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2020年8月号

永田和宏×河野裕子 対談 (司会:吉川宏志)
「歌を作って三十年」 (抄録)

 2001年全国大会 in 宮崎 (2001年8月25日 開催)

 今から19年前(注:2020年8月の掲載時において)の全国大会における、永田和宏×河野裕子の対談。会員の森尻理恵さんが個人的に録音していたものを提供してくださり、今回、誌上に採録することができました。録音に不鮮明な部分があり、また特に河野さんの発言で聴きとれない箇所が多く、抄録という形ではありますが、当時のお二人の生き生きとした口調を少しでも味わっていただければ幸いです。
(文字起こし:小川和恵、永田 淳 構成:小川和恵)

◆短歌をはじめたきっかけ
吉川 こんにちは、司会の吉川と申します。
 皆さんご存じかと思いますけれども、お二人は夫婦ということですね(会場笑) 多分喧嘩にはならないと思いますけど(笑)
 今日のタイトルが「歌を作って三十年」という、なんか演歌のようなタイトルですね(会場笑) どういう苦労があったのか、また、夫婦で作られていますので、夫婦でどうやって三十年間、ときには闘いながら、ときには協力し合いながら作ってきたのか、そういう話をざっくばらんにお聞きしたいと思います。
 まず、短歌を始めたきっかけについて、最初に話していただこうと思います。永田さん、いかがですか。
永田 今ご紹介いただきました永田です。
 宮崎県で…もう7、8年くらい前になりますけれど、伊藤一彦さんという方がいらっしゃって、宮崎でやはり河野と対談した。もうしゃべり倒すというか、しゃべり足りなくて(笑)。この間、また久しぶりに会うので「何しゃべったかな?」という話をしていたんですが、私も覚えていないし、河野も全然覚えていない(笑)。吉川くんもそのとき客席で聞いていたはずなんですが、一言も覚えていませんでした(会場笑)
 まあ今日も、ざっくばらんに話していきたいと思います。
 きっかけということですが、きっかけということになりますと、それは裕子さんの方が先に(会場笑)
河野 こんにちは。みなさんよく来てくださいました。本当にうれしいです。一時間半弱くらいのお話なんですけれども、楽しんでくださればと思います。
 今、永田の方からもちょっとありましたけれども、看板に偽りがあって「短歌を作って32年」なのね(笑)恐ろしいな(会場笑) 私は、えーと、13歳くらいだと思うけど。
永田 僕は、歌を作るきっかけはいくつもあって。一回目は、高校2年のとき、国語の先生です。普通の国語の授業の時間に、当時はガリ版刷りですよね。そのガリ版刷りに、近代は落合直文、それから現代の土屋文明、五味保義くらいまで、都合200ぐらいの、500首くらいの歌を、全部自分で書いて、それを一首一首解説してくれた先生がいたんですね。それは佐野孝男先生というんですが。後から聞くと、アララギの歌人だったんですね。
 それがとっても良くてね。意味とか文法とか、そんなことをやるんじゃないんですね。本人が感動して「ここがいいですね」「ここはとてもいいですね」という、そういう授業をしてくれた先生がいたんですが、まあ、良かったんです。近代短歌で頭に残っているのは、そのときのおかげかも。
 落合直文の「父君よ今朝はいかにと手をつきて問ふ子を見れば死なれざりけり」という歌、病気をしているときに、子どもが手をついて、「お父さん、今朝は具合はいかがですか」と聞いてくるわけですね。そんなこと言う子、今だったら絶対にいないけど(会場笑)
 そんなのがあって、それが「歌をやってみようかな」と思ったきっかけです。当然、結社なんてあるのも知りません。それで新聞歌壇に応募した。一回目応募すると佳作なんです。二回目応募したら、特選なんです。「俺って才能あるんやな」と(会場笑)
 ちょうど今、二つの新聞で選者をやっていて、産経新聞と南日本新聞ですが、選者をやっていて、よく分かる。二十歳以前の応募って、本当に目立ちます。だから、高校生と書いてあったら、それだけでもう断然注目してしまう。こっちはそんなこと知りませんから、二回応募して、佳作、特選。「こんなものか」と思って(会場笑)これが若気の傲慢なところで、こんなもんかと思って止めてしまった。
 もともとが体育会系だったので、大学に入って、バスケットボール部と合気道部に入った。でもすぐやめて、その辺を転々としていたのですが、あるときぶらぶらしていたら「京大短歌会を作ります」という話を聞いて、ふらふらと行った。高安國世先生という――塔短歌会の創始者です――高安先生は、京大のドイツ文学をやっておられた。高安先生が顧問でした。最初の歌会に持っていったのが性懲りもなく特選の歌です。(会場笑)
 歌会がスタートして、みんなの歌が分からないんですね、全然。で、僕の歌の批評の番になったときに、みんなの顔つきがよく分かったんです。どう批評のしようもないっていう顔をするんですね。で「何でこの歌の良さが分からないのか」ということが、こちらも全然分からない。そんなことで、人の歌ももちろん分かりませんでした。
 当時は前衛短歌の時代でしたから、我々近代短歌で育ってきた人間というのは、全然ついていけない。だいたい、高安國世の名前も知らないし、塚本邦雄の名前も聞いたこともない。それで一回行っただけで止めたんです。すっかり止めてしまって。
 ところが不思議なもので、それから数ヶ月して、京大短歌の先輩の藤重直彦さんから「もう一回だけ来いよ」と声を掛けられた。そうして歌会に参加した。休んでいる間、何を勉強したわけでもないんですよ。それが不思議なことに、分かるんですね、歌会で言っていることが。
 これはもう未だに不思議ですね。何を勉強したわけでもないし、現代短歌を読んだわけでもないのに、その休んでいるうちに、ただ、そこの歌会に出ている歌がなんか分かるんです。何より一番びっくりしたのが「自分の歌ってダメやなあ」これが分かる。
 これが不思議なことで、結局その二回がきっかけだと今でも思っています。多分、藤重直彦のあの電話がなかったら、あるいは今、全然違うことやっている。
吉川 河野さんはいつ頃から?
河野 13歳。うちは滋賀県の田舎でお商売屋さんで、花山多佳子さんのおうちは学者の家で、花山さんが「わたし原稿用紙に囲まれて大きくなったわよ」って言ったことが私忘れられなくって。私の家なんか、紙といったら請求書しかない(会場笑)
 その何て言うの、育つ環境の違いに愕然としたんです。私の母親の本棚にあった中城ふみ子『乳房喪失』、明石海人『白描』、川田順と、そんなんは読ませてもらいましたけれど。
 それで、今思うと短歌を作っている人って、周りに誰か短歌作る人が居るんですよね。
吉川 ああ。そんな歌集が家にあるというのは凄いですね。
河野 その辺がいいという感じで。
吉川 今日は、志垣澄幸さんがお見えになっています。僕の先生なんですけどね(笑)
河野 ちょっとお会いしたけれども、志垣先生ってどんな先生?
吉川 授業中は、結構…まあ眠かったですね(笑) ただ、『サラダ記念日』の歌を黒板に書いて紹介された時があって、よく覚えています。
永田 吉川くんが研究室に、僕を訪ねて来たんですが、志垣先生の紹介状を持って来たんです(会場笑) すごいよね。いろんな学生が来たけど、紹介状を持ってきたのは、後にも先にも彼一人だった。
吉川 いや、だって知らない人のところに行くときは紹介状が必要だとか、礼儀にうるさいところで育ったから。(笑)

