塔アーカイブ

2014年4月号

「塔」創刊60周年記念座談会

「編集部、この十年 ―上り坂の向こうに―」
 
司会  荻原伸

参加者 松村正直、永田淳、江戸雪、藤田千鶴、なみの亜子

 
編集体制の刷新と特集企画
 
荻原 それでは、「塔」六十周年記念号の座談会を始めます。松村さんが編集長になり、ほどなく現在の編集部になりました。「塔」の誌面づくりや運営について、そのときそのときの状況認識や課題意識を振り返りつつ、これからの「塔」の姿や課題を探っていきたいと思います。まず、ほぼ現在の編集部体制になったのが二〇〇五年一月。ここから振り返っていきますね。
 
松村 この年に選者体制が大きく変わって、四月号から真中朋久さん、吉川宏志さんが選者になりました。それで、それまで真中さん、吉川さんを中心に行っていた「塔」の編集をどうするか、という問題が出てきたんですね。あと、会員も増えてきて、それまでは個人の力で行っていた編集をどういうふうにシステム化していくか、そういう問題もありました。
 
荻原 二〇〇五年の二月号で百四十四ページ、会員数は五百七十三名と記録があるんですけど、このときでももう大分増えてきた…という感じだったんですか。
 
松村 そうですね。二〇〇〇年代はずっと増え続けてます。僕が「塔」に入ったのは一九九七年ですけど、その頃は百ページもなかったですから。だから、この二〇〇五年の段階では、既に上り坂の途中という感じ。
 
荻原 それまでは編集も家内製手工業的な感じだったんじゃないんでしょうか。
 
松村 真中さん、吉川さんがやっていた間はずっとそうですよね。要するに、真中さんと吉川さんの超人的な努力で雑誌が運営されていたわけです。
 
荻原 編集企画会議とか、拡大編集会議というのは前からあったんですか。
 
松村 あまりそういうはっきりしたシステムじゃなかったと思いますね。少なくとも編集企画会議はなかった。二〇〇四年までは選者も田中栄さん、諏訪雅子さん、古賀泰子さんと関西のメンバーだけでしたし。
 
江戸 お正月に古賀さん宅で今の拡大編集会議のような会議はしていましたね。
 
永田 再校作業と一緒にやってたんじゃないのかな。
 
荻原 個人の家に集まってやっていたということですね。それがうまく回らなくなってきたからきちっとしようという…。
 
松村 いや、編集サイドのことよりは、選者体制の変更が先にあってのことですね。
 
荻原 二〇〇五年二月号(六〇一号)から新しい編集部体制での編集ということになっているんですけども、何か特に変わったことがあったんでしょうか。
 
藤田 「若葉集」の新設は結構大変でしたよね。最初は反対があったんですよ。みんなそんなことできる?って。
 
松村 最初はみんな否定的でしたね。入会して一年未満の会員を把握して、一年経ったら案内を出したりとか、そういう管理上のことが大変だろうと。
 
藤田 そうそう。誰が受け付けて、誰が大勢の人の一年間のサイクルを管理していくの? って。私は片山普さんから引き継いで、二〇〇二年から名簿の管理の仕事をしていたんだけど、とても一人ではできないと思いました。そしたら、谷口純子さんがやろうって言ってくださって。「若葉集」の人はそれこそ初めて「塔」に詠草を送るわけだから、用紙の大きさがまちまちだったり、送り先を間違えたり。そういうことにも谷口さんはおおらかに対処してくださって、とても助かりました。
 
江戸 「若葉集」はよかったと思いますね。これを機に五年目の歌人の欄とか、十年目の歌人の欄とか考えてもいいのかも。
 
荻原 「若葉集」って「選歌後記」も倍あるじゃないですか。あれもいいですよね。
 
藤田 いまはあたりまえみたいに、スムーズに流れていますけど、最初の一年は、丸一年経ってなくても卒欄になったんですよね。最初の年って四月で区切って入会から一年未満の人を若葉集の欄にしたでしょ。すると入会して十一ヶ月の人と一ヶ月の人がいるわけです。ひと月だけ若葉集とかふた月だけ若葉集にいて卒欄の人がおられたんですね。その人たち全員に知らせて、今回こういうのが始まるから、すみませんけど、あなたは何ヶ月で卒欄になりますってお知らせをしたんです。あれはちょっと大変でしたね。説明してわかってもらうのが。だってみんな若葉集なんていうのが全然わからないし、私たちも手探りだったから。
 
荻原 新編集部体制がスタートした翌年、二〇〇六年になると、三月号で「わたしの偏愛する塔の歌人」という特集もやってます。これはどこから出てきたんですかね。この辺はもう百五十ページ台でしょ。今は結構よく「塔」一冊が分厚くて読みきれない…みたいな雰囲気があって。それで何か「偏愛する」というのが出てきたのかな、とか思ったりしたんですけど。二〇〇七年七月号、の特集が「塔ができるまで」とか。
 
松村 どちらも澤村斉美さんのアイデアですね。いい企画はだいたい澤村さん(笑)。
 
なみの これはとても好評な特集でしたね。
 
松村 会員が増えてきて、「塔」という雑誌と会員との距離が遠くなってきてるという危惧があって、だから「塔」一冊ができるまでにどれだけの人が関わっているのかを広く知ってもらいたい、そういう意図はありましたよね。規模が小さいうちは、自分たちの手作り感みたいなのがあったわけだけど、だんだんどこでどうなってるかわからないうちに、月に一回届く、という感じになってくる。
 
