塔アーカイブ

2012年9月号

 
松山慎一インタビュー
 
  インタビュアー:小川和恵
  記録:大森静佳
  テープ起こし:干田智子
 
◆生い立ち、医学への道
 
小川 今日は松山さんからいろいろお話を伺えるということで、大変楽しみにして参りました。どうぞよろしくお願いします。

 まず簡単な生い立ちですけれども、大正十五年二月に京都市中京区でお生まれになられた。おじいさまが外科をされてたんですね。

松山 母方の祖父は約三年間、京都府医学校の教職にあったのち、明治三十五年ぐらいから外科病院を作りまして、それから終戦頃までずっと病院をしてたんです。そのおじいさんが、上三人が女の子で、四人目が男だったんですか。で、一番上の女の子を産婦人科の先生のとこへ、それから二番目は精神科の先生のとこへ、それから三番目の私の母を外科の先生のとこにやって、一番下の男の子を助けるように準備してたんですけど、終戦頃にその一番下の男の子が、戦病死したんです。

 そして、私の父は阪大の前身を卒業しましたんですけど、母とあまりうまくいかなくて、僕の数え十一のときに別れたんですよ。

 そうすると僕のお母さんはつまり出戻りというんですか、おじいさんの家に帰って、そして僕の大学卒業する頃までお母さんを養う形になったんですよ。

 そして、終戦頃にちょうど祖父が亡くなったんですよね。僕はようやくその頃大学卒業した頃でして、本家の方に僕のいとこが三人ほどいたんですけど、全部女の子でして、分家の僕は病院を継げないことになりました。

小川 ちょっとお話が戻りますけれども、松山さんはもう皆さんご家族お医者さんというご一家でお育ちになられたんですね。

松山 そうですね。

小川 そうすると、お医者さんになられるというのは松山さんにとっては自然なことだったんですか。

松山 自然じゃなかったと言えばなかったんですけど。というのは、中学の時分からわりと文芸のほう好きだった。

 里井陸郎さん、同志社大学の国文科の教授していらした。中世文学が主やったかな。謡曲なんかは非常に好きだった。観世流の歌い手でもあったんですけど、その方が京大出られてすぐ就職して見えて、非常に熱のこもった講義をしてくださったということが一つのあれになったと思いますけど。

 その頃は、最近の子でもないし、あんまり大したもん読んでるわけではないんですけど、芥川龍之介とか、夏目漱石とか、その程度で終わったんですけれどね。

小川 最終的に、結局医学に進むと決められたのはどういった事情なんでしょうか。

松山 おじいさんも全部家が医者だったから、慎一もそうしたらどうかというのがあったんですけれど。

小川 お家全体で。

松山 全体でそのほうがいいんじゃないかと。僕、やっぱり文学へ変わりたいと思ったこともあったんですけど、いろいろ家の者が今どき文学なんかやったら自殺もんだよと言うて、太宰さんとかね。ああいう時代ですので。

 だから、その頃中学四年から受験できたもんですから、それで京都府立医大と、それから三高と両方受けたんですけど、三高の二次のほうはうまく進めなくて。もう一年待って三高へ行こうかと言って泣いたんですけど、結局もったいないから入りなさいということで京都府立医大に入ったんです。
 
◆高安先生との出会い、「ぎしぎし」への参加
 
小川 第二歌集の『桂若葉』の後ろに高安先生との出会い等を書いておられますよね。

 その中で、戦後すぐ昭和二十一年の夏に毎日新聞へ行ったことがきっかけとなって「高槻」の歌会に、高野山の歌会に参加され、それが始めるきっかけとありますけれども、もう少し詳しく、どんな感じだったんですか。

松山 その頃ね、大学に新聞部というのがありまして、そこへ大阪毎日から誰か見学の人はないかと言ってきたんです。ちょうど何かその人が出席できないということで、代わって行かないかいうことで、社会見学もおもしろいかもしれんと、その頃思って行ったんですよ。毎日新聞でずっとアルバイトしていまして、ちょうど今の福島のような状態。大阪市全体ががれきばかりのときだったんですけど、毎日新聞の中見学していまして、そこにはつまり大村吾楼さんもおられて、「高槻」というのがあるんだよと。それで、いっぺん行ってみようかなと。高野山で一泊の歌会があったんです。そのときに行ってみたときに鈴江幸太郎さんという人と、高安先生行ってらしたかな、はっきり覚えないんですけど。ともかくそれで「関西アララギ」の母体である「高槻」に入ったんですよ。

小川 その前は短歌を作ったりとかはされてたんですか。

松山 いやあ、ほとんど作ってなかったんです。その高野山の歌会に出したのもあんまりいい歌じゃなかったね。

小川 では、本当にそれがきっかけで始めたという感じなんですね。

松山 もちろん、里井先生というのが、「ハハキギ」に歌出してらして、中学校の校友会誌に歌出しておられましてね、それで短歌というのが、そのとき一番始めにちょっと思ったんかな。

小川 では、その辺の下地があって、こういう高野山歌会との出会いがあって本格的に始められたという感じですね。

松山 そうですね。

小川 その後すぐ九月に「高槻」と「アララギ」に入会されて投稿を開始されていますよね。やっぱりもう作ろうという意欲というのがすごいあったんですか。

松山 そうかな(笑)ちょっと頼りないんですけど、おもしろいかもしれないぐらいの程度ですけどね。

小川 この頃「アララギ」と言ったら物すごい力のある結社ですね。

松山 そうです。批評が厳しかったんですよ。これは平凡だと突っ返されたりね。来光寺知ってらっしゃる?