◆一晩で何首作れるか
吉川 僕は今15年なんですけれども。
永田 「歌を作って15年」か(会場笑)
吉川 ちょうど半分ですね。これ、前からお聞きしたかったのだけれど、一晩で何首ぐらい作れるか、という質問です。
河野 言いたいんでしょ、あなたが。
一同 (笑)
河野 あたったわね(会場爆笑)
永田 昔は少なかったんですよ。10首、せいぜい10首くらいですかね。
 このごろだんだん、河野さんの真似をして、で、この頃作れるんですよ、本当に。頑張って一晩に60首くらい作るんですね。(会場「おお」)
 あのね、いい歌を作ろうというふうに頑張っちゃうとダメなんですね。たくさん作っているうちに何首かいいのがある、というぐらいのつもりでいくと非常に良くなる。
 詠草一首作ろうとするでしょ。そうすると本当に作れない、一首が。
 もうすぐ出ますけど、「歌壇」という雑誌で50首作ってくれと。50首作らんとあかんと思うと、もう100首くらいは二晩か三晩で、すぐできちゃう。一首だけに賭けるってなると、難しいね、これはね。
吉川 河野さんは、伝説で、一晩で歌集一冊分作れるっていう話を聞いたのですが。
河野 一番作ったのが一晩で100首。
 ともかくあの、禅問答みたいやけど、短歌を作れるところまではどこまでも作る。どこかで、もう作れないというところがあって、そこまでは作る。
永田 作っているうちに、作ることがどんどん出てくる。要するにね、一首にできないうちに、言いたいことがあるからって、一生懸命に考えているとですね、自分の言いたいことに縛られてしまって、一首作るのがすごく難しくなる場合があります。
 たくさん作っているうちに、どんどん「こんなことも言えるのか」「こんなことを言いたかったのか」と思えるんだよね。
河野 よく言うんだけれど「作ることが作ることだ」って。私の場合は、たくさん作るんです。どんなにしんどいときでも、ただただ作る。とにかく作るのね。毎日でも。
吉川 僕は今、20か30くらいなんですね、