なみの これ、何年かに一回やったらいいんじゃない? 選者の皆さんの選歌の場面から印刷まで全部写真もらってたでしょ。距離がぐっと縮まるっていうかな。
 
藤田 そうですね。頭で「選を受けている」ってわかっていても、あんなふうに写真でひとりひとりの選者が見てくださっている、ってことがわかれば、距離は縮まりますね。もっと丁寧に書こうって思いましたよ。あと、花山さんが「コーヒーをこぼさないように」と書いておられて、日常の続きの時間の中で私たちの歌は読まれているんだなって思いましたね。それと、工場でこんなふうに刷られるんだなとか、私たちも知らなかったような場面を見ることができましたね。
 
永田 取材が大変なんだよね。印刷所とか製本所をカメラ持って回って。実家に行ってわざわざ猫を机に乗せて選歌現場を撮ったり。
 
荻原 二〇〇八年六月号の特集「新かな旧かな」も話題になりました。
 
松村 これは東京の方たちを中心にまとめていただいた特集ですね。翌年の特集「歌会千差万別」とか、何年か続けて東京の方々に頼んで企画を立ててもらってました。
 
藤田 新聞社とかにもアンケート取って、やってましたね、大々的に。面白かった。
 
荻原 新聞に載りましたよね。この年は五月号で、若手キャンペーンを打ち出してます。
 
永田 これは親父の発案。若い人を入れたいという。
 
荻原 藤原勇次さんがお勤めになっていた中村憲吉の出身校の三次高等学校からとか。
 
永田 山下洋さんの高校からも四人ぐらい、女の子が入った。最後まで一人残っていたけど、辞めちゃったのかな?大森さんに「京大短歌に誘ってみて」と言って、大森さんは誘ってくれたみたいだけど。
 
江戸 今はネットからの若い人の入会が多いですよ。
 
荻原 話を戻すと、この辺で東京と関西が企画を交代交代みたいにやろう、というふうになった経緯は何かあったんですかね。
 
永田 関西だけでは手いっぱいということですよね。煮詰まってるというのもあったかな。
 
江戸 この頃は、会議に企画を持っていかないといけないというプレッシャーが…(笑)。
 
全国大会の運営システム
 
荻原 二〇〇五年の全国大会は松島で、百三十名の参加。今から考えるとまだ少ない感じですけど。
 
永田 東北でやったのはこのときが初めてじゃないのかな。
 
藤田 とてもいい旅館でしたが、シングルがなかったんです。大部屋ばっかりで。シングルは別ホテルにして、それが旅館と落差があったりしました。大部屋も楽しくてよかったと思いますけどね。
 
荻原 合宿か(笑)、みたいな感じで。
 
江戸 大会での「歌合せ」もここが初めて。二〇〇五年って「塔」にとってすごい、キー・イヤーって言うか。チェンジした年ですね。
 
荻原 二〇〇八年の東京大会が非常に豪華で、参加者百九十八名。このときの全国大会の企画は、誌面と連動した「読みを巡って」。大島史洋さんや奥田亡羊さん、内山晶太さんに出てもらったりして。
 
松村 大会前の七月号をとりあえず読んでくるように、という感じでしたよね。大会で取り上げる歌を誌面で発表してたから。
 
永田 やったなあ。そうそう、極秘で進めた「塔短歌検定」の年や。
 
松村 この東京の大会は運営が大変だったんですね、大人数で。実行委員長の西川照代さんがすごくよくやってくれて。でも、開催地の負担を減らすためにも、ここらで運営体制を何か考えなくちゃ、という話になってきた。
 
江戸 この全国大会終わった後に、そんな話が編集部で出た覚えがある。
 
松村 結局こういう規模になってくると、東京や京都はまだしも、会員の少ないところでは大会を開けないということになってしまう。何かシステムを作って運営していかないと、という話ですね。
 
荻原 「塔」の編集部のシステムの方が構築、整備されてきて、そこから、次の年の二〇〇九年に全国大会の方も…っていうようになる足がかりの年になった感じですよね、東京の大会は。次の二〇〇九年が京都で五十五周年の大会でした。これ二百七十一人という金字塔なんです。一般公開が五百人近く来られて、トータルで七百人を超えました。鶴見俊輔さん、辻原登さん、長谷川櫂さんに来ていただいて。このとき、ホテルとは別会場のメルパルクで初日に歌会をやったんです。
 
江戸 そうそう、歌会が大事やっていう永田さんの思いを、この京都の五十五周年大会でやろうみたいなことで。
 
藤田 まず歌会をみっちりやって。歌会の会場と宿泊ホテルの移動を心配したりしましたけど、うまくいきましたよね。その夜の懇親会のテーブルも歌会別にしてよかった。
 
荻原 すごい盛り上がった懇親会だったですね。あの歌の人ね、みたいな感じで。
 
なみの 二〇〇九年の大会から、荻原さんが編集部のなかの大会委員長になってる。最初、それは大変だったと思いますが。
 
荻原 僕は二〇〇六年に「塔」に入ったのです。それで四年目にいきなり「長」なん言われても…(笑)。それが京都の五十五周年だったんです。実行委員やスタッフ、編集部のみなさんと一緒にやって、なんとかできた感じでした。そこで初めて全国大会を裏から見て、翌年からは、僕が編集部の大会担当として大会の日程などの大枠を担い、詠草受付、会計なども担当を単年度で交代するのではなく固定化しました。開催地のみなさんには現地実行委員長を中心にこまごまとした運営の準備を、僕らと連携をとりながら、行ってもらうというシステムです。当初はいろんな意味でそれはそれはアウェー状態でしたよ。
 
なみの まだ会員の顔もよく知らないし、これ誰に言えばいいんやろ…という感じ?
 
荻原 そう、だから最初松村さんによく相談していました。ある時松村さんに「伺いをたてなくても荻原さんが判断してくれたらいいですから」みたいに言ってもらって。
 
江戸 松村さんとしては、やっぱり楽になったんですか。
 
松村 編集長としては相当楽になりましたよ。二〇〇六年、七年はもう夏の間ずっと大変でしたから。早崎ふき子さん(名古屋大会)や助野起実子さん(和歌山大会)と連日のように連絡を取り合ってました。同じ人が二百ページの雑誌を作って、二百人の大会を運営するというのはやはり無理な話なので、そこはきちんと分けてよかったと思います。
 
なみの なんかでも、大会ってなんでどんどんグレード上がっていくんですか?
 