小川 はい、『真実』にも出てきますね。

松山 もう歌会の前になると何か怖いような感じしてね、びびったんですよ。

小川 今おっしゃっていた来光寺の歌会にも毎月行っておられたんですか。

松山 毎月必ず行ったという記憶はないんですけど。

小川 でも、かなり参加されていたんですね。そこに高安先生も参加されてたんですね。

松山 そうですね。

小川 高安先生の出会いというのは、この京都の「アララギ」の歌会になるんですか。

松山 そうですね。その頃、京都桂女専というのがありまして、そこから高安先生の教え子がたくさん見えていました。

小川 桂女専というのは桂女子専門学校。

松山 そう。桂女子専門学校。今「未来」に入っている米田律子さん、井上美地さんとか、川口美根子さんもそうだったと思うんですけど、そういう方がよく見えていた。

小川 その京都の「アララギ」の歌会にですか。

松山 そうですね。高安先生の「階上に忽ち起るリンデンバウム齊唱はわが教へしドイツ語」も恐らくあの桂女専の時分だと思いますけど。

小川 そこで、昭和二十一年頃に高安先生に出会ったということですね。

松山 そうですね。

小川 で、その年の十二月に「ぎしぎし」という同人誌の発刊にも参加されていますよね。これはどういう経緯で?

松山 その頃にいわゆる「宗匠短歌」というのがいかんという…「宗匠短歌」知ってる?

 つまりある一人の人が会員さんを集めて、会費であちこち旅行して、また会員さんを集めて、そういう封建的な制度があるということに対してね、反対を唱える人、機運がその頃にあったという。もちろん第二芸術論というのがありましたでしょう。

小川 はい、ありましたね、この頃。

松山 それと一緒だということで、「宗匠短歌」をぶっつぶさんといかんということで、大村さん、鈴江さんはその「宗匠短歌」を担いでいる人やて言われて。若い人が集まる傾向があって、高安先生の方にだんだん集まっていくような傾向があって。

 それで「ぎしぎし」というのも、その頃出崎哲朗という京大国文科出た若い人でしたけど、ちょうど京都府立第一高等学校、あそこの先生してらして、それでその周りにもつまり若い女の子が集まってですね。

小川 それで、出崎さんとかも参加されてたわけですね。

松山 そうですね。その頃から諏訪(雅子)さんなんかも出てたかな。ほかに「ぎしぎし」には京都大学の他の、内科の先生とか、眼科の先生とか、建築学の人だとかいろいろたくさん行ってらしたし。川口美根子さん、それから太宰瑠維さん、それから眼科は山根さん言うたかな、そんな人がたくさん見えてましたけどね。

小川 この頃松山さん二十歳の頃ですよね。

松山 そうですね。

小川 そうすると、そのぐらいの年代の方が集まっておられたんですか。

松山 そうですね、大体同じぐらいの年代ですね。それで、みんな大学卒業してしまって、自然とやっぱりそういう運動が消えていったという形をとっている、社会人になってから。そんな感じですね。
 
◆「アララギ」の東京歌会へ参加する
 
小川 それで、多分この頃、昭和二十二年か三年頃だと思うんですけど、「アララギ」の東京歌会に参加されたというエピソードがその『桂若葉』の巻末の文章にあります。まだ大学に在学中の頃ですかね。

松山 あのとき出した歌は、「汗ばみて一日坐り居き夕昏れて日はあかくさす北の畳に」という歌だったんですけど。文明さんに「休暇となり帰らずに居る下宿部屋思はぬところに夕影のさす」という歌があるんですけど、その当時知らなかったんですけどね、同じような歌だなと思うんだけど。

 だから土屋さんが「この歌採ろうと思ったんだけどね、歌っていうのはね、細かく見て大きくまとめるのがいいよ」と言われたことを覚えています。
 
小川 土屋先生がそのときおっしゃったんですね。
 
松山 そうです。そのときに「ぎしぎし」の会で、僕の歌あんまり批評されなかった。あまりいい歌でもないわね。いい評しなかったんですよ。だけど、高安さんは「これでいい」と言われてね。

 で、どっちやろと思って、一遍土屋さんに見てもらおうと思って、土屋さんのとこに出したんですけど。そしたら「この歌採ろうと思ったんだけどね」とか言われて。

 それでそれが済んでから、高安さんが「松山君、やっぱりあの歌はあれでよかった」と。まあ、高安先生というのは、土屋さんのこと絶対だったですからね、先生だったから。
 
小川 その東京歌会に高安先生も参加されてたんですか。
 
松山 そう、行ってらしたんです。若い人、河村盛明という「フェニキス」の人ですね、とか若い人が集まって、それから「未来」の若い人と集まって、何か協議しよう、新しく何か運動をって、それで皆さんかなりたくさん行ったようですよ。
 