◆歌をお互いに見せ合う
永田 うちの家はありがたいんだよね。あなたはだから幸せなんだよ。100首作ったら、全部見せますから。これは選ぶ方、選ばされる方も大変なもので(会場笑) 
 やはり選んでもらえると、評価を聞けるというのがあるから、割と楽に作れる。
 うちは変な家で、それぞれ作って、だいたい外に出すまでにお互いが見ます。河野さんが作ったのを全部僕が見ていますし、僕が作ったのを全部河野さんが見る。で、○×を付けます。○×△(会場笑)
河野 ペケもする。
永田 ×も付けるし。どうでもいい歌には、何もつけません。
 こういう具合にして作るので、安心して作れる。作ったものが全部どこかに載っちゃう、一首だけ作って、どこかに出そうとかとなると、今度は一首作るのがしんどくなる。だけど、ダラダラと作って、安心できる人が読んでくれるという、ここが大きい。
河野 そうですね。
吉川 それがない人は、じゃあどうするんですかね。
河野 どうするか、歌会に出すしか仕方ない(会場笑) どの歌がいいのか、自分では全然分からない。
吉川 僕も分からないですけど。
河野 「これはいいのができた。ばっちり」というのが全然ダメなこともある。
吉川 全くダメですか。
河野 全くということはないけど、思い切って新しい言葉使ったのに、いざとなったら…
永田 裕子さんが作り始めて少なくとも30年ぐらいの歌はずっと読んできているわけ、一番最初の読者。そうすると、思い切ったりしたことが、全部分かっちゃう。今この辺の所にいるなとか、今何を狙っているかとか、これは前にもう何度も試みたことで、その辺で軽くお茶を濁しているな、ということが。割と分かったのは、そういうところが評価に、やはり入ってくるね。
吉川 「たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり」。今となっては代表作ですが、これ、最初は永田さんが△を付けていたという。
永田 俺に振るなよ(会場笑)
 全然それは構わないと思っていて。歌ってね、名歌になる歌とならない歌と、どこかでバイチャンスですね。偶然というのがどこかにあって、名歌になるとどんどん名歌になってしまう。これは今、河野さんの代表歌になっている。けれども、有名性を持つ前のまっさらな状態でこの歌を見たら、本当に二重丸するかというと、今でも分からない。
吉川 出産などの河野さんの人生と「昏き器」がつながっていて、作者と切り離せない歌なんでしょうね。読者が、名歌に育てていったという面もありますね。
河野 そうですよね。
永田 それとね、こないだ佐佐木幸綱さんと会って話していたんだけど、やっぱり自分の目で見ないとダメだっていうことをね。つまり、みんなが、もうある程度人が取り上げた歌ばかり取り上げる。これは、何とも具合が悪いという話をしていたんですね。
 昔、しばらく前に、現代歌人協会のシンポジウムで、「名歌をもう一度批評する」という会を京都でやって、河野さんが主宰した。正岡子規の「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり」現代の目から見て、いったいどういうふうに批評できるかというのを試みた。ああいう試みは大事だと思うなあ。
吉川 永田さんの場合、河野さんの選を一番信頼している?
永田 信頼している。でも、「信頼する」ということと、「河野選を全部受け容れる」ということは、全然別のこと。河野さんが×をつけても、敢えて自分はそれを出すということはします。でも、河野さんが一回見ている、これはすごく安心なのね。○がつかなかった、あるいは△や×が付いていた、けれども自分が出すんだ、これがすごく大事。
河野 カルチャーの生徒さんなんかの歌を見ていると、大体この人の力って分かるんですよね。無意識にやっている気がするんですけれどもね。こう無意識にやると、だいたいこのラインかという。そんなことがだいたい分かるんだけれど、時々「ちょっと違うところに動いたよ」という。「ちょっとズラしたよ」そういうのが見えてきますね。新しい方向に動いたよというのが分かる。そこのところが見えてくると思うんです。(以下しばらく聴取不能)。
永田 いや、結構、やはり喧嘩しますね。「何でこの歌があかんのや」とか言いながら。
河野 うーん、でも一晩経つと変わってくるというのがありますしね。
永田 これ一昨日だったかな、小池真理子と藤田宣永、藤田さんが直木賞取って、小池さんは以前に直木賞取っていて、二人とも取った、そういう日で、二人でテレビに出て喋っていたのがなかなか面白かった。小説だと、見せられない。お互いの作品を見せられない。で、見ても何も言えない。でも、歌と小説と何か違うんだね、きっと。

◆相手に見せられない歌はある?
吉川 あの、下世話な話なんですけれど、歌の内容で「この歌は妻には見せられない」とか、そういうようなのは?(会場笑)
永田 そんなの無いな。そんなの…あるね(会場爆笑) そこが大変なところやな、これは。
 いやあ、本当にそうですけれども、比喩がですね、俄然必要になってくる(会場笑) つまり、比喩が生まれた発生の現場みたいなものが体験できますよ。これは、表だっては言えないことも、何とか比喩でごまかそうと。ごまかすって言ったらあれなんだけど。
 元々比喩ってそうですね。万葉以前、歌の発生のときに、比喩っていうのは、今ここに「木々が騒いでいる」とだけ言って、その内容を表だって言わない。そこから歌ってスタートしたものですからね。
 やっぱり「伝え合う」。これはまあ、厳密に伝えたら家がまずくなるから、そんなことじゃなくて。表だって言うと身も蓋もないことを、何か言いたいというときに、やっぱりそれをどんなふうに表現できるかということに、比喩というものが生まれてきたんだと、僕は思います。
吉川 河野さんは見せたくない、という歌はありますか?
河野 そんなことないよ(会場笑)
 この前、佐佐木幸綱さんと話していたときに「あなたのところはみんな歌を作っているんでしょ。考えられない」って。
吉川 不思議ですよね。息子さん、娘さん、そして、息子さんの奥さんも、今作られているんですよ。