荻原 それ、言っておきたいです。二百人を超える人が宿泊し、大宴会場があって、なおかつ歌会ができる部屋があるホテルがそうそうないのです。そういう三つが揃った器が結果的に大きくて有名なホテルになっちゃう。大阪のときも、梅田の幾つかのホテルを検討はしたんです。が、土日は、ブライダルなんかに貸した方が儲かるらしくて、断られたり、歌会ができるような五〇人位が入れる部屋が複数備わってなかったり…。
 
江戸 確かに、でもいいホテルになっていくよね、どんどん。
 
荻原 そうですね。
 
なみの だから、結局その地域の実行委員の人がみんな後々疲弊するのは何でか言うたら、旅行代理店並みのことを求められてくるでしょ、これだけの数の人に。高齢化もあって、どんな対応でもいいというわけにもいかないし。どっかで大会運営と宿泊を切り離すとか、考えていかんといけないのでは。
 
松村 そのあたりをどう考えるかが今後の課題。今のワンパック方式でいつまで続けられるかという問題もある。最近、特にシングル希望が多くなってきて、部屋の確保が大変になってきてるし。
 
なみの 大会自体も、会員向けなんか、ん? どこ向けなん?てよくわからん感じのときがあったりとかね。それ全部ホテル選びとかと密接に関わってる。
 
荻原 その辺は思想を具現化するのが難しいですよね、とてもね。
 
なみの 正直に言ってしまうと、私は大会に出る楽しみが年々減ってきてる…。大きな会場でえっと誰が来てたんやったっけとか、誰ともろくにしゃべられへんとただふらふらになって帰って来て。昔はすごい濃い体験として一カ月はそのテンションで行けたぐらい楽しかったのに。自分が単に慣れたのか、事務局側になったからなのか、やっぱり規模的なものなのか、会員の声を聞いてみたい。
 
荻原 「塔」に載ってる初参加の感想を見るとすごいよかった、よかった、と。
 
江戸 初参加の人は「歌人がこれだけ集まってすごい!」という驚きはあると思う。
 
永田 圧倒されるのはあるでしょうね。なみのさんは、慣れちゃってるんですよ。
 
藤田 でも、顔と名前が一致しなくなってきたでしょ、それも大きいよね。
 
江戸 何か工夫できたらいいよね。
 
荻原 でも、工夫する余地がだんだんなくなってきてるんですよ。懇親会のあと夜泊まって、何か部屋でやるということはもうないわけだから。
 
なみの 以前は二次会で飲みながらね、若手で何か発表したりしてたね。
 
藤田 そうそう。少人数の勉強会なんかがありましたね。興味のある方はどうぞ、っていう軽い感じの。ああいうのはわりと自発的にあったように思うんですけど。今はもう二次会の会場に集めて終わりって感じだし。
 
江戸 みんな余力がない。
 
なみの もう一つ、やっぱり裕子さんの存在が大きかったんやね。裕子さんがあちこちに会員の輪をつくってくれた、いう気がして。
 
荻原 選者の皆さんには、二次会にもどーんと出て来てほしいですよね。
 
藤田 二次会もいいけど、お酒飲むより別のことがいいって思う人もいるし、もっと自由にしたいなぁって個人的には思いますね。だけど、初参加の人も多いし、自由にするっていっても、なにか「場」を用意しないと時間をもてあますってこともありますし。選者と話す時間が少しでもあればやっぱり嬉しいですね。
 
江戸 生身の人間を知ってる人に歌を見てもらうのと、全く顔も知らんという人に見てもらうのとでは全然違いますよね。
 
荻原 これ全国大会を僕が引き受けるようになったからというわけじゃないですけど、会計も独立しましたよね、芦田美香さん。それから、参加受付に梶原さい子さん。
 
江戸 表彰関係に小川和恵さんとか、いっぱいある細かな仕事を振り分けましたね。
 
藤田 岡本幸緒さんの部屋割りとか。仕事の分担をしてから、みなさんには随分長くやってもらっていますね。
 
松村 要するに今の運営システムになって、どこででも全国大会を開けるようになったわけですよ。茨城だって現地の会員は非常に少ないわけだけど、そういうシステムで運営ができているので、現地への負担は以前に比べてだいぶ減りましたね。
 
荻原 今でも結局は現地の方に細部は詰めていただかないといけないので、骨を折っていただくわけですけれど。でも大会と編集の両方やってたって相当やばいですよね。
 
江戸 大変ですよ。特集や大きな企画が入ってきたら、「大会のことまで手がまわりません」となる。そうすると仕事が本当にタイトになりますからね。
 
松村 本当は全国大会と編集部をもっと切り離してもいい。全国大会を担当するスタッフが力を蓄えて自力でやれれば、本当は一番いいですね。
 
個人からシステムへ
 
荻原 二〇〇九年は大会の運営方法が変わったり、ティグレさんに会計業務が任されたりして、五十五周年ということもあって、いろいろ変えようとした年なんですかね。
 
松村 それまでの流れを踏まえつつ、結局は「個人からシステムへ」という大きな流れですね。会計についても長年の懸案で、山下昭榮さんがずっと大変な仕事をしてくださってたんですが、その後を誰が引き継ぐかという問題も含めて、もう個人では支えきれないですから。規模にしろ、金額にしろ。
 