小川 ちょうどそういう中で松山さんも参加されたということですね。
 
松山 だから、そういう方については、僕はちょっと浮き上がっていたと思うんですけど。
 
◆大学卒業後、「関西アララギ」への投稿
 
小川 昭和二十三年に京都府立医大を卒業されて、で、そのまま大学に残られたんですね。
 
松山 それはね、さっきのような状態で、まず叔父さんが死んで、それから、僕の母方のおばあさんが亡くなって、それからおじいさんも亡くなって、一年ごとに火葬場へ行かなければならなくなって。その頃ちょうど大学卒業した頃で、どうしようかな思って、いろいろ迷ったんですよ。

 はじめは僕ね、精神科をやろうかと思ってね。花園に「助手いいですよ」と言われてたんですけど、一カ月ほど前に、気分が向かなくなって、どうしようかなと思っていろいろちょっと迷いましてね。保健所へ行ってみたり。それから一航海だけの船医になってみたり。船に乗ってラングーンまで行ったんですよ。それで帰ってきて教室へ入ったんですけど、若いときでその頃貧乏したんで、「出張しなさい」いうことで、山口県の柳井市いうところに一年間出張したんです。
 
小川 それはいつ頃、何年ぐらいですか。
 
松山 二十四、五年ですよ。ようやく出張して一年頑張って。一年で行ったんだけども、途中で帰ってきた。「早う帰してほしい、こんな田舎いやや」と言って帰してもらって、済生会の中津病院。吹田じゃないですよ。
 
小川 はい。昭和二十六年の五月に済生会中津病院に出張赴任したという。
 
松山 そうそう、出張赴任して、あの頃まだ中途だったね。それから一年、二年たって…。僕、中学の頃から肋膜しているんですよ。右側の肋膜、それから肺尖カタルというのしていましてね。それが治って、ちょうど二十六年、七年かな、今度は右肺上葉の肺結核で、乾酪性肺炎という、かなり広汎な浸潤(しんじゅん)が起こって、済生会の中津に入院させてもらったことあります。
 
小川 ご自分が勤めていた病院に入院されたということですね。
 
松山 そうです。それで、退職して、今度は研究科学生という形で(京都府立医大に)入ったんです。
 
小川 二十九年十月に中津病院を退職されて、府立医大の研究科旧制大学院に進学されたと。
 
松山 その頃は研究科学生というので、診察はアルバイトに行って臨床やって、それから研究室で研究するという形だったんです。
 
小川 この頃は研究職に進むということを考えておられたんですか。
 
松山 うん、まあ、結局、普通の考え方で、これも平凡な考え方なんですけど、どこに就職するにしてもやっぱり学位がないとだめだということで、ともかく学位を取りましょういうことで、だと思います。
 
小川 二十六年頃、二十五歳の頃から「関西アララギ」の高安選歌欄に投稿するようになられたと。これやっぱり高安先生の影響というのが非常に強かったんですか。
 
松山 そうですね。やっぱりその頃は二上令信とか、それからこの前亡くなった坂田久枝さんなんかで、「早春短歌会」というのがずっと続いてたんですよ。「早春短歌会」から、いわゆる「塔」のほうにだんだん変わっていったんだと思いますけど。黒住さんも入ってた。
 
小川 この頃、黒住さんもですか。
 
松山 澤辺さんもずっとこの頃「早春短歌会」だったし。そんなんで、何か細い糸のようなものがつながっているという感じで。

 高安先生が喘息発作のときに、ちょっと注射に来てほしいと言っておられて往診したことありましてね。
 
小川 松山さんが診察されたんですか。
 
松山 うん、ちょうど注射してほしい言われて注射しに行ったことがありました。そんなことで高安先生から「やっぱり継続は力だから、ぽつぽつと作っていくんだね」と言われたり、そういうことはあったと思うんですね。
 
◆「塔」の創刊への参加、リルケへの傾倒
 
小川 それで、いよいよ二十九年の四月に「塔」が創刊、このときから松山さんも参加されたということなんですが、その辺の経過なんかを教えていただきたいんですけど。
 
松山 「早春短歌会」…、つまり「高槻」で、その前に大村吾楼選歌欄、それから鈴江幸太郎選歌欄、それからもう一人、岡田さんの選歌欄といろいろあったんですけど、だんだん若い人が高安選歌欄のほうに集まるようになっていって、僕もだんだん、そちらのほうに関心がいって、でそうなったんじゃないでしょうか。
 
小川 それが「塔」創刊につながったということですか。じゃ、松山さんにとっては「塔」に参加するというのはもう当然の流れという感じだったんですかね。
 
松山 そう、そんな感じでしたけどね。
 
小川 この頃リルケの詩に関心を持って、原文と対照させて読んだことなんかもあったという話がありましたけど、それはやっぱり高安先生の影響なんですか。
 
松山 そうですね。そういうことで、リルケのことにも、ちょっとだんだん関心がいくようになりまして。高安先生が新しい雑誌を出される前から、「関西アララギ」の時分から高安先生のことには関心がいくようになってまして。特に、古い本ですけど、『魔の山 その他』。これは一番初めの頃読んだのかな、高安先生の。『魔の山 その他』というのは高安先生の卒業論文だったみたいですよ。それから、『幼子の花びらとトーマスマン』とかね、こういうとこから読み出したんだと思いますよ。
 