◆歌ができないとき
吉川 逆なんですけど、歌が出来ないっていうときがありますでしょ。そういうときは、どうされているのか。
河野 出来ない…いつも出来ない(会場笑) 出来ないときは出来ないって。
永田 出来ないときは、どうしようもないね(会場笑)
河野 出来ない。
永田 いやあ、出来ないときは本当に出来ない。もう不可能だけど。もう一首も出来ないということありますけれどね、これはどこかで自分がカチカチになっているんですよ。「この一首で勝負しなくてはならない」そんな感じ。で、次の日にパパって出来ちゃう。
 でもこれってみんなだよね。
吉川 僕なんかしょっちゅうですけどね。
河野 あなたは一番、今勢いがあるんですね。だから、そういうときって、そんなに、面白いものを作ろうとしないでおく。
永田 うちの娘、紅と言いまして、裕子さんと娘と、二人で一年間、ある雑誌に連載をしていた。あの時に、河野さんも変わったと思うけど、娘の方が変わったね。
 うちの娘は吉川くんに似て完璧主義で、一首を非常に大事に作っていくスタイル。
 けど、もうそんなこと言うてられん。月に50首くらいは、毎月作らんといかん。そうなると、もう、一首で「ああでもない」「こうでもない」と言っていられなくなる。
河野 変わりましたね。紅ちゃんは歌一首作るのに物凄く時間掛けて作る。「どうしてあんた、こんなに苦労して短歌作るの?」といつも言っているんですけど。それが「歌壇」の連載始めて、やはりひと皮剥けたかな。
 いい歌だけを作ろうと考えない。どんどん作ろうって。もっと自由なもので。
永田 僕は、みんなに言うんですが、作れないと言う人に「たくさん作れ」と言うんです。これ完全に矛盾ですよね。「作れない」と言っている人に「たくさん作りなさい」と言うんですから。
 それはそういう意味ではなくて、作っていく中でしか作れない悩みって解消できない。
河野 ほんとだ、思い出した。
 あのね、私もともと「コスモス」というところにいて、宮柊二が先生だったんですが、私は宮柊二先生に、会員の方から「スランプの時どうしたらいいでしょう」と聞かれたときに、宮柊二先生は「たくさん作れ、作ることだ」と仰っておられました。
 私、ここのところあちこちで新入りの方に、ちょっと言い方がまずいんですが「駄作のすすめ」と言っているんです。ともかく、たくさん、なるべく作るというような中から見えてくる、膨れてくる、根源ができてくる、ということを思うんですね。
永田 本当にそうで、斎藤茂吉は、もう15,000~6,000首、作っていますよね。
 もうほとんどがね、駄作の山です、ハッキリ言って。で、その駄作の山の中にチラッとどこかで見え隠れする秀歌がある。短歌ってそういうものじゃないかと思うんですね。
 短歌って短い。たった三十一文字ですから、その中で完璧に自分の思いを伝えたいと思ったってね、それは不可能ですよ。たくさん作って、その中に、偶然何かの間違いで、非常に人の心を打つ歌ができる。そこに賭けるしかないんじゃないかな。
吉川 僕は三倍作っています。だいたい三倍作って、前田康子さんに見てもらっている。
河野 あのね、一倍しか作らないと、伸びが悪くなるのよね。
永田 そうですよね。一首がね、すごく小さくなってしまうね。きちんと完璧な歌でも、河野さんが言った「伸び」がない。
吉川 余りに出来上がりすぎた歌だと、かえって面白みがなくなるということですかね。
永田 僕が第二歌集の時に塚本邦雄さんから手紙をもらって「全編これ秀歌。されど絶唱一首なし」と書かれたのね(会場笑)
 歌集でも、それから連作でもいいんだけど、一首一首が、凄く作者の工夫が見えてね、本当に考えて作ってある歌が、十首も並んでいると、読んでいくのがしんどいです。もっとだらだらと読んでいて、どこかで一瞬心の余裕が生まれる、多分ね…うん、そう思うな。余裕がね。
河野 うん、まったくその通り。歌会での高得点歌が必ずしもいいとは限らない。
永田 塔というところは、とにかく歌の読みを大切にするところで、僕は「歌が読めないといい歌が作れない」ということを、ずっと言い続けてきていますが、その中で、歌会ということと、それから選歌というのは、とてもいいシステムだと思っています。
 ところが最近、歌会の功罪の「罪」の部分を深く考えるようになって。歌会に出そうと思うと、さっき言ったみたいに、この一首に賭けて、非常に高度なテクニックを使っていますね。意味の多重性とか、こことここをこう掛けてとか、一首が非常に凝縮したものになってしまって、それを一冊として読むと非常にしんどい。

◆新聞歌壇の傾向
吉川 お二人は新聞歌壇の選者をされていますね。新聞での選歌は、結社の選歌とは全然違うでしょう。一首で選ぶものですからね。
河野 新聞歌壇の選者をするようになって、よくよく短歌というのは胃袋の大きい、雑なタフな詩型だよということが分かりまして。
 そのような場合は、ほんと、上等の、人の作らない、いい歌を作ろうと一生懸命自分を掘り返して作るんですが、新聞歌壇というのは、本当に…湾岸戦争の歌になると、「油まみれの鵜」みたいな歌ばっかり詠んでいて、あるいは「誰が死んで」「誰が死んで」「親も死んだ」っていう、「昭和天皇が死んで」…またみんなその歌ばかり。だいたいが同じ感想ばかりで、そういうなんともアホらしい歌ばかり。
 …と思っていたんですが、よく考えてみるとそういうものを持っているからこそ、短歌というのは千年以上存えてきたんだということをしみじみ思いまして。華やかに見える、社会面的な話題にはパッと飛びつきやすい。
永田 新聞歌壇をやっていて一番思うのは、みんなが歌になりそうな風景ばかり選びすぎている。それに慣れすぎてしまっている。
 孫は絶対可愛いよね。孫は可愛いとしか思えないからダメなんだよね。もう、孫の歌ってダメなんですけれどね。で、新聞歌壇って孫の歌が断然多いんだけど。近藤芳美さんは「孫」って字を見ただけで捨てるという(会場笑) それはちょっとオーバーだけど。
 ただ、「孫の歌」っていうと、「可愛い」というところにしか、もう自分の感性が動いていかない。これをなんとかすればいいんであって。それが新聞歌壇の多くの作者が陥っているところで。それは逆に、見ていると、歌っていうのはなんでこんなにいいものも悪いものも、なんでも詠えるんや、と思うね。
河野 文化的感受性というか、型が出来ちゃっているのね。「ここが短歌の平均値」というのがなんとなくあるって、一生懸命やっているんだけれど、下の句が本当に平板で平均値になっている歌が多すぎる。
 鳥取で大伴家持大賞という賞があって、一般が1,500首、児童生徒が6,000首。毎年児童生徒の選をするとウンザリするくらい同じ歌が並ぶ。いかにも作らされている。一クラスは受験の歌ばかり、もう一クラスは文化祭のことばかり。
永田 体育祭の歌も多いよな。
河野 多い。みんなのために一生懸命頑張るぞ、みたいなのばかり読まされる。