江戸 ホームページはこの頃リニューアルしたんでしたっけ。
 
永田 それまで真中さん個人のサーバを間借りしてたんですよね、やっぱり家内制手工業だった。この時に初めて「塔短歌会」のドメイン取った。
 
荻原 そうそう、それもあって東日本大震災のときHPで詠草受付できましたね。それから、六月号以降、背中に特集の印刷が入るようになったんですよね。そうなったときに永田さんが「俺たちのときは背表紙が作れる雑誌を作ろうというのが目標だったのに」とおっしゃってました。事務所のことも、このとき松村さんが提案してきましたよね。
 
松村 そうそう、この頃から既に事務所を開きたいという話はしてたんです。事務所を開くのと「塔」の結社賞を作るっていうのは、僕はずっと目標にしていたんですよ。
 
江戸 よかったね、両方叶って。これ、何で言い始めたんでしたか。
 
松村 もともと大きな結社で結社賞を設けてないのが「塔」ぐらいだったんで。「塔」は高安さん以来、そういうのはやらないという伝統があって。高安さんがそういう歌壇的なものを嫌がっていたので、その意志を尊重してずっとやってなかったんですね。でも、もうそろそろいいんじゃないか。世代も変わってきてるし、時代も変わってきてるので、「塔」の中で結社賞を設けて会員を押し出していくのも必要だ、というふうに変わってきたんじゃないですかね。
 
荻原 応募が多かったですよね、とてもね。
 
なみの 毎年やるってことが大切ですか?
 
永田 十年ぐらいは続けないと、やっぱり値打ちがない。
 
松村 賞がないと三十首とか作る機会もないでしょう。普段の詠草で十首出して、そのうち五首、六首載るというのと、三十首作るというのではもう全然質も違うし、エネルギーも違いますから。そういう機会は必要だと思います。歌集をまとめるときでも、月例の詠草だけ並べたのでは、なかなか厳しい。
 
荻原 二〇一一年二月に諏訪雅子さんが亡くなったということもありました。五十五周年の京都大会には車椅子でいらっしゃってましたよね。
 
松村 象徴的な意味でも、「塔」の第一世代と言うべき方々が、だんだんいなくなっていくという現実がありますね。
 
江戸 田中栄さん、諏訪雅子さん、古賀泰子さん、澤辺元一さんの四人は、私が入った頃から「塔」にとって大きな存在やったし、その一人が亡くなられたというのはショックというか、変わっていくのかなあって感じましたね。
 
永田 諏訪さんが亡くなったことが、結局はこの事務所開設の直接の引き金になったんですね。諏訪さんの大量の蔵書を「塔」で引き取るということで。
 
松村 事務所の話は前からあったんですけど、お金もかかるし難しいというので保留になっていたんです。それが、諏訪さんの蔵書をどうするのかっていう話が最終的な引き金になって事務所開設につながったわけですね。ここにある「塔」のバックナンバーや歌集は、諏訪さんの蔵書が大半です。
 
江戸 何でここにしたんですか。
 
永田 安さと場所ですね。創栄図書印刷に近い。小ぎれいだったのと。ここに決めるまでに暑い中、何軒も回ったよね。
 
荻原 今はどう活用してますか。
 
藤田 初校作業と編集企画会議、それに京都平日歌会。作業にしても歌会にしても、会場を取ったりしなくて済むのがいいですね。初校作業のときは、すぐに資料を確認できるし。
 
江戸 あと座談会とか塔短歌会賞の選考。
 
藤田 それから、『塔事典』の作業はほぼここでやりましたね。ほかには小さな勉強会をしているグループに会場費を頂いて利用してもらったりもしていますけど、もっとたくさんの人に利用してほしいですね。歌会だって、旧月も京都平日ももう人が多いから、小さな歌会や勉強会を積極的にやってもらえるようにしたいですね。
 
松村 将来的にはネット環境も整備して、そこで入会の受付とか見本誌の発送とか、詠草の受付もする。今個人の家でやっている作業を、「塔」の公の場でやっていくというふうに変えていく、そのための事務所なわけ。
 
江戸 今編集委員が家でやってる「塔」の仕事をここで手分けしてできたら、すごく楽になりますよね。
 
荻原 事務所に編集長がいるというわけじゃないですからね、勘違いしてる方いらっしゃいますよ、これ。
 
藤田 あるビルに編集部があって、そこで私らが働いてるみたいなイメージ持ってる人もありますよね。
 
松村 「角川短歌」や「短歌研究」などの商業誌の編集部みたいに思ってる人もいるわけね。でも、「塔」の編集部はそういうのとは全く違って、全部ボランティアの作業です。
 
結社が大きくなるということ
 
荻原 もう一つ新しいシステムとして、二〇〇九年から選者派遣制度も始まりました。
 
永田 これはかなり好評ですよね。
 
荻原 何から出てきたのですか、これ。
 
永田 地方の支部から声があがった。
 
江戸 他の結社でも主宰が全国各地を訪れてらっしゃるじゃないですか。あれいいよなっていう話になって、でも永田さんが回るのは不可能やから、選者がっていうことになったんじゃなかったかな。
 
松村 この制度ができるまでは支部の負担があったんですね。しかも、申請方式だったので、全ての支部に行ってたわけじゃなくて、来てほしいところが自分たちで二万円出して来てもらう。二万円を超えた分については「塔」の会計から出す、そんな感じだった。
 
永田 そうすると、小さい支部ではお金が工面できず、不公平が出るからということで、全部に行きましょうということに拡大編集会議でなった。けど、全部じゃなくて、ふだん選者がいない支部には行こうという話になったんじゃないですか。
 
江戸 結構でもこれ、会計的には大きな額ですよね。
 
荻原 二〇〇五年一月号段階で二十歌会だったのが、今三十七歌会ですからね。すごいことですよね、よく考えたら。
 
松村 今の編集体制が始まったときから、ほぼ倍増してるわけ。会員数も増えてるんですけど、それ以上に歌会が増えてる。僕は「塔」に入会したときは福島に住んでたんですが、そのとき福島や仙台には歌会がなくて、最初に行ったのは東京歌会でした。その後大分に転居してからも、九州には鹿児島歌会しかなかったわけですよ。それで京都の旧月歌会に来たりしてたぐらいです。全国各地に歌会ができたのは、本当に良かった。
 
