私は十数年も損したって思った。こういうことなら最初に聞いておけばわかったのにって。体言省略ということなどね。

村上 東京歌会は、最初何名ぐらいで発足したんですか。

花山 五、六人でしたか。しばらくして永田さんが東京の会社に勤め始めて、よく出席していました。あと辻井昌彦さんとか。

村上 だんだん増えて、会場も中央区の産業会館になったんですね。その会場の予約申し込みを、小石さんが長いことしてくださったと聞きました。ネット予約になる前まで。

小石 ちょうど二十年間でしたね。毎月の一日に会館に行ってね。

村上 何時頃から?

小石 七時頃でしたね、早いもん順でしたから。もっと早く並んでる人もいましたよ。

花山 たいへんでしたよね。なんかみんな、いつも会場は取れてるみたいな感覚でしたが。

小石 でも幸か不幸か、わが家は早寝早起きで朝早いのは苦にならないんです。おばあちゃんも早いし、夫は国鉄勤めだったしで。みなさんとても労ってくださったけど、ついでにデパートへ寄ったり、あの界隈の問屋さん街で子どもたちの着るもの買ったり、用足しもできて、むしろ嬉しかったですね。二十年もやってると一日が来ると薫は出る、と家族の頭にインプットされてましたから(笑)。

村上 よい息抜きになったということですね。

小石 でも、晩年は面白いおばあちゃんになって亡くなりましたから。知らない人はね、私とおばあちゃんが親子でお婿さんもらったと思ってた人もいたくらいで。

和裁の仕事、子どもの歌

村上 お姑さんと小石さんは結婚されてからずっと一緒に、和裁をされてたんですね。

花山 初めの頃は家を飛び出す歌ばかりでしたね。たとえば、

  束の間を心解かれし思いにて夕べの街に魚買いいる

小石 ほんとに逃げ出す歌ばかりで。たいてい姑は早くから、私は、洗濯だとか家の用事を済ませたあとで十時頃から始めました。向かい合って座ってね。姑は柄合わせのあるものや新しい裁ち下ろしたものを縫って、私は洗い張りのものとか、姑の割り振り通りにしました。このへんは昔、お店が多くて商人の街だったの。それで普通なら主婦が自分でやるようなことをできない人がたくさんいて。

村上 どの歌集にも縫い物をしているときの歌がたくさん載っていて、とても心に残っています。それでは、これから少し作品に沿ってお話をうかがわせてください。
 小石さんはいままでに四冊の歌集を出されています。まず一九八四年、四十九歳のときに第一歌集『ひとつの声』を出されてから『木枯しの陣』(一九九一年・五十六歳)、『行合坂(ゆきあいざか)』(二〇〇〇年・六十五歳)、『木の舟』(二〇〇九年・七十四歳)と上梓されています。
 『ひとつの声』から見てみます。

  縫いあげてやさしさのわれにかえるときかわるがわるに子は寄りてくる

 ちょっと切ないです。仕事しているときのお母さんには近づいちゃいけないんだ。

小石 たたかれるから。

村上 なるほど。でも、この時期にお子さんを亡くされてもいらして…。

  こての熱加わるいとまたどりゆく汝と過ごせしみじかき日日を

小石 今のお母さんみたいに、あちこち遊びに連れていってあげる、なんていうことは皆無に近かったですからね。そのことは、今になっても後悔あるのみです。私は何が大事だったんだろう…。