小川 医大でドイツ語はもう十分習っておられたので、堪能でいらっしゃったんですよね。
 
松山 堪能というほどでなかったですけどね、まあ一応読めるという形だったと思います。
 
◆結婚、『塔作品集?』への参加
 
小川 昭和三十一年、三十歳のときに田中雄子さんと結婚されて、これは京都市内に新居を構えられたんですかね。
 
松山 そうです。最初は龍安寺におったんです。そのときは間借りしてたんだけど、そのときに僕は大学行ってて、助手給が少ないんで、家内が「もう一遍働くわ」と言い出して、それで働き出した頃でしょうけど。
 
小川 そうなんですね。じゃ、奥様と共働きだったんですね。
 
松山 そうなんですよ。で、家内の母が寺町の鞍馬口に住んでいたものですから、そこで一緒に住むと。

小川 それで、同じく昭和三十一年の十二月に『塔作品集?』に「巻雲(けんうん)」を出詠されていますよね。これはどんな形でこういう作品集を作ろうということになったんですか。
 
松山 …そうですね、何となく。今でもあるでしょ、最近になってもあったでしょ。
 
小川 五十周年のときに『風神』『雷神』という合同歌集がありましたね。
 
松山 そうそう、あれとおんなじような意味で作ったんじゃないですか。
 
小川 あの作品集はそんなに参加してる方多くないですよね。松山さんが参加されたというのは、何かどんな理由というか、きっかけというか、あったんですか。
 
松山 特になかったな。何人か応募しなさいと。
 
小川 それは、高安先生から?
 
松山 いや、編集部から。編集部と高安先生の意見だと思いますね。
 
小川 その頃の編集部というとどんな方がされていたんですか。
 
松山 田中栄さんとか、諏訪さんとか、黒住さんとか。清原さんどうやったろう。
 
小川 かなり意欲的な作品が多いように読んで思ったんですけれども、結構初期の頃の作品ですよね、これは。
 
松山 そうそう。
 
小川 で、ご自分でも愛着のある作品を選んだというふうに書かれておられましたけれども、この頃はやっぱり結婚前のお歌が中心ですよね。その後にはあんまりないような恋愛時代の相聞歌なんかもあってね、すごい興味深く私も拝見したんですけれども、やっぱりその辺のを残しておきたいという気持ちもあったんでしょうか。

松山 そうでしょうね。この頃はやっぱりちょうど、これはやっぱり結婚が一つの刺激になって作った歌じゃないかな、時期的にね。
 
◆学位取得、娘の誕生、助手時代、非常勤講師時代、そしてフランス留学
 
小川 で、翌年昭和三十三年六月、三十二歳のときに念願の学位を取得されたわけですね。
 
松山 (高安先生が)ドイツ留学されてた。
 
小川 ちょうど高安先生がドイツに留学されていた時期ですね。で、ちょうどこの頃に娘さんがお生まれになったんですね。
 
松山 そうですね。長女は日赤で生まれましたから、第二日赤で。
 
小川 府庁のそばのあの日赤ですね。この頃の歌にその娘さんの誕生を喜ぶお歌なんかもありますけれども。

 で、学位を取られた後、三十四年の六月に京都府立医大第一内科の助手になられたわけですね。ところが、昭和三十七年頃にまた肺を病まれる。
 
松山 このときはね、肺の手術したし、「ぼつぼつ復職させてほしい」と言っていったんですよ。そしたら、「病み上がりの人はあかん」て。どこか助手給ぐらい出すとこは探してあげるから、非常勤講師にしてあげるから、助手はやめてほしいと言われたんです。
 
小川 それで、三十九年四月に内科の非常勤の講師になられたということですね。
 
松山 そうです。一九六九年までは。これは何か、フランスへ行くというので残しておいてくれたと思います、講師というのをね。
 
小川 そして、四十一年の八月にフランス政府技術留学生としてフランス、パリに留学をされています。このフランスに留学したというのは、どんな理由でなのでしょうか。
 
松山 そのときね、僕研究のほうでね、あまり専門的なお話してもおわかりにならないかもしれないけど、現在膵臓の、つまり再生というの、培養というんですか、膵臓の細胞の培養ということが現在成功しているところもありますしね、膵臓の。

 つまり、ちょうどその頃に内分泌腺の組織培養というのを、内分泌腺を体の中から外へ取り出して培養するというのが一つの問題になっていましてね、それで研究のテーマとして、内分泌腺の組織培養というのを昭和二十八年、二十九年頃からやってたんですよ。

 特にその中で甲状腺なんかは非常にうまくできたんですが、膵臓のほうがうまくいかないんで、どういう方法がいいかと思っていろいろやってたんですけど、フランスで臓器培養という形でしているところが、研究室があるということ大体わかってたんです。

 ちょうどあれは学会があったときに、フランス人の教授で糖尿病の先覚者の人が見えてまして、僕が案内することがありましてね、そのとき聞いてみたら、「私その先生を知ってるから。紹介してあげるから」とか言って紹介状書いてくれまして。つまり研究上の理由でフランスへ行ったんですよ。
 