江戸 問い合わせもね、歌会が自分の出れそうな場所であるか、というものが圧倒的に多いです。歌会に出られるかどうかは、結社を選ぶ際に大きな決め手なんですよ。
 
永田 この辺の一~二年、新入会員に毎月、「お近くの歌会にお越しください」って葉書をぼく個人で出してました。さすがに労力とコストがかかったので今は出していませんが。
 
松村 「塔」の場合、選歌と歌会が結社の二本柱ということを永田さんがずっと言ってるので、逆に言えば、そう言う以上は全国各地で歌会が行われてる状況を用意する必要があるわけです。それは僕が入会してからずっと思ってたことですね。そういう意味では、今は北海道はないですけど、ある程度は全国をカバーできるようになったわけで、ようやく全国的な結社としての責任を果たせるようになってる気がします。
 
江戸 自分の実感としてやっぱり歌会の影響が大きい。作り手としても、読み手としても。
 
藤田 みんなと会うだけでもモチベーション上がりますしね。最初は自分の歌についてどんなふうに読んでもらえるか、ということを気にしてましたが、このごろは誰がどんな批評をしているか、というところを楽しむようになりました。
 
松村 「選歌から学べ」とも言いますけど、普段まったく歌会に出ていないと、何をどう学べばいいのか、自分一人ではなかなか難しいですしね。
 
なみの でも歌会もゆるやかになると、毎回必ず自分の歌を選者にきちんと評してもらいたいみたいな、ちょっとカルチャー方式のような要望、出てきません?
 
江戸 受け身だけじゃだめね。批評するっていうのがすごい大きいと思う。
 
荻原 選者の人がいらっしゃらない歌会もあるわけで。
 
藤田 私が毎月行っている山城歌会は、ずっと選者がいなかったけど、選者派遣もなく、それでもものたりないって感じはなかったですね。最近は黒住さんが来てくださってますけどね。
 
なみの メンバーの意識がそろっていれば、それは充分成立するわけやけど。
 
江戸 歌会で他人の歌を批評するときに、「皆さんのご意見伺いたいと思います」と言う人、増えてますよね。
 
松村 その前にあなたの意見言いなさいよって、いつも思う。
 
江戸 あれカルチャーセンターっぽいですよね。気になります。
 
松村 最近の一番の問題でもあると思うんですけど、歌会でも、教わりに来ましたという態度の人が多い。でも、歌会というのは、歌の前ではみんな平等で、侃侃諤々やらないとどうしようもない。人の意見を聞くだけではなく、自分で意見を言って初めて勉強になる場ですよね。全国大会の運営においても、受け身の会員が多くなっているというのは非常に大きな問題で。
 
永田 その辺の話になると、やっぱり僕らがやってきた十年ぐらいの間で、ある種の権威付けみたいなものがすごくできている気がする。それは非常に問題だな。
 
荻原 つまり、システマティックになるがゆえにという感じですかね。
 
永田 ヒエラルキーみたいなのができてしまっている。トップに代表がいて、選者がいて、編集部があって、みたいな。そうじゃないんだろうと思うんですよね。さっき松村さんが言ったように、歌の前ではみんな平等なんですよ。なのに、誰でも「先生」と呼んでみたり。折に触れてそういうことを編集後記に書いたりするんですけども。
 
松村 非常に矛盾があるんだよね。本当は少人数でやってた頃の同人誌的な雰囲気や、みんなが対等な関係とか、温か味や親密さを残したい。でも今の人数でそれができるかというと、なかなかできなくて、運営もシステム的にやらざるを得なくなってくる。そうすると温か味もだんだん薄れてしまう。昔だったらちょっとくらい締切に遅れても大丈夫だったのが、今は一人許すととんでもないことになるんで、申し訳ないですがと言って、切り捨てなくてはいけなくなるわけです。
 
藤田 それは会費のことでもそうですよね。少々遅れててもいいよっていう感じだったのが、やっぱり大きくなってくるとみんなにいいよって言ってるわけにもいかないから。一応会費が切れてから二回、葉書でお知らせしますけど、その後何も連絡がないと自然に滞納退会みたいな形でやらざるを得ない。ちょっと冷たいなと思いながらやってます。督促の葉書も、顔も知らない者からいきなり来て、むっとされる場合もありますし。昔はそんなことはなかったんだろうなぁ。
 
江戸 事務的に、締切ってことに対して厳しくなりましたよね。
 
なみの きめ細やかに…なんてとても。
 
江戸 ビジネスライクにしたくてしてるわけではなく、そうしないと仕事がとめどもなく増えちゃう。私たちもボランティアでしているから時間も体力ももたない。だからもう断腸の思いで。
 
結社誌の編集とは
 
松村 結社誌というのは、選歌の有無を別にすれば同人誌ですから、本当は会員の人がいろいろ誌面に対して意見を言ったり、企画を出したりしていいと思うし、そうするべきだと思うんです。そうでないと、自分が関わってない雑誌に毎月お金を出して買うというだけの関係になってしまうので、それはもったいない。
 
江戸 商業雑誌の編集長の方が、「結社誌は売らなくていいからいいよね。同人誌的に作って楽しそうだね。」って言ってはった。確かにそうかもしれないけれど、作り方としては総合誌と変わらない。企画も編集部が決めて。
 
なみの 吸い上げが足りないんじゃないんですかね。こんなんしたいと思ってる人いてはったとしても、どこに言うてええのかわからへんし…というところがあったりして。
 
藤田 そういう担当があって、みんなの声とかを集める係みたいのがあればいいのかな。まぁいろんな人との話の中で、こういうことが望まれているって拾うのが編集部の仕事なのかも。難しいですけどね。
 