◆歌を作りながら見え出す/感性の方程式
永田 さっきあなたが「作ることが作ることだ」と言ったことと同じで。たくさん作っていると慣れてしまって、効果的な歌のまとめかたみたいなところに行きがちなんだけれども。
 でも、作っているうちに…作っている中で見えてくる自分がいるというのがあって。素朴な思いっていうのが、表に出てくる。
 これは作らないと出てこない、とにかく。歌を作る中でしか発見できないことって、結構あると思うんです。
河野 あるわね。
 あのさ、作りながら見え出すのよね。
永田 僕はね、よく講演の時にしゃべる歌が二つあって、「茂吉像は眼鏡も青銅(ブロンズ)こめかみに溶接されて日溜まりのなか」(『青蟬』)という吉川くんの斎藤茂吉記念館の前の茂吉の像の歌。それと、岩切久美子さんという塔の会員の方の「秋深し菊人形の若武者の横笛いずれも唇に届かぬ」(『そらみみ』)という歌。
 こういうふうな、ちょっとした発見なんですよね。でもね、これが大きい。そのまんまを吉川くんは発見したから、これが歌になったと、皆思うわけね。この人は非常に鋭くて、ものを見る目があって…
吉川 ああ。
永田 いろいろなものをそこで見つけるから、それが歌になっているんだと、みんな思うけど、僕は違うと思う。この歌を作ってくるプロセスで、いろいろと見回しているうちに、気がつくと思う。やっぱりそのプロセスだよね、そういうときに歌を作っていてよかったなと思う。
吉川 ありますね、それは。谷川俊太郎さんが「締切があるから僕は詩が作れる」と仰ったのを聞いたことがあって、それに近いところがあると思う。短歌を作ろうと思って見ているから短歌ができる。そういう面があると思いますね。良し悪しはあると思いますが。
永田 やっぱり、そういう歌を読めるのが幸せだよね。僕は「歌集を読みなさい」ってみんなに言うんですけれどね。歌集を読むのは、絶対にその人の人生に感動しているんじゃないと思うんですよ。僕は「感性の方程式」と呼んでいます。ガチガチになって、もう当たり前のモノの見方しか出来ていない自分に、自分の見方に、風が吹きぬけていくようなところがある。「あ、こんなふうなモノの見方も出来るのか」という感じ。
 吉川くんの歌、茂吉の眼鏡はこめかみに溶接されているとか、「円形の和紙に貼りつく赤きひれ掬われしのち金魚は濡れる」(『青蟬』)もそうだね。金魚って、水の中にいると濡れていない。で、持ち上げると金魚が濡れている。
吉川 意識的に視点を変えている歌ですね。
永田 面白いなあ、こんなモノの見方もできるんだなあと感動したんです。
 人の歌を読むということは、多分そういうことなんだと思う。その人が何を見て、どういうふうにものを捉えたかというのが分かるのが凄く大きい。

◆短歌の人格
吉川 短歌って、別の仕事をしながら作り続けなければならない面がありますよね。僕も会社員ですけれど、会社にいるときの自分と、短歌を作るときの自分は、全くの別人格のようになっていて(笑)。初めの頃はそれが嫌だったのだけれど、最近は逆に面白くなってきました。ただ、妻は家にいますので「私はずっと一緒じゃないか」と、よく言いますね。そんなふうには切り替えられない。自分はずっと同じ人間、人格だと。
河野 女性っていうのは…そうねえ、もっとしんどいかもしれませんね。
吉川 ただ、会社員をしながら歌を作るのもすごく大変なわけで、それでも続けていくためには、僕の場合、いくつもの人格を自分の中に生み出す必要があった。会社に入って、今10年くらいですけれど、分裂している自分を、むしろ楽しむ、というふうに考えを変えないと、やっていけなかった感じはします。
永田 まあね、自分が詠われていても人の歌は面白いんだ。
 悔しいことはありますよ。さっきの話じゃないけど、一晩作って、ようやく本当に作れてきたというときに明るくなって、「もう一時間待ってくれ」と思うわけ。だけど、それができなくて、もう時間に縛られて難しい。
 二晩目ぐらいまではいいんだけど、歌を作って五晩目くらいになってくると、もうできなくなってきちゃう。こうなるともう、「ああ煮詰まってきたな」ということでもう止めちゃう。それでまた一日二日空けると、またもう一度作れるようになる。