小川 フランス語はそれまで勉強されてたんですか。
 
松山 ちょうど結核で入院したときに、若い時分からフランス語を一遍習いたいと思っていたから、この機会に習おうと思って、ラジオのフランス語講座を聞き出したのが初めてでして。それから、その回復期にずっとフランス語を勉強してまして、日仏学館も行きました。それから東京日仏の通信講座がありましてね、中級ぐらいまで通信講座続けてやって、フランス行く前にはかなりしゃべれるようになっていました。
 
小川 やっぱりすごく松山さんにとってこのフランス留学というのは大きかったのかなと歌を読んで思うんですね。
 
松山 それは高安先生と一緒だと思うんですけど。向こうで一つ論文作りまして、それが終わってから帰ってきました。
 
小川 フランスの生活なんですけれども、もちろん専門の研究も一生懸命やっておられたと思うんですけど、結構いろんなところに行かれたりしていますよね。
 
松山 そうですね。留学生で…、大学都市というのがあるんです。(パリの)十四区にあるんですけど、そこに日本館、メゾン・ドゥ・ジャポン(Maison du Japon)というのがあって。そこの、僕は一番年長だったもんですからね、医師長をしてくださいと言われまして。そこに座ってますと、留学の人が風邪引いたりで来るとお薬作ったりもしてたんですけど。食事は大体そこに、大学都市の大きな食堂がありまして、主にそこでしてて、それから時々レストラン行きましたけど。

 それから、ルクサンブール公園のそばに研究所がありましてね、コレージュ・ド・フランス(Collège de France)というところがあるんですけど、そこの地下に研究室がありまして、そこへ行ってたんですけどね。

 ちょっと知り合いにOECDの職員がいまして、親戚になるんですけど、その人が時々、車でちょっとあちこち案内してもらったいうこともございました。
 
小川 パリを中心にということですね。
 
松山 主な旅行というと、やっぱりロアール川、それからモンサンミッシェルの方とか、それからニース、それからストラスブール、そのあたりだけですけど。
 
小川 その辺の景色の印象とかというのは強かったんでしょうか。
 
松山 そうですね。歌作ったけど、あんまり高安先生には褒めてもらえなかったな。澤辺さんがええって言ってくれた。

 日本のように、ジャージャー、ジャージャーと蟬は鳴かないんです。チチチ、小さい蟬しか鳴かないから。ニースなんかでね。それでもう寂しいと思ったことはありました。
 
◆済生会吹田病院勤務、第一歌集『栗焼く匂い』の出版
 
小川 そして、昭和四十三年の七月に日本に帰国されて、その年の十二月に京都市内北病院の内科に勤務されることとなった。これは臨床医ということですよね。
 
松山 そうです。
 
小川 フランスには研究ということで行かれたんですが、結局ここで臨床医という道を選ばれたわけですね。それは事情とかは何かおありだったんでしょうか。
 
松山 どうして臨床医になったかと言いますと、ちょうど帰ってきたときが大学紛争の時期だったから、大学にちょっと近寄れなかった。どうしても「飛んで火に入る夏の虫」のような感じで。だから一応臨床をやっていようということで臨床してたんです。

 その前にちょうど僕の仕事が電子顕微鏡の仕事だったものですから、広島大学からこっちへ来ないかとか、基礎的研究だけどもこっちへ来ないかというような話はあったんですけど、やっぱり生活費とかいろいろ考えてちょっと無理だということで、これからは臨床をやっていこうということで。

 結局、フランス行ったことが日本では実現できなかったから、そういう意味では仕方ないと思ったんですけど、その代わり臨床をしっかりやっていこうと。
 
小川 この頃そういうことを決意されて勤務されたということですね。
 
松山 そうですね。しかし、京都市内の小さな病院でしたから、もうちょっと大きな、もうちょっとしっかりした病院を探してたんですけど、ちょうど僕の後輩の先生が呼んでくれましてね、それで済生会の吹田病院に。
 
小川 それが昭和四十七年の一月ですね。
 
松山 そうそう。
 
小川 ここに二十九年間おられたわけですね。

 ちょっと医学の話が続いてしまいましたけど、これから少しして昭和五十五年八月に、第一歌集『栗焼く匂い』を出版されました。この出版に至る経緯とかはどんな感じだったんでしょうか。
 
松山 いろいろ時期的な変化があって、それでようやく落ち着いたなという感じがあって、今までのをまとめてみようかなという感じになったんです。たくさん歌を落としましてね、残ったの少ししかないんで。
 
小川 『栗焼く匂い』は、昭和三十一年からの作品を収めておられますね。「巻雲」の作品は入れなかったということですね。
 
松山 そうですね。
 
小川 これは何か理由があったんですか。
 
松山 まあ普通は入れないですよね、初期歌篇というのは。澤辺さんがこれ(第二歌集『桂若葉』)出したときに、「後ろにようそんなん入れたなあ」と言いましたけど(笑)。
 
小川 この歌集(『栗焼く匂い』)ですけれども、昭和三十一年から昭和五十四年までの歌が収められているということで、かなり長い年月の歌ですね。やっぱり昭和三十年代というと、まだ歌集を普通に出すというような時代ではなかったということなんでしょうか。
 