松村 編集部と会員との距離がすごく開いたということもありますね。例えば、僕のことを「編集長」って呼ぶ人が圧倒的に増えた。以前は編集長と呼んだり、松村編集長とメールで書いたりする人はほとんどいなかったけど、今では逆に大半の人がそうなってる。一つの役職として見られているわけ。
 
江戸 違うのになあ。一人の会員ですよね。
 
松村 だから、会員の意識が大きくがらっと変わってきたんですよ。
 
荻原 その千人の中には声を挙げたいとか思わない人もいるでしょ、変な話。歌出して、載ったか載らないか、以上、という人も。それも許容しないといけないのかな。
 
松村 そう、会員のニーズもすごく多様化してる。積極的に関わりたい人もいれば、毎月届く雑誌に自分の歌が何首載ってるかだけで十分という人もいる。だから、どこに焦点を合わせて運営すればいいのか、という問題もありますね。
 
江戸 でも、サービスを受けるお客さん的になるのはよくないと思いますね。
 
永田 「塔」という雑誌を買ってる、という感じの会員が多くなってる。
 
江戸 会員皆で運営していくものだとご存知ない方も多いと思いますよ。会員、非会員に限らず、様々な問合せや要望が電話やメールであるわけです。その時に、「こちらもボランティアでやってますんで」って言うと急に優しくなる・・・。
 
荻原 全国大会へも、選者も編集部も普通に参加費を払って参加してますからねえ(笑)。
 
藤田 私も、選者が「塔」の会費を払っているって知ったときはびっくりしましたけどね。そのあたりの意識のギャップは、非常に広がってますよね。
 
永田 すごいネガティブキャンペーンやね、この座談(笑)。
 
荻原 距離が離れた、離れた、受け身、受け身とばかり言っても。千人が千人みんないろいろ思いはあるわけで。
 
松村 僕が編集長になった当初は、それこそ会員の方からいろいろ言われて大変だったんです。それが、最近はもう誰も何も言ってこないし、運営としては楽なわけ。でも、運営が楽というのは組織としてはよくないことで、本当は編集長がアップアップなるぐらいいろいろな意見が出た方が、活発で活力があっておもしろいということなんですよね。
 
なみの 今は編集部が企業の役員会みたいなね…あとは一般社員みたいな。
 
藤田 選者には選者の、編集部員には編集部員のトクベツな時間があるように思ったりするんだけど。私も編集に関わっていないときはそんな感じがしてた。でも、みんな一日二十四時間の限られた時間の中で、日常の時間を使ってるんだよね。自分は会員のひとりだから、会費を払って選を受けていればいいっていうものではないよね。
 
永田 それは絶対に閉塞感につながってますよね。歌会にしてもそうだし。さっきの「勉強しに来てます」みたいな会員の方は完全に結社をカルチャー教室と勘違いしている。やっぱり会員の人にはもっと編集にコミットしてほしい。校正作業に出るとか、編集に注文をつけるとか。
 
江戸 そうやね。私もそれは思います。
 
永田 このことは長く話題に出てますよね。「塔」が自分たちで「作る」雑誌だっていう感覚がなくなってきてる。それはさっきから話題に出ているような、全国大会で相手の顔と名前がわからない、親密になれないとかっていうこととリンクしているんだけれど。会員数の増加とともに、それはもちろんある意味でしょうがないんだけども、もうちょっと積極的に、自分たちが作っている雑誌だ、という意識を持ってほしい。
 
江戸 自分で参加するということですよね。作っていくんだっていう前向きな参加をお願いします。
 
荻原 僕ね、今年東北集会に行かせてもらってね、すごくよかったんですよ。もちろん企画された梶原さんの連れて行ってくれたところがよかったというのもあるけど。何かそれこそ小全国大会みたいな感じで、親密度がすごくあって、歌の話もするし、全然関係ない話もするし、お酒も飲むし。こういうのを幾つかやっていけたらいいなぁと思う。
 
江戸 自然発生的にそういうふうになるっていいですよね。行かなきゃいけないとかじゃなくて、そういうふうに行こうって、東北やからというのもあるんでしょうけど。
 
永田 もうちょっと読者参加型のというか、会員参加型の企画があってもいいかも。
 
なみの 例えば担当制でも何でもいいんだけど、会員がのびのびと試行的なことをやってみる表現の場、スペースとして、そういう面白い誌面の使い方ができないかなあとか。どうしても受け身になるというのはやっぱりこしらえたものが与えられるからで、それも全部京都のここら辺で知らない間に進んでる物事だから、会員にとってみたらね。何か仕組みを作る必要があるんじゃないかなあ。どうせ私らは誌面に関われないし、と思っている人、多いと思う。
 
藤田 誌面に関わってほしいですね。ひとりでもグループでも、こういうことするからページをくださいっていうような要望が出せるようにできたらいいのかな。なんでもいいってわけじゃないけど。(笑)
 
永田 「私のペット」とか「私の何とか」というのはいっぱいが投稿あるわけじゃないですか。
 
藤田 でも、大体出してくる人は決まってる。
 
松村 難しいな。会員参加型といっても結局は編集部が企画してる話だからね。本来はまず自発的なものが先行してという話でしょ。こっちがお膳立てしてというのでは、また違うんです、本当は。
 
六十周年、その先に向けて
 
荻原 現在は六十周年記念号と六十周年の記念大会に向けての準備が進んでて、『塔事典』もすごいことになってますよね。
 
松村 六十年というのは大きな区切りだし、高安さんが亡くなってからでももう三十年になるわけです。ずっと上り調子で「塔」もやってきたわけですが、今年初めて会員が減りましたよね、四人かな。そろそろ上り調子は終わって、この後、現状維持なのか、下っていくのかわかんないですけど、一つの曲がり角に来ているのは間違いない。今後どうなっていくのかというのも大きな問題です。
 
江戸 あとわれわれ編集部の高齢化もね(笑)。
 
松村 編集長になったときのことを覚えてるんですけど、河野裕子さんに、編集長をお願いしますと言われて、「上り調子の結社でそういう役目をやれるのは嬉しい」と返事をしたんですよね。それは確かにそうで、同じことでも下り坂の組織でやるのはしんどい。上り坂の時期には新しいこともいろいろ実現できるわけだけど、これからは多分そうではなくなっていくので。
 
荻原 持続可能結社になっていかないとあきませんわな。やっぱり。今後の「塔」の、これやらなきゃみたいな課題は?
 