◆家族の歌~「詠んではいけない」呪縛を抜けて
吉川 家族の歌を河野さんはたくさん作ってきましたけど、どういうきっかけで詠もうと思ったんですか。外からは円満に見えるけど、家族ってやはり内側から見ると、本当にいろいろありますよね。そういうリアルな部分を歌うのは、すごく傷つく、あるいは傷つけられる面もある。
河野 家族を詠むのは面白い。けど、昔は家族を詠んだらダメだった。
永田 僕らの時はね、福島泰樹が――一昨年、若山牧水賞とりましたけど――彼とは若いころからの友達で、まだ結婚する前の二十代から付き合っていて、結婚して子どもができるときに「いいか、永田。子どもの歌だけは、お前作ったらあかん」と。まだ素直でしたから。で、子どもが生まれても子どもの歌はほとんど作っていない。
 あれがね…やはり前衛短歌の時代というのはそうだったんですよ。「これは詠ってはいけない」「この時代はこういうことを詠うんだ」という。子どもとか家族というのは、詠ってはいけないことだったんだ、そもそも。
 吉川くんなんか見ていると、子どもが生まれれば子どもの歌、奥さんが妊娠すれば妊娠の歌。
吉川 でもねえ、僕の10歳上が加藤治郎。僕の少し上の世代までは、全然家族のことは詠わない。妊娠や出産を歌にしたっていうのはあんまりなかったんです。歌に詠もうと思って見ていると、面白い発見があるんですよ。「なんでこんな面白いことを詠まないの?」と思うわけです。
河野 仰る通り。詠んではいけないという時代には、家族のことが見えなかったんです。箍が外れたことで、見え出したんです、家族の一人一人の面白さが。見え始めたことで、なんでこんなに面白いんだろう、と。そんで、後になって、思い切って作ってみた。
吉川 河野さんでもどこかで「詠おう」という決断があったんじゃないですか。
永田 それはないんちゃうか。
吉川 佐佐木幸綱さんでも、ある時期から家族詠が出てきますよね。
永田 僕は、「詠おう」という決断では全然なかったけれど、「詠ってはいけない」という、そういう束縛から、緊縛から逃れるまでが大変だった。つまり、家族の歌、家族って非常に面白いから――まあ家族だけじゃない、何でもそうなんだけど――「こんなことは詠ってはいけないんだ、我々の世代は」という自己呪縛みたいなのがあって、それから逃げられたときに、「こんな自由に詠えるんじゃないか」「こんな面白いものも歌になるのか」と思った、そんな気がするよね。
 歌っていうのは、「何かをしなけりゃいけない」「何かをしてはいけない」そういう規制をかけると、多分ダメなんじゃないかなと思いますね。
河野 アメリカにいく前だったけれど、「しつかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ」という歌が、女性歌人から叩かれたんですよね。フェミニズムの時代にって。「河野裕子たるものがこんな短歌を作るのか」と随分言われましたね。
 そやけど、違うのよ。余所から見れば大変挑発的に見えるんでしょうね。余所から見れば大変挑発的に見えるんでしょうね。でも、こういう時代だから、女性が家事を詠ってはいけないというのも、違うと思うのね。自分に素直に詠えばいいので、なんでもごちゃまぜに入ってたらいいのよ。
 で、アメリカに行って、大きいとか小さいとか、顔が違うとか、肌の色とか。日本にいると、もう、大変。細部のほんとに小さな違いにこだわって、窮屈なぐらいに自分を縛っていたってことに気がついたの。アメリカから帰ってくると、そんなんどうでもいいやんって自由になってね。こうなってくると、おもろい。もはや、必死になる必要がない。自由に世の中生きていくっていう。
永田 それぞれが言うと、「お互いに相手が見張っている」という感じがするのね。短歌の世界ってもっと狭いから、相手を見張っていて、誰かがこんな歌作ったら「こんな詠い方は無い」という言い方をするんだけれど。「自分は自分だ」と。そんな中で裕子さんが、その辺自由に振る舞ってきたと思うけどね。それでもやっぱり呪縛みたいなものはあって、どこかでそれを抜けてきたんだろうね、きっと。
河野 すごく肩の力が抜けて。それまでは自分の身丈よりも大きな歌を作ろうとしていた。ひとの作らないような強い歌を作ろうとした。

◆大きい歌を作ろう/サイエンスと歌
吉川 分かりますね。「君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る」のあたりの感じですか。やっぱり自分より強い歌を作ろうとして。
河野 32歳ぐらいのときですね、永田が東京の企業を辞めて、京都の大学に帰ってきて、3年くらいそうしていて、無収入。あてもなく、そのときはもうどうしようもないな、と思いましたし、生活が安定しない中で、子どもは小さくて3歳と1歳。現実は情けないんですけど「情けない現実はヤメ!」情けない、なよなよした歌ではなくて、強い歌を作ろうと思って。うまい短歌よりも大きい歌を作ろう。そういう歌を作って、元気になりましたよね。で、そういう形でアメリカに行ったと思いますね。
 あなたはいかが。
永田 前にも喋ったことがあるんだけど、やっぱり人の目を気にしていたところが自由になった、というところが大きい。僕は、特にサイエンスと文学とやっていて、日本にはどうしても「この道ひと筋」という美学がある。ある一つのことに打ち込んでいる人はよくて、二股掛けている、二足のわらじを履いている人はどうなんだ、と。それぞれの集団で、別のことをやっている人間を「あいつは本気じゃない」と排除する。
 で、自分が一番それに縛られていたと思いますね。サイエンスをやっている場では「歌なんかやっていてもいいのかな」と思うし、歌をやっているところでは「あいつはサイエンティストだから歌に賭けてないんだよな」と思われている。その二つの目、人の視線というのがどうしても気になって辛かった。「この道ひと筋」に拘らなくてもいいんだ。いろんな価値観が混在していても、それが一つの価値観なんだと気づけた。
 実感として、自分がサイエンスか歌どちらか一方を選んだらそちらに専念できるだろうかというと、そうでもなくて。こっち取ったら、こっちもダメになるという気がしている。「両方あってよかった」と、どこかで初めて実感出来たんだと思うんです。
河野 それはそうでしょう。あなた、サイエンス始めるときに「俺はもう短歌を止める」って言ったものね。
永田 そうだっけ?
河野 えらい真面目に「もう歌は止める」そんなこともありましたね。
 やっぱり岡井隆さんと知り合って、本当に気持ちの問題を抱え込んだりとか…
永田 そうだね。岡井さんともこの前そんな話になったんですけど、でもやっぱり、近くに歌を作っている人間がいたっていうこと、これが一番大きかったですね。
河野 私の周りにいたら、みんな振り回されるんです(会場笑)
永田 いや、振り回されるとかそんな綺麗なものじゃなくてね、口惜しいからね。
河野 何が口惜しいの?
永田 つまりね、自分が止めてしまったら、こんな面白いところは全部河野裕子が独り占めにする(会場笑) 
 つまりね、同じ場では「両雄並び立たず」ですよ。そういうのってあるんですよ。でもね、「並び立たず」で自分が退いたら、もう自分はダメになるしかない。「並び立たず」、だけど頑張る、「並び立たず」だけれども、そっちが頑張るんだったら、もうちょっとこっちも頑張ってみようという、そういうことが、すごくある。
 この前、小池真理子と藤田宜永がやっぱりそう言っていた。一方がすごく華やかで、小池真理子はすごい「賞女」と呼ばれた人で、やたら賞をいっぱいとる。その横で藤田宜永が、小池真理子に来た賞金を食い潰していたという。非常によく分かるなあ(会場笑)
 それで、うーん…やっぱり辛いよね、それはすごく。でも一方が退いてしまうと、たぶん両方がダメになる。やはりそれはね、大人としても、バランスというか、そこがなかなか難しいですね(会場笑) 