松山 僕も意識なかったね。僕も元気がなかったんじゃないですか(笑)。
 
小川 この頃の「塔」とのかかわりというのはどんな感じだったんでしょうか。
 
松山 それね…。まあ、あんまり短歌のほうに没入してしまうと、やっぱり医学的な面がどうかというのがありましてね。編集の仕事とかそういうこと、もっとカバーしないといけないんでしょうけども、ほとんど今まで編集部とは別になっている。

 高安先生がちょうど病気で引かれたときに、田中栄さんがぼそっと言われたらしいんですけど、「あの人は忙しい人やからね」って言われたらしいから。
 
小川 それは松山さんのことを指してですか。
 
松山 うん。そういう気持ちがあったんじゃないですか、高安さん自身に。それで僕のほうも甘えちゃって、あんまり編集の忙しいことは全然しないで、外から「塔」を眺めてるような感じになっちゃったんです。病院のほうも相当忙しかったんですよ。済生会というところはね、独立採算ですから、自分のところの病院で稼がないと給料出ないですから、かなり忙しいんですよね。それでちょっと無理があったんじゃないかな。
 
小川 でも「塔」には毎月出詠されている。
 
松山 ほぼ。今月号(六月号)は初めて休詠したんですけど。何か『短歌研究』のほうから十首送れ言うてきたもんですからね、両方でちょっと、できなくて、こっち休詠しちゃった(笑)。
 
小川 でも、それまでは逆に休詠なしですか。
 
松山 ほぼなかったですね。
 
◆済生会吹田病院勤務時代の「塔」における交友、第二歌集『桂若葉』出版
 
小川 この頃、この頃というのは吹田病院に勤務されている頃ですね、は、あまり編集部などにはかかわりなかったというお話でしたけれども、「塔」の中ではどんな交友があったんですか。

松山 それはやっぱり月々の歌会に出ている方とのお話とか、歌集に対する礼状とか、それから批評文とか。批評も…あんまり文章書いてないしな。

小川 歌会というのは今の京都歌会に当たるものですか。

松山 京都歌会ですね。京都歌会へ何か習慣で行っちゃってるんですけど。

小川 今も出ておられるんですよね。では、もうこの頃にはずっと京都歌会にもコンスタントに出ておられたと。

松山 ほぼコンスタントに出ていましたね。

小川 ああ、そうですか。ちなみに、どんな方と特に交流があったんですか。

松山 まあ、昔からなんですが、澤辺さんなんかと。それから永田さんなんかも、わりとお会いしたら普通にしゃべりますから、何も喧嘩したことないし(笑)。

小川 そして、一九八四年、昭和五十九年の七月に高安先生がお亡くなりになられました。

 その亡くなられた直後の十一月に、第二歌集『桂若葉』を出版されてます。

松山 何かそのときもう僕、高安先生がおられなくなったことが一つの、急に亡くなられたことで、何かもう一遍考え直そうと思ったんじゃないかな。

小川 あ、それがきっかけとなってこれを刊行するに至ったということですか。

松山 うん。

小川 『栗焼く匂い』以降の歌をまとめてみようということですね。なるほど、そういう経過があったんですね。

 この『桂若葉』に「巻雲」を含む初期歌篇、作品集を入れておられるんですけど、これ何か理由が?

松山 やっぱりそれは、高安先生の時分のを全部入れてみようという感じで。

小川 なるほど。で、先ほども言いましたけど、この「初心の頃」という文章をお書きになられたのも、その辺の心の動きというのもやっぱりあったんでしょうか。

松山 そう思います。
 
◆定年退職後診療顧問に、大山崎町への転居
 
小川 そして、その二年後の昭和六十一年三月に、一応定年で退職されたということですが、その後も診療顧問としては通っておられたんですね。

松山 ほとんどフルタイムで。当直はないですけどね。かなりしんどいんで、京都からもう通えないということで、それで、もうちょっと、ずっと勤めるのだったら吹田と京都の真ん中の辺に家を建てようということになって。それでこっち(大山崎町)に替わったんですけど。

小川 それは週五日、六日通っておられたんですか。

松山 ちょうどその頃、訪問診療というのが始まりまして、済生会の吹田病院がモデル病院になりました。それで、「やってください」と言われて。若い先生は仕事の途中でそっちのお年寄りのとこ回るのはあんまり嫌がるからね。僕が訪問診療よくやりました。

小川 訪問診療というと、患者さんのお宅にお伺いしてということですよね。

松山 そうです。

小川 それを松山さんがやっておられたんですか。そのとき、六十歳をもう超えておられますよね。

松山 うん。

小川 大変じゃなかったですか。

松山 お年寄りの先生のほうがいいんじゃないですか(笑)。
 
◆第三歌集『春の紅茶』出版、済生会吹田病院の退職、京都市内病院への勤務
 
小川 平成十年、一九九八年三月に第三歌集『春の紅茶』を出版されました。これはどんなきっかけで、この時期にこの歌集を出版されようと思ったんですか。

松山 ぼつぼつ歌が溜まったし、整理しておかんとというので。ちょっと作品の数が多いんで、あまり厚いのにすると読みにくいかもしれないと思って分冊にしたんですけど。

小川 読みやすいです、とっても。

松山 これは現代歌人集会の年間のあれに載った、ノミネートされたんですけど、結局流れちゃった、僕のは駄目だった(笑)。

小川 でも、かなり評価はされたということなんですね。

松山 そうみたいです。

小川 それっていうのは、ご自身にとっても自信になったということはあるんですか。

松山 そうですね。塚本邦雄さんが引いてくれたんかな。「歌会終り高安先生と席を立つ淡き夢見き春の曙」という歌あるでしょう。塚本さんが引いてくれたんかな。

小川 それは雑誌か何かで。

松山 朝日新聞で。

小川 それはすごいですね。

 で、その三年後ですね、平成十三年、二〇〇一年二月に、二十九年間勤務された済生会吹田病院を退職されたと。このとき七十五歳。七十五歳までフルタイムで働いておられたんですね。