松村 「塔」の第一世代の方々が、諏訪さんを初めお亡くなりになっていることを、気にとめておきたい。「塔」の初期の頃のこともだんだんわからなくなってしまうので、『塔事典』といった形で結社の歴史を残していくことも、大事な仕事だと思いますね。
 
江戸 編集部に関してはやっぱり人数が少ないと思う。何かあったらすぐに身動き取れなくなるよね。ちょっとずつみんなが仕事を分担しているというようなのが理想ですよね。
 
なみの 自分がこけたら他のメンバーに回るってわかってるから、こけてられへん…。結構なストレスにさらされてます。
 
荻原 編集部を増やそう。
 
なみの どうしたらいいですか、増やすには。私らの積年の願望なんやけど実際に増えないのは何でか。結局、地理的なフットワークというか、そういうことなんですか?
 
松村 会議に出て来られるかどうかという問題がありますよね。会議に出られないと、結局ただ仕事をするだけになってしまうので、なかなかモチベーションが続かない。
 
江戸 顔を合わせないと仕事するのはしんどいよね。顔を合わせて、コミュニケーションとりながらじゃないと、ぎすぎすしちゃう。
 
なみの となると、地方の衛星局を結んでいこうみたいな発想にはならないですね。
 
江戸 理想ですが、是非、全国的に広げてほしいと思う。できんことはないと思う。
 
永田 でも、本部以外のとこで編集をやってる結社ってあるんですか?地方に仕事を分散させながらやってるとこって意味で。やっぱりどこかに一極集中しながら編集作業をするんじゃないの?
 
松村 仕事量について言えば、本来は事務的な仕事と企画を考える仕事を分けたいわけ。編集委員は誌面の企画を考えたり、「塔」の今後を考えたりして、事務的なことは編集スタッフに任せる。
 
江戸 編集スタッフって編集委員とどういう違いがあるの。
 
藤田 支援するという感じね。自分らでやっていくという感じではなくて。編集スタッフとももう少し話し合う機会とか、工夫したら仕事がスムーズにいくとかいうアイデアを出したりする場があればいいと思いますね。
 
江戸 もうちょっとこう編集委員に近いようなふうにならないのかなって思うな。
 
松村 編集スタッフは、仕事して「ありがとう」と言われる立場なわけですよ。それに対して編集委員は、仕事して「ありがとう」と言う立場だから。そこが大きく違う。要するに編集委員になったら、もう誰も「ありがとう」と言ってくれないという、そういう世界。人は増やしたいけど、編集委員になりたいという人の話も聞かないし。
 
なみの そうなん?こんなに若い人いるのに。
 
江戸 やっぱり編集委員になるには、ある程度は覚悟が要りますよね。そうするとなかなか誰でもというわけにはいかない。
 
松村 それに、休めないでしょ。今月は忙しいからとか言って、自分の担当の仕事を休むわけにいかないので。
 
なみの ボランティアなのに多大なる責任が伴うからねえ。誌面に穴あけられない。
 
松村 これから僕たちより若い人がやっていくにしても、結社で仕事をすることのメリットがどこにあるかというのはなかなか難しい問題ですね。単純に損得だけで考えると、誰もできないかもしれない。結社というのは、以前よりだいぶビジネスライクになってますけど、本当にビジネスライクに考えたら誰もできないでしょう。お金がもらえるわけじゃないし、編集委員という肩書きがあることで得られるものとかを考えても、割に合わないわけです、多分。
 
江戸 確かにしんどい事の方が多い。でもね、編集委員としていろんな業務をしながら思っていたのは、しんどくなったときにいつも、「結社って何やろう」って自分に問いかけてたんですよね、無意識に。
 
松村 そう。どこか、精神論じゃないですけど、結社愛みたいなものがないとできないことですよ。
 
江戸 私がなんでしないとあかんのかって、やっぱりそれは思いますよ。だけど、そこで結社って何やろ、「塔」って何やろ、私にとって「塔」って何やろというのを自分に問いかけて、「よし、やろう」って何かこうモチベーション上げるっていう日が、月に何日かあるんですよね。そう考えることはやっぱり自分にとってはプラスやったと思う。短歌に対しての向かい方とかね。
 
松村 自分にとってプラスっていうのは僕ももちろん思うんだけど、それは人に強制できることでもない。
 
江戸 そうなのよね。いま、簡単に自分たちで雑誌作れますものね。
 
松村 若い人がみんな同人誌とかやって、だんだん結社に入らなくなってくるのは、そういう意味ではある種の必然性があって。
 
江戸 ただ同人誌ってね、その名の通り、自分たちがわかり合える人たちが集まってやるわけでしょう。けれど、「塔」のようにこれだけ大きくなると、自分のことわかってくれない人、自分の歌を理解してくれない人の方が圧倒的に多いわけですよ。そういう場に自分が身を置くってすごい大事なことやって思うのです。編集部が孤立したり、わかってもらってないというのが逆にプラスになったりもする。
 
松村 孤立してるの?
 