◆あと1㎜が/鈍感さの大切さ
河野 私ね、そんなに賢くないから文章書けないんです。書けなくはないんだけど。私、ひじょう~~~に運が良かったと思います。この人から「あとちょっとだけ頑張ってみな」と言われた。で、それがもの凄く大変なことだったの。
 あとちょっと。みんなはね、10までは行くの。けど10.1㎜が、その1㎜が行けないの。その1㎜頑張った分が自分の文体になるやろ。10までは、みんな行ける。1㎜が、その1㎜が。もう一歩頑張ったら。
吉川 まったくそうですよね。1㎜ってね、違うんですよ、だいぶ。
河野 そうよ、だいぶね。
吉川 長年作っていれば、一定のレベルは作れる。でもそれだけではダメだということですか。
河野 それはね、私に言わせてよ。
 私ね、カルチャーの教室をもう十何年やってきていますけれど、そういう人が凄く多い。うまい歌を詠む、本当に凄いなと思う。
 凄い人がいて、常に85点から90点の歌を作る人。うまくいけば100点の歌を作る。だけど120点の歌も詠まないし、20点の歌も作れない。平均点は非常に高い。
 そんなわけで、極端な、上がったり下がったりを鈍感に出せる人。自分が考える。ヒントだけでもいい、分かんなくても。それでも、それが出していける。何だろうな、あれはいったい。勢いというのか。
永田 やっぱりさっきの駄作の問題だよね。駄作を作れるということが多分要るんだよ。
河野 駄作を含めた歌を出せる厚かましさ、というか、鈍感さが凄く大事。
永田 名歌しか自分で許せないというのでは歌を続けるのが難しくなってくる。名歌しか私は作りません。外に出しません。許しません、というのは…
河野 その辺のええ加減さはとても大事で。
吉川 岡井隆さんと、この前話したんですけれど、「自分が恥をかく場面に自分を持っていくことが大事なんだ」と言っていましたね。常にきれいに作ることばかりに歌が行くとダメなんだと。
河野 徒然草でも同じようなことを言っているのね。

◆心の揺らめきが分かる/寂しさに錘がつく
河野 話変わりますけど、吉川さんが18歳で、ヨレヨレのセーター着てうちに来ました(会場笑) 私の息子は、早くに家を出てしまいました。短歌を作っていたんですけれど、途中で止めてしまいました。そうすると息子の内心が分からなくなりました。
 けれど、吉川宏志の作品読んでいると、自分の息子よりも吉川宏志のほうがもっとわかる。「あ、この人、今この辺で傷付いた」「失恋した」「ああした、こうした」というのが手に取るように分かる。
 短歌って不思議なもので、具体的なことを言わなくても、助詞助動詞の一字の使い方で「あ!」と分かる。
吉川 うん、あれは分かるんですよね。
河野 吉川君のことがある時に、今はそんなことはないけど、短歌を作っていると遠くても、離れていても、その人の感性のレベルとか、心の揺らめきとかがとてもよく分かる。あなただけじゃなくて、今日全国からいらしてくださっていますけれども、お顔を見なくても、作品を読んでいるから懐かしい気がする、よく分かる。
永田 やっぱり、吉川がさっき聞いていた、「家族で歌を詠むってどういうことか」ということなんだけど、そういうのってうちの家族の中でもありますよね。
 この前出た、河野の『家』という歌集が非常に良くって、読むと「こんなに寂しかったんか」と。やっぱり歌集で読まないと分からないところがある。あの寂しさというのは、横でガミガミ言われているときには、全然気付かなかった寂しさで。いやあ、ちょっとショックやったなあ。
 それって家族で歌を詠むとはどういうことか、ということに繋がるんだけど、娘でも息子でも歌を作って、家族全部が歌を作るのは凄く安心ですね。自分の歌を家族が読んでくれるというのも安心ですね。
 読んでくれる人がいると凄く嬉しいですね。それが家族だったら僕は非常に嬉しいし、あるいは雑誌で読んでくれる。この自分の中のある発見を誰かが拾ってくれる、これはすごく嬉しい。
河野 やっぱり、寂しいんだよね。寂しくて寂しくて寂しくて、どうすんの?布団かぶって寝ている訳にいかないでしょ?
 そのときに、短歌でも作ると、その寂しさに錘がつくわけね。浮き上がってしまう寂しさに、なんとか錘がついて、なんとか納得出来るわけよ、この寂しさの正体に。作っていくうちに自分の感情を重ねていく、そういうところがありますね。
吉川 やっぱり歌人って短歌を作るだけではダメなんですね。短歌を読まないとダメですよね。今、ほら結構「短歌をやっていない人に読まれたい」とかいう人って多いでしょうただ、やっぱり順番が違っていて、信頼できる短歌を作る人に、まず読まれることを大切にする、というほうがいいと感じますね。