花山 ずうっと後の歌(『行合坂』)ですけど、こういうのがありましたね。

  エプロンの紐にかみつきまつわり来る犬ほど子らと遊びし事なし

村上 エプロンというと、この歌も。

  結ぶこと覚えたる子は縫うわれのエプロンのひもを解きては結ぶ

 お母さんの手は仕事でふさがっているから、背中で遊ぶ。どこかに触っていたいから。和裁の歌を通して、お子さんへの思いが沁みるように伝わってきます。

花山 次の歌も、とても話題になりました。

  ポテトフライ作るかたえにまつわりし声もその手もわれより去りぬ

花山 お子さんの歌は、当時とてもみんなの胸を打ってかなり強烈に「塔」で印象づけられていたと思います。次の歌は有名でした。

  子が乗りいし三輪車一つ風の中撫ずればかすかに錆のこぼるる

 永田さんもいつも「絶唱だ」と言っていて。

村上 私はこの二首(『行合坂』)が特に胸に迫りました。

  はげしかる我なりしかば病める日の子が失禁を詫びし忘れず
  縫いあげて窓は暮れたり物差をかくされし日は汝が在りしかな

小石 私はほんとに怒る人だったから。何かしてしまうと怒られる、ということが子どもの頭に沁みこんでいたんでしょうね、白血病で入院してて、もう末期のときだったのに「ごめんなさい」と言われたとき、ハンマーで頭を叩かれたようでしたよ。物差の歌は、やっぱり遊んでほしかったんだな、と。私の仕事に物差が要ること知ってましたからね。ただね、夫が子ども好きで、国鉄でしたから昼間居ることも多くて、近所の子どもたちも一緒にぞろぞろ連れて、よく公園に行ってました。

村上 小石さんは本当に外せない用事のときしか、出掛けられなかったんですね。
 一方で、最初の頃から、いわゆる社会詠といえる歌がありますよね。今あげたような歌とはまた違う、小石さんらしさを感じます。

  鉛筆に塗りつぶしゆく世界地図産業分布図は汚染分布図

小石 それはね、子どもの宿題を見てやっていてね、ああ重なっているんだなあって。子どもとそういう会話をしたわけじゃないけど、ここもそうだねえ、と感じたことで。

村上 あと、女性の立場を、かなしく思うような歌が数は少ないけどあって。

  ジーパンの中でししんと眠りいる胎児よ女に生れてくるな 

花山 この歌は、採りあげられていましたね。そういう女性の歌がけっこうあるけれど、ちょっとそれが少しマイナーなんじゃないか、なんて批評もされてて。そういう一つの構図っていうかね。それを指摘はされてましたね。

小石 私とすれば、社会詠を詠むっていう意識はどれもなかったです。

花山 小石さんの場合は、まさに実感だった。ただ、そのへんがどこまで伝わったかという。割と理屈として言ってるように思われたかもしれないけど、実際には生活の裏打ちがあって、歌わずにはいられないものがあったんだと思うんですよね。

村上 ところで、ビルの歌が第一歌集の頃からたくさんあって、このお宅の周囲でも、都市再開発が容赦なく進められていることがうかがわれます。街の変容を詠まれているんですが、そのなかに工事現場で働く人たちを観察している歌が必ずあるんですよね。

  暮れなずむ工事場を去る女らはバックミラーに寄りて髪撫ず
  おだやかにもの言う男ら鉄骨に登れば短き言葉鋭し

小石 ああ、女性だなあって思って。危険じゃない仕事には、女の人もときどき来てましてね。それだけ人手が足りなかったんでしょう。みんな地方から来た人たち。工事をしている人たちの話し言葉を聞いているとわかるんです。東京の、都市の再開発だといって発展していく陰に、これだけ地方の人たちが関わっているってことを、私は実家にいたままでしたら気づかなかったと思います。

■残したいものを、祈りの歌

村上 東京タワーの歌もどの歌集にも必ずあります。たびたび行かれたんですね。

小石 私は、別にそんなに興味があるわけではないんですが、田舎から誰か来るとね、のぼってみたいって。「なら行ってらっしゃい」とも言えないもんで一緒に。

花山 ちょうど近くに案内する場所があっていいですね。

小石 周子ちゃんたちとも遊んだし懐かしい。

花山 晋(しん)が迷子になったりしてね。

小石 晋ちゃんを確保したら、周子ちゃんがどっか行っちゃって。面白かったわね。

村上 地上から見た歌もたくさんありますがこれは街を上から眺めた歌。

  展望台の横にひとひら雲ありて街ひとつほど翳らせており

 ご自分でこのことを詠んでいきたいと思われていたテーマなどはありますか。

小石 そんなに意識して作ったという歌はあまりないんですが、ただ、死んだ子どもは形がないから、なんでもいいから形に残るものをね。うちの子たちは貧しく暮らしていたとはいっても、やっぱり将来があるし、やがて大人になったら羽ばたくだろうと思っていたので。でも死んだ子は、公園にもろくに連れてってあげられないままでしたし…。

村上 小石さんが歌を作るときに心掛けてること、大切にされてることはなんでしょうか。

小石 そうですね、たとえ知らなかったとしても、今まで誰かが詠んだ作品と似た歌を作ってしまってはいないか、は気になりますね。あとは、休まないことです。

花山 「塔」では、最初やっぱり生活詠に惹かれましたか?「心の花」よりも「塔」を選んだということで。

小石 なんか、生活に密着した部分で詠んでるなって思ってね。それで、そんなに短歌だからって改まった言葉で詠んでないでしょ。なんていうか文体そのものが違うと思いましたもの、あの時代の「心の花」とは。今は同じかもしれないけれど。