なみの 寂しくなったなあ。
 
江戸 何かみんなにちょっと壁を作られてるような感じのときがありますよ。でもそれってね、結社のよさやと思う。自分をわかってくれない人の中に身を置くと成長する。
 
なみの それこそ、こんなしんどい目して家事やいろんな時間を犠牲にして、家族からはなんでそこまでせなあかんねん! 言われて、理解はどこからもないし。
 
江戸 そうそう、家族にも理解されへんよね。
 
なみの 一方で、「塔」編集委員って肩書きがあっていいですね、みたいな思われ方も。
 
江戸 自分自身も迷うときもあるし、それってとても高い壁なの。でも越えなあかんものがあるというのはすごい力が湧くのよね。だからといって、他の人に編集委員の仕事をしてくださいとも言えない。
 
なみの 心地良さを望むんであれば真逆ですもんね。自分が表現をしていく環境としては。心地いいところに身を置いていたいっていうのは悪いことではないんだから、別に。
 
永田 「心の花」の黒岩剛仁さんやったかな、大野道夫さんかどっちかが、結社というのは大変なんだけれども、ということを書いてた。けど最後には、いろんな人と触れ合って、酒を飲んでみんなとしゃべって盛り上がって…それが大事なんだということを書いてた。多分、結社の運営ってそういうことが大事なんだと思う。同人誌って結局集まるのは、同世代ばっかりじゃないですか。結社は上が九十から下は十代、いろんな価値観が衝突する場。
 
藤田 今の「塔」なら、小学生から百五歳まで。それに、ヨーロッパから南米まで。
 
江戸 自分はその中のひとりだっていう意識を時々は持ちたいですね。
 
永田 結社で出会う人って、普段の自分の生活では会えへん人のほうが圧倒的に多いわけ。その人と付き合っていくおもしろさをわからんとしょうがないのかな、というところがある。いろんな価値観の人がいろんな考え方をしてるのを見るのも楽しい。
 
江戸 歌会もそうですよね。仲の良い人とだけでやるのもそれは楽しい。けれど旧月歌会みたいにけちょんけちょんに言われるだろうなぁと思いながら、でも思い切って歌を出して、批評してもらうという勇気を持つことは大事ですよね。
 
藤田 でも時代というか、けちょんけちょんに言われることも少なくなったし、もっと歌会って怖いとこやったと思うけど。
 
江戸 最近ちょっと緩いね。
 
藤田 何かやっぱりみんな気遣ってるのか、遠慮してるのか、時間がないのか、本当に何かバトルにならないでしょう。
 
なみの やっぱり時代かなと思う。今はキツいこと言うと修復不能な感じが残って。
 
藤田 確かにね。思ったことを口にして、わかりあえなかったひとと、わかりあうようなところから離れて行ってる気がするね。
 
荻原 僕は何か結構好きですけどね、「塔」。入ったのが「塔」でよかったなって思っていて。何か…何でしょうね。
 
江戸 永田さんは締切守らへんし、ときどき「塔」のこともちゃんと考えて欲しいって思ってしまうけど、でも逆にそれが自由にさせてもらってるっていうか、びくびくしてやってないというよさはありますよね。
 
荻原 これはすごく個人的な感じなんですけど。裕子さんのいた歌会って、やっぱり緊張感がものすごくあったと思うんですよね。当時はちょっと面倒臭いなと思わなくもなかったけど。今はすごく懐かしいなあって。
 
江戸 一言一言、言葉の重さが違った。
 
なみの あれだけの人間そのものから出てくる迫力みたいなものというのは…。
 
松村 本当は、いろんな人が独立してやっていったらいいんですよ。高安さんだって「塔」を創刊したのは四十歳のときなんで、そうやって独立して自分の一家を構えてやっていくのが本来の結社だと思う。結社って主宰にみんながつながってるというのが一番ベースにある考え方で、そうでないとどんどん階層化しちゃうでしょ。会員が千人になったら、どうしても階層化する。でも、今は独立したって何のメリットもないから誰も独立しない。「塔」ができたのは、戦後の文学への志が非常に熱かった時代だから、その熱さゆえにみんな立ち上げたわけでしょう。近藤芳美だって、宮柊二だってみんなそうですけど、それが現代では難しいんだと思うな。
 
江戸 確かに増えへんよね。「塔」から枝分かれしていかへんよね。
 
松村 若い人に結社のいいところとか、結社に対する愛とか、いろいろ言ったところでなかなか伝わらない。それに、そういうことは強制できることではなくて、自分から思ってくれるのを待つしかない。
 
江戸 でも、やってみなきゃわからない。やろうよ、とりあえず。
 
松村 結社というシステム自体が、もともと近代のものだからね。これからは正直なかなか難しいかもしれないなあ。
 
江戸 自分が作りたい歌だけ作って楽しくやって、心地良いところにつながって、どうなっていくんやろう。
 
荻原 「塔」における編集部の仕事っていうのはどう考えていけばいいですかね。
 
松村 だから、常に編集部としては世代交代を考えていかなきゃいけないわけですよ。自分たちが今の活動をすることと並行して、次の世代を育てていくっていうのが大事な仕事。その点に関して言えば、この十年くらいどうだったのかというのが一番の反省点だね。
 
江戸 その仕事はしていませんね・・・。
 
藤田 うん。私たちのあと、ずんとあいて大森さんと藪内さんだからね。そこらへんは課題ですね。
 
荻原 ここまでは、坂を上っていく十年間だったわけじゃないですか。システムをつくらなきゃいけなかったし、会員も増えてきたし。そういう坂を必死に走ってきて、まあある程度来たところで初めて、ああ、下を育てなきゃいけないなっていうふうに気づき得たんじゃないのかな。
 
松村 そういう意味では、これからが大事ということでもあるわけで。六十周年という節目を越えて、さらに前進していきましょう。
 
(二〇一三年一二月二一日 於塔短歌会事務所)

ページトップへ