 普通ここまで働いておられたら、もう後は悠々自適でもと思うんですが、もう、すぐ三月に京都市内の病院に非常勤で勤務されたんですね。これはどういった理由から勤務されたんですか。

松山 僕の同級生が、外科の人ですけど、院長してたんです、京都市内に。「一遍ちょっと助けに来てくれるか」という話で。始めは週四日ほど出てた。大体三時間が一単位になっていますから。だから現在は週二日言うても、三時間が二回ですよね。

小川 で、この勤務が現在まで続いておられるということですね。

松山 うん、そうです。
 
◆第四、第五、第六歌集の出版
 
小川 で、二〇〇三年、平成十五年二月に第四歌集『陶の梟』を出版されました。これはどんなきっかけでまとめられたんですか。

松山 やっぱりある程度作品が溜まったから。それからもう一つは、月集は永田さんが選してくれてたからね。あまり自選してないというところもあるから、早く溜まっちゃうというところもあるし。それでいつ死ぬかもわからへんし、僕自身がね。

小川 このとき、この『陶の梟』出されたときが七十七歳ですね。この『陶の梟』に済生会吹田病院を退職して、その京都市内の病院に非常勤で通うようになってという頃の歌が収められているわけですね。

松山 そうですね。

小川 で、この後記にも、それに伴って京都市内に再び足を運ぶことが多くなり、その変貌などにも驚いた、というようなことが書いてありましたけど、やっぱりその辺というのも作歌の動機になっているんですかね。

松山 でしょうね、やっぱり。

小川 二〇〇八年、平成二十年の夏頃から奥様が体調を崩されて、二〇〇九年に残念ながらお亡くなりになられたということですね。この辺の歌というのは、最近出された『冬の苺』に収められて、私も非常に感動したんですけれども。

 で、二〇一一年九月、平成二十三年九月に第五歌集の『寂しさの市』を出版、そして二〇一二年、今年ですね、平成二十四年の一月に『冬の苺』を出版。これ結構時期が近いときに二冊続けて出しておられますけれども、これは何か理由とかあったんですか。

松山 本当はもう少し早く出したかったんですよ、第五歌集をね。ちょうどそのとき歯を悪くしましてね。ちょうどその歌集に入っていますけど、歯を悪くして、ちょっとその治療費にかかったものですから(笑)、歌集出せなくなって。それでいつか出そうと思ってたんですよ。それで、今回まとめて出したという感じです。

小川 じゃ、第五歌集がちょっと当初より遅くなったという感じなんですかね。

松山 うん。一つはね、『寂しさの市』と『冬の苺』は、月集欄の人と、作品1の人は全部送ったんですよ。それで、あんまりたくさんは残ってないですけどね。

 しかし、歌集かなり残っているんですよ。だから、家内にも「歌集出されてもいいけどね、廊下にいっぱい残るの嫌だ」って言われちゃって(笑)、「そうだなあ」って言ってた。

 それで、今回(『冬の苺』)はあんまり残ってないですけど、第一歌集、第二歌集、第三歌集、第四歌集、第五歌集ぐらいまでまだたくさん残っているので、どうしようかしらと思ってる。

小川 じゃあ、この機会に宣伝しておきます(笑)

 奥様が亡くなられた後は娘さんとお二人暮らしですか。

松山 そうですね。

小川 娘さんと二人になられた後の歌というのも非常に印象深い。ちょうど『冬の苺』の後半の歌に当たりますけれども、あれも私なんか非常に印象深く読ませていただいたんですけれども。

松山 ありがとうございます。
 
◆松山さんの歌の作風について
 
小川 大体お生まれになってから現在に至るまでお聞きしたんですけれども、松山さん自身の歌の作風というんですか、私がざっと読んだ限りでは、やはり写実的な歌が多いかなという印象があるんですけれども、その辺はある程度意識的にやっておられるんですか。

松山 やっぱり始めから「アララギ」だったし、それから「アララギ」と(「塔」と)両方出してた時期がありましてね。

 僕、思うんですけど、昔「アララギ」が非常に隆盛だった時分というのは、人間と自然というんですか、農村と自然というのはかなり密着してたと思うんですよ。

 それが、いろいろな点で日本は変わった。発展してきて、人口の都市集中なんかが起こってきて、だんだんと人間と自然とが離れていっている、こんな感じがあるんですね。旅行やなんかには、自然と人間はぶつかる機会がかなりあるんですけど。

 それで最近はどうも人間の心情、心象なんかが非常に歌になっているから、だんだん自然というのは喪失されてる、こんな感じがあって、僕なんかは、やっぱり昔のそういう傾向が残っているんじゃないかなという感じはしています。だから、ひょっとしたら僕の歌は遅れていっているんじゃないかなという感じもすることはある。