花山 一つ訊いてみたいのは、『ひとつの声』の前半の歌のうたい方、あのうたいあげるようなね、自然を詠んだ歌。あの文体はどっから来たのかなって思って。すごくあふれるようなね、きらきらしいというか。

小石 あの歌は、書きとめておかなくちゃ、と思って書いただけで。何もそう勉強したつもりもないし、歌の本なんてそんなには…。

花山 とても上手っていうか完成度があって。当時の「塔」のリアリズムの作風とも違って、あふれる抒情性があったんでこれは何かなって思ってたんですが。

小石 今までずっと歌をやってて、私の歌集を四冊とも知っている人がね、私がどれがよかったんでしょうと訊くと、圧倒的にこれ。

村上 第一歌集ですか。

小石 そう。別の方もこれは違うって。これがいちばんいいという人が多いですね。

花山 やっぱり圧倒的なものありますよね、第一歌集は。三つぐらいにうたい方が違ってるのもね。巻頭の一連が印象的です。ずっと樹の歌で。

村上 巻頭の歌が、

  風よ教えよ 遙かな梢は芽ぶきいんけやきの緑まだ見えねども

小石 それ実家のね、氏神様を祀っていた欅、神木だったんです。とても太くて、高さも三十メートルぐらいあったかなあ。きれいな姿の木でしたよ。それが戦争中、望楼から見るのに邪魔だから伐れって言われて。泣く泣く父が片側だけ伐ったら切り口からだめになってね、とても残念で。だから、残したいと思って。歌集に入れたのは、みな残したい、残したいが入っているわけなんですね。

花山 それは祈りでもあるわけですね。お子さんへのこともあるけれど。小石さんは、最初から祈りみたいなところから歌に入っていってるって気がしますね。

小石 そういうことであったと思います。その欅の周りには五十本ぐらい椎の木もあって、杉の木や竹やぶもあって森みたいでしたね。

花山 最初にそういう樹の歌を置いたっていうのが印象的な歌集で、膨らみがあって。当時、荻野由紀子さんとか加藤和子さんとか、機知、理知、クールとかが「塔」の特徴的な作風だと思われていましたけれど、それに対して小石さんというのが、対極にあるようなうたい方してると認識されてたような。このあふれるようなところというか。素朴なように言われているけれども、実際にはとても上手なんですよね。関東の、茨城の人っていう意識が、関西のほうでは強かったみたいです。

小石 こんな泥くさい人がいるっていうのは、やっぱり異端だったでしょうね。

花山 そういう意味でむしろ評価されてたっていうのが改めてわかりました。

■ビルの街、木の家

村上 ところで、第二歌集の『木枯しの陣』には、周りの開発工事がいよいよ進んで”木の家”の歌がたくさん出てきますね。

  街音はめぐりのビルにこだまして罐の底なる棲み家ぞここは

 読んで耳鳴りがしました。金属質のビル工事の音が響いて来てすごくリアルです。

  ふと弱音を吐けばすぐ来る土地買いに誰か情報を売る者がいる

小石 再開発のせいでご近所同士がよそよそしくなったり、売れたお金を巡って、兄弟がばらばらになったり。いろんなことを起こしましたね、あれは。いまも続いてますが。

花山 反対運動もやってましたよね。

村上 街の再開発の中での生き難さのようなものも、小石さんのテーマの一つ。

小石 みなさんによく言われるけれど、たまたま周りがそうだったからで。どの歌もそうなんだけど、こっちが意図的にこう詠んでいこうというのはなくって、降ってきたものを詠むだけのことでね。

村上 降ってきたといえば、窓際で本を読んでいたら、隣の工事場から砂が降ってきたり、帰宅したら家が生コンを浴びていて一生懸命洗い流した、という歌も。

花山 立ち退きを迫るいやがらせですね、地上げ屋の。日常をうたっていて、土地や時代の変貌がまざまざと分かります。どんなふうに生活や地域が壊されていったみたいなことが。すごくそういう具体が大事だって思うのよね。大きくうたうよりね。

小石 この前の歌集(『木の舟』)を出すときに花山さんがね、市井の人の目でこんなに長く同じところで詠んできた人少ないんじゃない、って言ってくださったけれど、それが私のそばにあったことだからというだけで。テーマ意識というの、それがいいことか悪いことかはわからないけれど、ありません。