◆「自分らしい歌」はダメ/老いを面白がる
永田 それと「いかにもその人の歌」というのは、あまり魅力ないんだよね。「この人がこんな歌を作るのか!」という方が面白いし。「あの暑苦しい人がこんなに苦しかったのか」とか。
河野 旦那に言っちゃダメよ(会場爆笑)
永田 いかにもその人らしい歌、つまり自分らしい歌を作ったらあかんと思うな。自分が自分で鏡を見て、それらしい歌を作ったらいけない。
吉川 歌でよく見るのが、「六十の我が」とか「喜寿の我が」といった表現(会場笑) あれは良くないですね。「○○の我は」と言ってしまうと――まあ、意味がある場合もありますけれども――「自分が○○だ」というふうに規定して歌ってしまうと、結論が初めから決まってしまう感じがするんです。
河野 「老い我は」も多い。
永田 老いが…さっきの新聞歌壇のときの話だけど、一番難しい問題だね。老いって「こんなに面白いモノはない」と思わないと、損だと思うのね。
河野 つまりさ、茂吉は、自分の老いが面白い訳よ、珍しくて。
永田 ただね、そこを面白がれない人も多いのね。斎藤茂吉なんかを見ているとね、自分の老いを、「どんな自分の老いが面白いのか」というのがいっぱいあるのよね。
 みんなそれぞれ自分の歳を、自分の齢で生きているわけ。で、その時どきの面白さを面白がらないと損なんだけど。老いっていうと、一様に寂しいもので、行き先もなくて、希望もなくて。
 もっとね、老いの歌は面白いし。とことんエロティックでもなんでもいいから「もっと思い切って外しなさい」って言うんだけど、それがなかなかできない。
 難しいけど…「歳をとると感性が鈍くなる」とよく言うけど、僕はそれは違うと思う。感性が鈍くなったんじゃなくて。吉川くんの年齢の頃には、あるひとつの言葉が出てくると、それに連なってズラズラズラッと言葉が出て来た。つまり、いろんな連想で、どんどんどんどん膨らんでいくんだけど。
 そういうのは確かに、歳をとるとそういうふうに言葉としての引き出しが、あんまり開かなくなってきた気はする。ただ、それは感性の問題とは関係ないんじゃないかな。
河野 いつも一緒に暮らしているときは、母とは日常的には平面的にしか付き合ってないけれど、母が歌を作っていて、それを読むと、「母さんという人は、こんなことを考えていたのか」「こんなことを感じていたのか」、もの凄く分かるの。そういうのがあるわけ。
吉川 最近、祖母が亡くなったんですけど、死んだ後に、祖母が言っていた言葉の断片が残るんですよね。謎のようなものも多くて、とても面白い。それがもし歌になって残っていたらとても良かったのに、と感じますね。

◆終わりに――歌集を写す
永田 最後に、一つだけ言っておきたいのは、歌を作り始めた当時、歌集を手書きで書き写したことが、自分の中で凄く財産になったと思いますね。学生だったので歌集を買う金がなくて、人に借りて、何冊も歌集写したよね。全部絶版になっているから。印刷物に集中したよね。高安國世さん写して、春日井建さん写して。河野さんは山中智恵子の『みずかありなむ』は僕の写本で読んだよね。
河野 大学紛争のド最中でしたから。
永田 われわれはもう本当にその世代ですから。大体、夕方から大学に行くんですね、で、バリケードの中に籠もって明け方帰って来る。すると、体中毳立ってくるんですよ。それこそ体も心も毳立ってくる。そんな時に、家に帰って山中智恵子の『みずかありなむ』、それを一生懸命写すんです。それが、凄い鎮静剤でしたね。自分の中でいろんなモノがスーッと消えて行くという実感があって。それは後にも先にも、それ一回だけでしたけど。
 人の歌集を写すって、今はコンピューター世代の若い人たちも多いから実感ないかも知れないけど、コピーペーストすることが出来ない。引用するときでも、コンピューターの中ではスッとコピーペーストしたら引用できちゃう。けどそれは薄いな、という気がするよね。一首一首引用するときでもやっぱり手で書く。書き写すことの大事さっていうのはすごく思いますよね。
 それは人の歌を覚えるということになりますからね。出会った時に「あなたのこの一首」って言えますから、素晴らしいと思いますよね。そんなことを思いました。
河野 そういうこといちばん苦手なのね。でも、あなた大学のころよくやっていたわね。
 でも、書き写すというと、上等の歌人、有名な歌人の歌だと思ってしまうんだけれど、それは違うのよね。素直にやっていくと。とにかく、写せば写すほど、その歌人が自分のなかに入って来る。…「写さんとあかん」って、当たり前だと思うけど、良くなるの。
吉川 たしかに歌集を書き写すのは大事ですね。僕も初めのころは村木道彦さんの『天唇』とか書き写しました。最近は時間がなくて、全然やれていないけど。
さて、そろそろ時間になりましたね。今日のお話、どうでしたでしょうか。かえって混乱された方もいるかもしれませんが(会場笑)
河野 悪かったなあ。
吉川 率直なお話、本当にありがとうございました。(会場拍手)
(了)

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