小川 今もおっしゃっていましたけれども、やっぱり自然詠に分類される歌が多いと思うんですよね。で、そういう歌っていうのは、私なんかはすごくいいなと思う歌がたくさんあって、読んでいて付箋がどんどんついてしまったんですけれども。

松山 それはもう、既に詠み古された世界のように、皆思ってしまわれるんじゃないかなと思うときがあるんです。自分ではよくできたつもりで出してるし、今度歌集をあちこち送らせていただいて、皆さんの関心を引いているのはそういう歌が多いんだけども、よく考えてみると、何か歌い古された歌じゃないかな、というふうに感じてしまうときもあるんですよ。

小川 でも、私なんかが読んでいると、確かに写実的に自然を詠んでいる歌が多くて、そういう歌風はあまり第一歌集の頃からずっと今に至るまで、そんなに大きな変化はないと思うんですけれども、その中にも自ずから松山さんの心情とかが投影されてますよね。やっぱりその切り取り方とか、物の見方とか、何を捨てて何を歌うかというあたりに、松山さんの思いというものが、投影されていると、私は思うんですけれども。

松山 そうですか、ありがとうございます。

小川 その辺はどのような意識を持っておられますか。

松山 そうですね、どういうんかな…。ともかく十日になると締め切りになるでしょう。だから、六月だったらやっぱり一日近くなった頃もぞもぞしてきて、「ああ、今月はできないかもしれんな」と思ってもぞもぞし出すんですけど。時々、「ひょっとしたらこれは歌になるな」というのは、ちょこちょこっとノートはしておくんですけど、ほっとくんですよ。それで、いよいよ締め切りが近づいてくる。「この一カ月何があったかな」「ああ、いいことなかったかな」と思ってしばらくじっと考えていると、これも対象かと。

 そのときに自分が歌作ろうと決心しないとできないですよ。「今月できないんちゃうか」思うとできない。そんな感じ。

小川 ちょっとこれは私の趣味に走るかもしれないんですが、よく歌を始めて一、二年は何でも歌になると。だけど、その時期が過ぎてしまうとなかなか歌になるものがないっておっしゃる方がよくいらっしゃいますよね。そういう方には、もう本当に松山さんの歌集を読むことをお薦めしたいと思うんですけれども。やっぱりもう自ずから、いろんなところに関心が向いているのかなっていうふうに思うんですけれども、その辺はどんな意識でいらっしゃいますか。

松山 わりと定年になってから暇が多くなったいうこともあると思うんですけど、いろんなことに関心は向くんですけどね。

小川 やはり短歌をやることによっていろんなものに目が向くというのもあるんですか。

松山 いや、短歌作ろうと思って目が向くんじゃなくて、いろんなものに目が向いているうちに短歌できちゃうという感じです。

小川 ああ、なるほど。じゃあ、自然にいろんなところに目がいって、それが歌になるという感じなんですね。

松山 なる場合もあるし、自然を見て、「ああ、いいもの見たなあ」と思うと「歌にならないかな」と考えて歌にすることもあるし。

小川 でも、逆にそういう短歌というものが自分の中にあることによって、自然がいろいろ見えてくるという面もあるのかなと思うんですけれども。

松山 そうかもしれませんね。
 
◆最後に
 
小川 そろそろもう時間もあれですので、そろそろ締めたいと思います。

 最近『冬の苺』を出されたばかりなんですが、今後の短歌についてですね、松山さんの考えておられるところを少しお話しいただけないでしょうか。

松山 自分の年齢を考えて、あと何年歌ができるかわからない。それから、今回ちょっと体調を壊したことで、以前は、何とか外出するときは酸素なくして外出できたんですけど、今ちょうど要るか要らないかの限界ぐらいのとこになってきて、実際いろんなことに制限ができてくるような感じする。

 例えば、庭仕事、園芸なんかの仕事もちょっとしんどくなってくるかなという感じもあって、これからどういうふうにしていこうかな、それでも何とか歌を作っていきたいなとは思っていますけど。

小川 その何とか歌を作っていきたいという、そこにあるものというのは何なのですか。

松山 何かやっぱり、歌がうまくいくと、うまく歌えると慰めになるといいますか、慰謝になるといいますか、そういう感じがあるから。

小川 それが魅力だということですね。

 あと、現在の「塔」にはたくさんの方、もう千人を超える方が在籍していて、非常に若い方から高齢の方まで幅広い方がいらっしゃるんですけれども、そういった「塔」の方に向けて何か一言あればおっしゃっていただきたいんですけれども。

松山 そうですね。本当に新しい才能の方も続々登場しておられますし。それぞれ…やっぱり、どう言うたらいいのかな、何かあってもやっぱり歌に癒やされるという面が必ず出てくるもんのだから、それを信じて一生懸命生きていってほしいと思います。

小川 大変心強いお言葉を最後にいただきまして、本当にありがとうございました。

 今日は長時間本当にありがとうございました。本当はまだまだ聞きたいお話もあるんですが、時間もありますので今日はこれぐらいということにさせていただきます。

 本当に今日はありがとうございました。
 
[二〇一二・六・一三、於 谷田会館(京都府乙訓郡大山崎町)]