花山 さっき村上さんが言ったように、工事の作業の人とか、働く人を詠んでるっていうのは、やっぱり特徴ですよね、そこへ目が行くとか心が行くっていうのは。あのたばこを分け合うっていう歌。

  陽だまりに憩う男ら一箱のたばこ分けおり籤ひくように

小石 その歌は高安先生もいいね、面白いねっておっしゃってくださいました。

花山 ああ、そうですか。普通では案外見てないのよね、人間のことをね。街が変わっていくっていう事がらだけになってしまって。

村上 街が物理的に変わっていく、ということとは違ったところで。

花山 そう、そこには必ず人間がいるっていうことよね。やっぱりテーマの一つだと思うのよね。

村上 『行合坂』から「五〇番地」に発表された歌も載せていらっしゃいます。東京タワーの歌も定点観測という感じでおりおりに。

花山 今の定点観測っていうのがぴったりですね。

村上 印象に残った歌の一つが、

  浜防風の砂山失せて荒海のかなたあれが鹿島コンビナートか

 この歌は、最初のほうにあげた「産業分布図は汚染分布図」という歌の視線に繋がる一首だと思いました。
 これは第四歌集の『木の舟』の歌ですが、

  家ひとつ浮巣のように揺らしつつクレーン車過ぐ表通りへと

 「浮巣のように」というのがビル街の中の個人住宅の在りようを言い当てていると思いました。それと戦争中などの回想の歌が多い。

小石 そうなんです。自分でびっくりしました。回想ばかり多くていいもんかしらって。

花山 それは年を重ねて来れば、そういう歌で輪郭が出てくるもので、そういう歌集があってもいいじゃないかと思いましたけどね。『木の舟』というタイトルは

  ビルの街に残る木の家昭和よりいつの日までをただよう舟か

 から取っているんですよね。ばっちりまとめた歌ですね。

村上 四冊の歌集をずうっと読んできて感じるのは、小石さんの物の見方とか、考え方とかの元になっているものは、やっぱりご郷里の風土やご家族によって培われたものが大きいのではないか、ということです。第一歌集巻頭の樹の歌の一連もそうですが、次のような歌にも、小石さんの根っこを感じます。

  安政よりの生家の梁はむき出しのままに古りたり何の木なりし

 なんというか、分厚い時間をはらんでいる感じの、ここから出発されたのだなあと。

  肩車下りてひととき歩みしが振り向けば父も兄もあらざり

 この「兄」は、満州に征かれてお骨も帰らなかったという上のお兄様ですか。

小石 そうです。出征する前の夜に肩車をしてくれて、親の言うこと聞くんだぞって。私そのときまだ入学前で、兵隊さんに行くって意味がよくわからなかったもんですから、帰ってくるとき、お饅頭と王様クレヨン買ってきてって言ったんです。そしたら、「わかった」って言ったんですけどね。帰ってこなかった。王様クレヨンというのが、当時の子どもたちの最高ブランドのものだったんです。

■自由な空気の「塔」、六十周年へ

村上 まだまだ歌の話を続けたいのですが、そろそろこれからのこともうかがいたいと思います。「塔」での五十五年を振り返られて思うことというとなんでしょう。

小石 私は、高安先生がいらっしゃった時代の全国大会には一度も出られなかったんです。心残りといえば、それが一つそうですね。

花山 初めて参加された大会はどこの。

小石 浜名湖の近くの弁天島でした。特に、心に残った大会というと、鳥羽での大会です。

村上 「塔短歌会年表」(二〇〇四年四月号)で見ますと一九八八年八月二七〜二九日…あ、この頃の大会は二泊三日だったんですね。

小石 私は後の二日だけ参加したんですが、鳥羽では田中(栄)さんや澤辺さんと、心ゆくまでお話できて、とても嬉しかったことを覚えています。
 あと忘れられないのは、歌のことではないんですが、河野裕子さんと初めてお会いしたのはいつだったか…。結婚なさって菊名にいらっしゃった頃に淳さんが生まれたわけですが、ときどき電話がかかってきたんです。赤ちゃんの下痢が止まらないとか熱があるとか。あのとき私はちゃんと答えられたんだったか。お母さんの不安をどれだけのぞいてあげられたか、ただ心配したことしか覚えてないんです。うちに三人も子どもがいたので、何かましな答えをほしかったでしょうに。申し訳なかったと、今でもときどき思い出すんです。

花山 返事の内容より、小石さんのきっぱりした話し方とか声を聞いて、きっと心強かったと思いますよ。

村上 四十年ぐらい前の思い出ですね。

花山 その頃からみると「塔」はだいぶいろいろ変わったとは思うんだけど、ときどき電話なんかでお話をすると、小石さん「塔」についていろいろと励ましの言葉とかも言ってくださって。「五〇番地」にも参加されていて、長年「塔」の歴史も見てきているから、「塔」はこんな結社だからずっといた、みたいな気持ってあるかな、と。

小石 それは、やっぱり離れたくない人がいっぱいいましたしね。それがいちばんかな。諏訪雅子さんや古賀泰子さんにもお世話になりました。先輩方はみなさん優れたいい方ばかりで、そういう方たちに私は大事にしていただいたという思いがあります。「五〇番地」の方たち、長野の清原日出夫さんやお仲間の方たちも、ほんとにいい方たちで。こういう(インタビューの)企画をしてくださったのがどなたかわかりませんが、みなさんに「どうもありがとう」って言える機会をくださって、ほんとにそれは嬉しいです。ときどき「小石さんみたいに、肉親とべったりくっついている人はいない」みたいに言う方がいるけど、私は肉親だから、他人の方だからという区別が、ほんと言うとないんです。

花山 たしかにそういうこと言われていたのよね。小石さんは、血族を大事にするとかね。でも、他人に本当に、「塔」の人たちみんなにも、小石さん、結構熱いんですよ。若い人たちのこともいつも応援していたし。

小石 みなさん、それぞれかけがえのない方々です。特に進藤さんとは姉妹みたいなおつきあいで今日まで来ちゃいましたでしょ。昔、六月号と十二月号に「作品特集」というのがあって、下手でも上手でもいいから二人で必ず出しましょうって。進藤さんはいつも早くて「もう出しちゃった」って言う。私はぎりぎり。それで「塔」に出たあとで、お互いに不備な点が目につくわけですよ。「進藤さん、もっとちゃんと見てから出すといいのに」って私が言うと、進藤さんは「小石さん、もっと早くから始めていればこんなじゃなかったのに」なんて。よそ行きの気持で言うってことなかったですね。いつも思ったままをね。

村上 切磋琢磨ですね、まさに。

小石 そう。彼女は美人だし若いから二つ三つお姉さんだとは思ってたけれど、私も進藤さんも亥年で、実は一回りも違ってたの。あとで今までの失礼を謝ったんですけど「そんなことないわよ」って笑ってました。
 歌で関わった人たちは、どの人とも深いところで繋がっていると思います。そういう友達を持てたこと、一生のおつきあいをしていただける友人が何人もできたことは本当にありがたくて。生まれ変わってもまたこの方たちを友達にしたいし、海南先生も高安先生も、もう一度私の先達であってほしいと思います。

村上 「塔」の会員も千人を超えました。みなさんに伝えたいことというとなんでしょう。

小石 高安先生がいらっしゃった頃から、会員はみんな平等な立場でものが言えました。歌会でも好きな席に座ったり、のびのびと。私は「塔」しか知らないので、それが当たり前だと思っていたんですが、そういう結社ばかりではないようだということを、後から知りました。これから「塔」でも世代交代が進んでいくと思いますが、この「塔」の自由な空気は、ずっと残っていってほしいです。

村上 「塔」の六十周年がもうすぐです。

小石 六十周年ね。そのときを見られたら、うんと幸せです。でも、今度こんな病気もらっちゃいましたしね。でも、あまりマイナーな考え方をしないで一生懸命リハビリもしてますし、少々歩きにくかったりしても、それまで生きられたらなあ、と切実に思ってます。

村上 本日は長時間にわたり、どうもありがとうございました。
         (二〇一二・一一・一四)

          *

〔註1〕 菅野圭介(一九〇九〜六三)東京
生。画家。三六年に渡仏しフランドランに師事。帰国後、独立美術協会展に滞欧作品を出品し脚光を浴びる。四五年より四年間、茨城県鉾田市勝下にて制作活動。

〔註2〕 下村海南(一八七五〜一九五七)和歌山生。官僚。ジャーナリスト。逓信省入省後、台湾総督府民政長官。佐佐木信綱に師事。朝日新聞副社長、日本放送協会会長、四五年、国務大臣兼情報局総裁として終戦の玉音放送制作に携わり実現。エッセイ、歌集多数。

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